<映画のことば>
島を出て、私たちの分まで生きて。
誰も助けてくれない。
自分で自分を助けるんだよ。
人生は、お前が考えているよりも、ずっと長い。
ヒョンスがセジンの消息を追うことにのめり込んで行ったのは、もちろん自分が抱えているプライベートな悩みごと…おそらくは警察を休職しなければならないほどに彼女を追い詰めた悩みごと…があったことは、疑いのないことでしょう。
セジンの消息を追うことにのめり込んでいくことには、おそらくは、「この仕事には、警察官としての復職がかかっているのだ」という、自分自身に対するもっともらしい言い訳を、自分自身に対して構えることができるからという構図も、たぶんに含まれていたことでしょう。
作中に出てくる「懲戒処分」というのは、日本に引き直して解釈すると、おそらくは分限処分ということの様子。
(この場合には、満度に休職をしても健康が回復しないという、本人には直接の帰責性はないのだけれど、公務能率を確保するという理由による免職=クビのことのようです。作中では、ヒョンスに何か懲戒処分に
値するような非行があった様子もありませんでしたから。)
ヒョンスがこの事件の報告書をまとめ上げることで、職務に耐える程度には健康が回復していることを審査委員会(?)にアピールしてくれようとしたことは、彼女の上官のヒョンスに対する配慮だったのだろうとも思います。
ときに、ヒョンスがどんな経緯で警察官になったのでしょうか。
そこは、本作の描くところではなかったと思うのですけれども。
しかし、「警察」という官僚組織ので生きていくには、ヒョンスは、もともと「線が細すぎた」のではないかと、評論子には思われました。
(あくまでも評論子の印象なのですけれども。)
言ってしまえば、ヒョンスにとっての「ひかり」は、官僚組織でもあった警察組織の中には、探しても見出すことができなかったということでしょうか。
原題の邦訳は『私が死んだ日』だそうですが、そう考えると、原題(の邦訳)の方が、しっくりと来るようにも思われます。
ヒョンスの、そういう「線の細さ」に比べて、島の住民たちは、もっともっと「線が太かった=したたかだった」というのが、評論子の印象です。
冒頭の映画のことばは、もちろん、セジンが隠れ家としていた「スンチョンから来た人」のものでしたけれども。
実際、セジンの失踪劇は、島の住民も(暗黙裡に?)了解したものだったのだろうと、評論子は思いました。
もしもそうでなかったとしたら、島にはたった一つしかないという船着き場から、彼女が島の住民の目につかずに島を離れる出ることは、ほぼほぼ不可能性(例えば、セジンが潜り込んだ船は、島民以外の、いったい誰が操るのか?)
寝たきりの娘の名前でセジンのパスポートまで作ったのはよいとして。
島民ぐるみの構図が、もしなかったと仮定したら…。
セジンは、そんな島民の思いにも守られて、「イ・スンジョン」として、永く暮らしたことを、評論子は信じて疑いません。
そこに、本作の邦題となっているように、一縷(る)の「ひかり」を探し当てることができるようにも思われます。
佳作だったと思います。
評論子は。
(追記)
本作の全体を通じて、「公務職場」の特質というのか、そのディテールについては、よく取材されているという印象でした。
国こそ違え、同じく公務職場に職を得ている者としては。
そんなことにも、評論子には好印象の一本でした。