「...??」ピノキオ 思いついたら変えますさんの映画レビュー(感想・評価)
...??
まず疑問なのは、製作者たちは今この映画を新しくする価値について本気で考えたのかということだ。
イヤ、わかるよ?「今やるならこのオチであるべきだ、そっちのがいい話だ」なんてことは、台本なんて書いたことの無い素人にだって思いつくし、事実それはベターと僕も思う。それは幾つものフィクションを積み重ねてきた現代人の集合知が勝ち得たものだとまで賛美はできる。
ただね、そこに行き着くまでが不格好すぎちゃしょうがないでしょ。
本作は余りにも有名タイトルゆえの高慢さか、或いはクラシック映画を今更なぞる着恥ずかしさからか、「皆もうオリジナルは見てるよね?展開は全部知ってるでしょ?」と言わんばかりに、ストーリー上必要な説明をポンポン端折る。ジミニーが徐ろに「誘惑については前に話しただろう」と言った時は「アレ?オレ大事なシーン見落とした?」と狼狽えてしまった。メチャクチャ大事なシーンだと思うのだが...。スパイダーマンのベンおじさんのくだりみたいに短期間に何度もリメイクした訳じゃないんだから、書くべきとこは書こうよ...。
おまけに映画全体が「こんなピュアでメルヘンな話、信じて貰えないだろうけど...」と言わんばかりにシニカルな態度をちょいちょい気取る。「今は〇〇の時代だ」とほぼメタな発言で時代考証はメチャクチャになるし、「それ全部今日1日で体験したのか?」と登場人物のセルフ突っ込みで現実に引き戻す(アニメ版のゼペットじいさんはピノキオを探しに出てから普通に何日も経ってたのだから、完全に余計なアレンジだ)。
この映画は「ピノキオ」であって、「ピノキオのパロディ映画」ではないのだから、そこは「こっちのバージョンで初めてピノキオのお話に触れる子供たち」への誠実さを貫くべきだろう。ディズニーキャラクターの時計なんぞ並べて喜んでる場合ではない。昔話を茶化すのはシュレックにでも任せておけばいいのだ。
気はずかしいと言えば、本作は「ディズニーアニメだからなんの説明もなく成り立ってた部分」の化けの皮を自分で剥がしてしまっている。今回は手法が違うのだから、実写向けのやり方を恐れず選択するべきだろう。リアルな町になんの説明もなく狐と猫が歩いて来たらふつうに戸惑う。二人を人間にしたくないのなら、もっと絵本然とした半幻想的なセットを組むか、あるいはそれとなく「何が起きても不思議でない世界」である説明を挟むべきだ。
その狐と猫も、話題のブルーフェアリーも、出番が大幅に削られているのでそれぞれの役割がボヤけている。フィガロとクレオもだ。特にブルーフェアリーは本来ずっと行いを見守ってくれている、まさに神様のポジションだ。ピノキオが「平気で嘘をつくこと」を覚えかけるのを彼女が優しく戒めるシーンは、今回、逆に「嘘をつくこと」で窮地を自分で切り抜けるシーンに差し替えられている。どちらが教育的により好ましいかは意見が割れそうだが、どちらにせよ原点の牧歌的なメッセージと袂を分つ選択をしたわけだ。
で、彼らの出番が誰に持っていかれたかというと、中途半端な謎ヒロインである。
「おいおい、ピノキオにロマンスは要らんだろ」と突っ込みたいが、そもそもロマンスと言えるほど絆や心の支えとして気の利いた出番だったかと言うと、励ましてはくれるがピノキオを助けるそぶりはほとんど無いし、ストロンボリが捕まった話とか急すぎて「え?何?何?」ってなるんですけど...。旧作ファンに煙たがられるのを恐れて本筋に介入できなかったのか?なぜそんな腫れ物を自ら移植手術する??
アニメ版はピノキオが怖い思いを経て成長を見せると同時に、親友ジミニーを通じて「育てる側、教える側」の過酷さをも内包したダブル主人公ものだと僕は思っている。本作のジミニーは大部分のセリフをカットされた弊害で只の皮肉屋、狂言回しにしか映らなかった。
さっきも言った通り、新しい結論の提示はより美しい。ただそれが全部だ。
「今回のラスト、どう思う?」と映画が聞いてくるなら、僕はこう答える。
「とても共感できる。君がピノキオ全体について、もっと深く考えた上でしたためてくれてたら本当に良かったのに」。
>「誘惑」について話したのは、青の妖精…
すみません...もう1回視聴する気になかなかなれず、正直見て見ぬふりしていましたが...今日該当シーン見返しました。
ブルーフェアリーがジミニーを「良心」に任命する際、確かに「誘惑に屈しないよう導くこと」という一文がありました。ピノキオに向けての説明はジミニーに託されたまま終わっていたように感じましたが...原語ではもっとニュアンスが違うかもしれないですね。
ご指摘ありがとうございました。