tick, tick...BOOM! チック、チック…ブーン! : 映画評論・批評
2022年3月1日更新
2021年11月12日よりシネ・リーブル池袋、ヒューマントラストシネマ有楽町、アップリンク吉祥寺ほかにてロードショー
ラーソンが憑依したかのような圧巻の歌と演技! 若き天才の苦悩と葛藤の日々を緻密に描く
刻一刻と時は進む。誰にも平等に与えられているはずの時間、彼はあと8日で「90年の人生の三分の一」を迎える。チック、タック…人生の分岐点へのカウントダウンが続き、時計の針が止まった瞬間に爆発する。彼はそう信じている。だからタイトルは「tick, tick...BOOM!」だ。
1990年1月26日、30歳の誕生日を前にジョナサン・ラーソンは人生の分岐点にいた。8年の歳月をかけ、ショージ・オーウェルの「1984年」をロック・ミュージカルに仕立てた「スーパービア」のプレゼンテーションまで1週間、第2幕を飾る曲がまだワンフレーズも浮かんでこない。何度も挫けそうになった彼を支えたのは、1957年に初演された「ウェスト・サイド物語」の歌詞と作曲の一部を担当したスティーブン・ソンドハイムだ。ラーソンに天賦の才があると確信した巨匠からの助言が心の糧となる。
映画は、僅か10ドルの特別料金で、ワンナイト・オンリーで上演された伝説の舞台を横軸に、ラーソンが葛藤する日々を活写していく。緻密に設計された歌と踊りに日常のドラマを重ねることで、主人公の焦燥感を更に加速させる編集が冴える。「イン・ザ・ハイツ」のマイロン・カースタインとダーレン・アロノフスキーやウェス・アンダーソン作品で知られるアンドリュー・ワイスブラム、ふたりの編集マンがアカデミー賞【編集賞】にノミネートされたのも頷ける。
90年代当時は不治の病とされたエイズによって、ラーソンは何人もの友を失った。いつ誰に襲いかかるかも知れない。先が見えない危うい空気感は、今、我々の眼前で起こっていることにも重なる。夢は人を食い尽くす。自分が抱いた無限の未来は大きすぎるのか。ソーホーの東で暮らし、カフェのウェイターで食いつなぎ、四六時中ミュージカルのことばかり考えている。こんな僕に輝ける明日はあるのか…。
時にカメラ目線で語りかけ、時に仲間たちとの時間に身を委ね、時に喪失感に苛まれて心がへし折れそうになる。僅か8日間、だが濃密な日々を背負ったアンドリュー・ガーフィールドは、ラーソンが憑依したかのような圧巻の歌と演技で疾走を続ける。まさにオスカークラスの熱演だ。
監督として「Tick,tick…BOOM!」にエターナルな輝きを与えたのはリン=マニュエル・ミランダ。2008年、「ウエスト・サイド物語」がスペイン語を交えて再演されることになった時、ソンドハイムが相談を持ちかけたのは、当時「ハミルトン」の原型となるミュージカルを準備していたミランダだった。パフォーマンスはもちろん、ビデオ、フィルム、8ミリと画角の差違で時代を照射し、恋人のために用意した予約席まで、細部に目が行き届いた演出が効いている。
その後、ジョナサン・ラーソンは「ラ・ボエーム」を現代に置き換えた「RENT」を仕上げる。だが、開幕前夜の1996年1月25日、大動脈瘤破裂でこの世を去る。享年35歳。師であるソンドハイムは2021年11月にラーソンが生きたいと願った時間を全うし91歳で逝去した。ソンドハイムからラーソン、そしてミランダへ。ミュージカル界の三大巨星のDNAが引き継がれて結実した果実には、人生を豊かにする苦みが満ちる。それでもラーソンは歌い続ける。「ひとりじゃない、僕には仲間がいる」のだと。
(髙橋直樹)