パワー・オブ・ザ・ドッグのレビュー・感想・評価
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緊張感を誘発するカンバーバッチの存在感
ジェーン・カンピオン監督に第94回アカデミー賞で女性としては史上3人目となる監督賞をもたらした力作。主演にベネディクト・カンバーバッチを迎え、1920年代の米モンタナ州を舞台に、無慈悲な牧場主と周囲の人々との緊迫した関係を描いた人間ドラマだ。
とにもかくにも、大牧場主のフィルを演じたカンバーバッチの緊張感を伴う繊細な存在感が、観る者の視線を釘付けにしてしまう。興味深いのは、西部劇というフォーマットを使いながらも、根底に流れている作品のメッセージは現代を生きる人々の心の裡と乖離していないという点だ。
サスペンス的な要素もふんだんに盛り込まれており、これから鑑賞しようとしている方々に対しても、十分に期待を裏切ることがない展開が用意されている。
Slow Minimalist Film that's Inviting to Watch
The Power of the Dog is a much-needed cinematic meditation designed by Jane Campion, a classic female director who has been out of the chair for over a decade. As in The Piano, the film explores the mysterious side of human sexuality. As homoerotic as it may be, the film overall lets the viewer reflect on what shirtless cowboys could mean. Challenging, poetic films are a rare gem from Netflix.
何かに憑かれたようなカンバーバッチの眼差し
1925年のアメリカ、モンタナ州で大牧場を支配しているのは、西部男のエッセンスをぎゅう詰めにしたようなマッチョで頑固なフィルだ。しかし、フィルにとって最も近しい存在だったはずの弟、ジョージが、食堂の主人、ローズと結婚することになり、兄弟の関係は軋み始め、やがて、とんでもない方向に展開していく。
フィルはその男性的な風貌や価値観とは裏腹に、実は東部出身のインテリで音楽の才能もあること、男らしさを強烈に発散している反面、ある秘密を隠していること、などが、ローズと、そして、彼女が連れてきたか細くて女性的な雰囲気を漂わせる息子、ピーターと出会ったことで、徐々に解き明かされていくのだ。
多少勿体ぶった描写はあるものの、話の展開はスリリングで心理サスペンスとして目が離せない緊張感が続く。マッチョの象徴だったフィルが少しずつ素顔のベールを脱いでいく一方で、ピーターが隠し持っていた気骨を徐々に露わにしていくプロセスは、何かが起きそうな気配がしてドキドキする。
ジェーン・カンピオンは今の時代に通じる男性性のまやかしを西部劇のフォーマットを使って訴えかけているようだ。でも、筆者は自分らしくない人生を選択してしまったフィルの悲劇性にも心を突かれた。演じるベネディクト・カンバーバッチが何かに憑かれたような男の眼差しをカメラに向かって投げかけ続けるからだ。最近のカンバーバッチは絶好調だが、本作はその中でもベストだろう。
どこまでも男くさい男の切な過ぎる秘めた想い
第94回アカデミー賞最多ノミネート作品ということだが、なかなか観る機会がなく、ようやく鑑賞。
うーん、個人的にはちょっとこの重さは苦手ではあるが、広大な景色を惜しみなく映し出す映像と、そして何よりベネディクト・カンバーバッチの迫真の演技は心の奥深いところをガシッと掴んでくる。ベネディクト・カンバーバッチ演じるフィルの生き様は、荒々しくもとても繊細で、行き場のない切なさに胸が引き裂かれる想いだ。
本作が大々的に高評価されている所以はじゅうぶん理解できるのだが、様々な面においてとても残酷なストーリーともいえるゆえ、好みがハッキリわかれる作品ではあるだろう。
☆☆☆★★★ ネタバレをする気はさらさらないのですが。この作品に限...
☆☆☆★★★
ネタバレをする気はさらさらないのですが。この作品に限っては、何を書き込んでも。万が一、未見の人の目に止まってしまうと。感の鋭い人だと、何となく気が付いてしまう恐れがあるので。この先少しだけ行間を空ける事にします。
後数分で上映終了〜と言えるその直前まで…
「…これって一体なんだったんだ!」
真剣にそう思っていたその直後、画面に映った場面を見た瞬間に、、、
「嗚呼!そうゆうことだったのか〜」…と。
それまでの疑問点がそっくり氷解したのだった。
それにしても実に意地悪である。
何しろ一切の説明をしてくれないのだから。
本来ならば、登場人物達の台詞であり行動には、ある程度は場面場面での前後に、観客を意識しての多少なりの説明は必要であるのに…
それが一切ない為に。本編中の謎は、謎が謎を呼び、更なる謎が増幅する。
正直言って「う〜ん!映像や演技等、何から何でも良く出来てるのに何でこうも不親切なんだろうなあ〜!」
…と思っていたところでの出来事だっただけに本当にビックリした。
…と同時に「成る程!」と、一気に憑き物が落ちた。
もしも観客に説明的な台詞やショットを挿入してしまうと、この驚きには繋がらないのだな…と。
ほんの一瞬映るクローズアップであり、小道具等。如何にも「コレは何か理由が有って撮ってますよ!」…と言った編集のショットが一切ない。
もしもそれらが映る映像を、後1秒程度長めに編集していたとしたら…
途中で少しでも意味ありげなショットだと観客に意識されてしまったならば、最後に「そうだったのか〜!」と言った思いには至らなかったと思う。
…と書き込んでみたものの、「じゃあもう一度最初から」とはなかなかな行かないんですよねえ。
何しろ、鑑賞前は「何だか評判高いみたい。でもあんまり好きな監督じゃあないのが、、、」だっただけに💧
案の定鑑賞中は「どうなんだコレ!」と思う時間がかなり長かったのよねえ〜(´-`)
取り敢えずはジャンル分けをするとサスペンスにあたるのでしようね。
見た目だけだと西部劇の様に見えて、実はゲイ映画としての側面もあり。心理戦が前面に出た地味目なところも、大衆性に趣きを置く賞レース等ではどうなるのだろう?
2022年1月14日 キネマ旬報シアター/スクリーン1
官能性と精神性の混濁が希薄でサスペンス風味も乏しく統一感のない作品
『ピアノ・レッスン』とか『ある貴婦人の肖像』とか、カンピオン作品は官能性と精神性を混濁させた作風が好きなので、今回も期待して観た。
本作も官能性、特に男性フェロモンには事欠かず、精神性という面でもフィルのブロンコ・ヘンリー崇拝やフィルとピーターとの虚実混淆とした交流等がある。
とはいえ本作はわかりやす過ぎる。官能性と精神性の濃度が希薄なうえ、それらがはっきり区別され、単純なサスペンス映画と化している。ここには『ピアノ』のような言葉に出来ない雰囲気の素晴らしさ、濃密な何かが見られないのである。
その割にサスペンスの要素をぎりぎり塗り固めていくのではないし、モンタナの美しい自然、林に囲まれた静謐で小さな池やなだらかな丘陵の曲線を描くことで、逆に作品の統一感を殺ぎサスペンス風味を希薄にしている。
カンピオンは何を描きたかったんだろう? インタビューを読むと、「原作はトーマス・サベージが書いた同名小説。じわじわとした恐ろしさが迫り、観終わった後も強い余韻が残る優れた心理スリラーだ。原作小説を読んだ後、カンピオンも同じように感じたと、米ロサンゼルスで行われた会見で彼女は語った」というが、恐怖の前振りもろくになく、如何せんまったく怖くない。
また、キャラクター描出は相変わらず巧みだが、ジョージやローズは何のためにいるのかわからないくらい存在感が乏しい。
「読み終わった後も登場人物やテーマやディテールについて、いろいろ思い起こしては考えにふけってしまった。そのうちに、こんなに気に入っているのだから、自分で映画にするべきではないかと思うようになった」という。
意余って言葉足らず…か。いや、意そのものが足りなかったのではないか?
観終わった後の余韻がすごい
観終わった後に、あれはどういうことだったんだろうか?これはこういうことだったのか、いやこういう解釈もありえるな、など、再度最初から最後まで伏線を追い色々な解釈が頭を巡る、そういう作品が大好きだ。本作は、そういった意味で鑑賞後もしばらく作品の余韻にどっぷり浸って抜け出せない(いい意味で)。おかげで昨夜はあまりよく眠れなかった。
ベネディクト・カンバーバッチ演じるフィルは、その言動から誰がどう見ても男臭い粗野で野蛮な生粋のカウボーイ。実家の牧場経営に生涯を捧げるこの田舎のカウボーイは、実はイエール大卒の秀才でもある。弟ジョージの妻ローズに憎悪とも嫉妬ともいえる複雑な感情をあらわにし、ローズの連れ子ピーターとの間で少しずつ発展する関係のなかで、徐々にフィルのもう一つの面が姿を現してくる。威圧的な外面、精緻な頭脳、誰にも見せていない内面。複雑なこの人物、ものすごい難しい役のはずだが、カンバーバッチが流石すぎる演技で圧倒してくれた。本当に素晴らしい役者。
そして、ピーター役のコディ・スミット=マクフィーが、これまた引けを取らない演技を見せてくれている。登場はヒョロヒョロで弱々しい印象だが、実は彼の亡き父が言ったように「強すぎる」魂を秘めていた。そしてこの物語の最後をがっつりもっていくわけだが、ラストシーンの彼の微笑とともに冒頭のナレーションが頭をよぎり、ああやはり彼は強かったのだ、となんとも言えない感情に浸りながらこの作品を観終えた。ピーターが一本の煙草をフィルと分け合い吸っているときの妖艶な表情が忘れられない。
未だに不思議なのは、ピーターが目的を果たせた過程に、いくつかの偶然が重なっていた
ようにみえたこと。この偶然が無ければ、そもそもどうやって目的を果たそうと考えていたのだろうか?それとも、偶然ではなくピーターの策略で起きたものだったのだろうか(でもどうやって)?わからない、、、でもわからないから、面白い。
久しぶりに素晴らしいヒューマンドラマに出会うことが出来た。
ドラマ映画を好んでみている人 考察が好きな人向けの映画
事前情報を仕入れずにネットフリックスにて鑑賞。
映像一つ一つはなんとなく分かる→解説ブログ「なるほどそうだったのか !」となるので
繰り返し見ると理解できるんじゃないかな……
(この映画を二回も見る気にはなれないけれど……)
ベネディクト・カンバーバッチ
2022年6月24日
映画 #パワー・オブ・ザ・ドッグ (2021年)鑑賞
西部劇でありながらテーマは現代的なこともあり、見終わったあとの満足感は高かった
女性監督が描いていることを強調すべきではないのだろうな
良作で、オススメです
滑り込みで観たけど、作品書受賞しなかったなあ
アカデミー賞作品賞最有力候補と聞き、受賞して込んでしまう前にと滑り込みで観た。(作品書は受賞しなかったけれど)
主題を直接語ることはなく、雰囲気を感じ取ってくれという映画。気合を入れないと、「なんだ?この映画」となりかねないヤツ。
主人公は、イエール大で古典を専攻したインテリなのに、父の大牧場を継いだので、いわゆる肉体労働者であるカウボーイたちを率いており、風呂にも入らない、荒くれ者たちに近い生活をしている。態度もぶっきらぼう。マッチョでありたいという思い、あるいはこの立場はマッチョであるべきという信念か? 弟は兄のようにできる者ではないが、兄と一緒に牧場経営に励んでいる。マッチョでありたい兄にとって弟という存在は、頼りないが守ってやらなければいけない存在なのだろう。その弟が、宿屋の女主人、離婚歴があり子持ちの女性と結婚して、流れはかわっていく、という話。主人公は、弟が結婚したことも100%納得できないし、結婚相手の息子ピーターの柔らかな物腰も気に入らない(主人公にとっては「男らしくないヤツ」)。しかしふとしたきっかけから、主人公とピーターは仲良くなっていく。だがしかし・・・
まずはやはり多くの方が語っている、マッチョの話なのだろう。
主人公「男を強くするのは苦境と忍耐だ」
ピーター「ぼくの父は、強くするのは障害物だと言った。そしてそれを取り除けと」
主人公「お前には障害物がある。お前の母親だ。母親はぐでんぐでんだ」
このやりとりは、最後まで観ると思わすこの部分を思い出すかと思います。
そして俺がこの話を観てもうひとつイメージしたものは「依存」。主人公は、明らかに弟に依存している。だから同じベッドに寝るし、弟が結婚することがなんだか気に入らない。兄としてはずっとかまって守っていたつもりなのに、弟はずっとひとりだった。主人公は弟を支配していたかっただけだったのだろうか。
主人公が崇拝している、主人公が子供の頃、いろいろなことを教えてくれ、荒れた天候の中で裸で彼を温めてくれたたマッチョな、ブロンコ・ヘンリーという存在。
主人公「ブロンコ・ヘンリーは目を使うことも教えてくれた。あの山になにが見えるか、わかるか?」
ピーター「ほえてる犬。最初に来た時に見えた」
主人公「すぐに、見えただって?」
このやりとりがふたりの仲が変化するきっかけ。誰も自分と同じように見えてくれない中で、とうとう現れたブロンコと同じものを見られる少年。主人公の保護意欲は、すでに妻帯者となってしまった弟から一気に息子へと。つまり主人公が依存する対象が、弟から息子へ移る。
そしてまた、弟の妻もまた息子ピーターに「依存」している。息子はそんな母親に優しく対応する。
弟も、市長夫婦を牧場に招くことに成功するが、「兄貴がいないと(インテリ相手の)話がもたないから、家にいてくれよ」と懇願する点では兄に依存している面がある。
以下はネタバレなので、観た人だけ読んでください。
腐った動物の死骸に、しばらく漬けられていたかもしれない、炭疽菌漬けかもしれないロープ。
それは息子ピーターのベッドの下に眠り、今後もずっと、人の眼には触れないだろう。
ピーターは、父親が言う通り、自分で障害物を排除し、強くなり自分の道を切り拓いたわけだ。
真にマッチョ、「強い人」であるのは誰なのだろうか、という映画と俺には感じられた。
荒々しさの中の最大の繊細さ
後味が、ちょっとおいしくないエンディングだけど、フィル、ジョージ、ローズそしてピーターこの4人の存在感が、物語が進むにつれて、だんだん気になっていく不思議なこの感覚。十分味わいました。女性監督だからこそ、この映画の中に漂うピリピリした異様または異常な空気は持ち出せると感じがします。特にローズが弟ジョージと結婚して、ピーターと牧場に住み始めた頃からの、フィル自身の本当の姿をあらわに出る所々の場面には、男らしく周りの人から頼られるマッチョな雰囲気を表面に出す反面、どこか弱々しくエロティクにも見える描写。見ていて固まってしまいました。
映画好きが映画館でじっくり観たい映画なんだけどね〜
アメリカ西部の広大な牧場で
颯爽と馬を駆るドクター・ストレンジ!
では無く、ベネディクト・カンバーバッチ。
最初に作品紹介を読んだ時にカンバーバッチのカウボーイ?
なんかピンと来なかったけど実際に映画を観てみると
彼以外に考えられないくらいカンバーバッチにピッタリの役!
西部劇の牧場主と言うとテンプレ的な荒っぽい男を連想しがちだけど
カンバーバッチ演じる牧場主は大学を出て楽器も嗜む知的な男。
それでいて荒っぽいカウボーイ達がちゃんと従う様な
強い一面をもっており、常に自信に溢れた男で誰に対しても上から目線。
牛を移動させる道中に立ち寄った小さな宿屋、
切り盛りする未亡人と、その息子の痩せっぽちの高校生を
露骨に馬鹿にした態度を取る。
気に入らないなら単に無視すれば良いだけなのに
わざわざ馬鹿にした言葉を皆の前で投げ付けるなんて.....
彼自身がある意味で己の男性性を誇示する事に
異常に拘っていることが伝わって来るシーン。
嫌味過ぎて、観ているこっちまで緊張して来る。
そんな男にも実は、誰にも言えない秘密があった!
さらに、心優しい男に見えた牧場主の弟も、また
違った意味での女性蔑視の塊であった。
そして、物語の中盤からあの痩せっぽちの息子が
物語を意外な方向に導いてゆく。
中々に複雑で今日的な見応えのある映画でした。
最後に笑うのは誰か?
見応え有りの作品でした。
で、月に8本ほど映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては
本当は映画好きが映画館でじっくり観たい様な
映像的にも内容的にも重層的な複雑な映画!
ネットの小さな画面で観るだけなんて勿体ないわ〜〜
昨年暮れに一部の映画館で期間限定で上映されていたけど
あの「ピアノ・レッスン」のジェーン・カンピオン監督の作品と
ちゃんと認識しておらず、うっかり見逃してしまいました。
「ピアノ・レッスン」は夫の有害な男性性により
心が壊れゆく妻と娘、そしてその再生を描いた映画だったと
記憶しているのだけど、今作は有害な男性性プラス
その男性性を持って生きなければならなかった男性も実は
結構苦しいと言う中々に奥深い作品になっている。
Netflix作品と言うことでアメリカのアカデミー賞では
監督賞しか取れなかった訳だけど
Netflixでなければこの様な内面的な奥深い映画に
お金を出してくれなかった。
映画館でじっくり観たい本当の映画好きに向けた作品に
お金を出せない映画界が、ネット配信の作品を目の敵にして
賞を与え無いと言うのも本末転倒で実に情けないわな。
期間限定でもこの様な良い作品を上映してくれた
Cinema KOBE のスタッフの皆さん!
本当にありがとうございました。
流麗だが不気味な音楽が非常に効果的な一作。
第94回アカデミー賞で監督賞を受賞した本作、出来映えを鑑みるとカンピオン監督の受賞は当然と思えるものの、作品の持つ力強さ、前評判の高さからすると、他の部門での受賞をことごとく逃しているのはとても意外でした。
米国西部が舞台となっているものの、撮影はカンピオン監督の故郷でもあるニュージーランドとオーストラリアで行われています。それもあってか人々を取り囲む風景の雄大さは非常に印象的ですが、とは言っても、西部劇として見ても全く違和感を感じませんでした。ロケーションの選択の巧みさでしょうか。あるいは実際に米国西部に住んでいる人からすると違いが分かるんでしょうか?
題名を旧約聖書から引用するなど、そこかしこに宗教的な要素を見て取ることができます。牧場主の兄弟による絆と諍いの物語は、カインとアベルの物語をなぞるように展開するのかと思いきや、ベネディクト・カンバーバッチ演じるフィルの複雑な人物造形は、観客の憶測を超えた側面を見せます。荒くれた男達を率いるために、過剰とも言えるほど「男らしさ」を強調する一方で、実は深い学識と教養、さらに美的感覚を備えた人物であることが明らかになっていきます。自分の生き方に信念を持ち、自信に満ちあふれているように見えるフィルの内面の葛藤を本作では、流麗な筆致やクラシック曲の口笛などで効果的に表現しています。
風景に目を奪われがちですが、本作では音楽が重要な役割を担っており、例えばローズ(キルスティン・ダンスト)とフィルが一種の共演を行う場面において異様な緊張感をかき立てます。本作の音楽担当は、レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドとのこと。それもあってか、本作を観ながらどことなく同様に彼が音楽を手がけた『ファントム・スレッド』(2017)を連想しました。
ものすごく余談ながら、予告編のタイトルに誤植があり(『パワー・オブ・ザ・”ドック”』になっていた)、危うく間違えて周囲に吹聴するところでした…。公式の予告編映像は直して欲しい…。
映像と音楽は素晴らしいが…
1925年、西部モンタナ。マッチョな牧場主の主人公が、弟の結婚相手とその連れ子を毛嫌いするが、自らの秘密を連れ子に知られてから、徐々に連れ子と親密な関係になっていく。
荒涼とした山並みや牧場風景を写し撮った映像は素晴らしく、生楽器を使った音楽は、不穏で緊張感のある作品世界に大きく貢献している。
題材はホモセクシャルだが、主人公が粗暴で無礼な振る舞いをするのも、自らの性向を隠すためだということがわかってきて、中性的な連れ子に徐々に惹かれていくあたりは、物悲しく、憐れみさえ感じてしまう。
結末は衝撃的で、それまでの伏線が回収され、なるほどと思いつつ、描きたかったのはこっちなの?だからどうしたの?とも思ってしまった。後味がすっきりせず、自分にはあまり響かなかったのが正直なところ。
役者陣では、B・カンバーバッチはがんばっていたが、何と言っても、連れ子役が、表面的な線の細さと、内面的な芯の強さ、不気味さを醸し出していて、出色だった。
こじらせ男だね。
カンバーバッチだしジェーン・カンピオンだしで見とかなくちゃと観賞。
ピーターってなんとなく「少年は残酷な弓を射る」のケビンを思い出しちゃいました。
若い男の子ってやせっぽちで、目が大きくて可愛くて怖い感じだから似てるように思えたんでしょうね。
顔とか全然違うのにね。
カンバーバッチはさすがの演技でした。あの頃のこじらせ男を見事に表現してくれてました。自分では絶対認めたくない男色傾向を女を嫌う事で心の中に落としこんでる。
ピーターにも自分をしたう男になって欲しかったのよね。
第一章のピーターの語りがちゃんと最後まで効いてたのね。
ああいう手で母の障害物を排除するとは!
カンピオン監督お見事でした。
吸引力つよっ!
カンバーバッチ演じる
フィルの存在感が半端ない。
フィルとジョン
フィルとローズ
フィルとピーター
このフィルと関わる三人も、またそれぞれが良いのです。
夏休みのピーターの不穏な動きで、
フィルとピーターのラストへの展開は読めたけど、
「そうはならないで!!」と願いながら、
スクリーンに引き込まれ続けました。
淡々としているのだけど飽きない。
やはり、演者の魅力と、演出の妙と、
映像美に、自然の壮大さの総合作用による引力の強さかなぁ…。
何かを学んだわけではないのだけれども、
余韻がすごい…不思議な感覚。
そして、なんにせよピーター、こわっ!!!
マザコンで片付けたら、それまでだけどね…。
1920年代という人間の転換期
やっと宿題だった本作を観ることが出来た。まずは再上映してくれたこの“塚口サンサン劇場”に感謝ですね。
今やこの劇場は(娯楽系・アート系含む)私の劇場で観たい作品の8割位は上映してくれるので凄く助かり、個人的にはなくてはならない存在になっている。(実は本作も再映するかもと期待というか予測していたのですが…)
で本作の感想ですが、まずは予想以上に複雑・多層的であり、精緻な人間ドラマという印象ですね。
鑑賞後これがアカデミー作品賞ではなく「コーダ~」の受賞で正解だと思いました。
だってアカデミー賞って他の国際映画祭とは違い、大衆映画の為の賞であり続けていたし、こちらは大衆映画と呼ぶにはちょっと高尚過ぎるし、本作を理解するには相当映画を観極めた人であろうし、“大衆”とは本作レベルの作品を理解出来る対象の呼称ではありませんからね。
私も1回だけの鑑賞だと全容を理解するには難しい作品でしたが、今流行りのテーマである“トランスジェンダー”や“多様性”などを含めつつ新時代の転換期である時代の舞台設定が面白しく感じられました。
アメリカ映画の純粋な西部劇の大半は1860~65年の南北戦争辺りの設定が多いのですが、本作の様な1920年代の西部が舞台の映画って私の記憶では「ジャイアンツ」('56)「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」('07)などがあり、それらは共に前時代と新時代のはざまに起きる価値観の変化に対する葛藤が内在する人間ドラマとなっていて、本作もそうしたテーマが核となっていた様に思いました。
ただ、頭の悪い映画宣伝部のよくあるミスリードを招くような解説文が本作でも見受けられ、レビューの中にもその解説に影響されたような的外れというか「木を見て森を見ず」的感想が多かった様に思えます。
例えば映画comの解説の一文に「無慈悲な牧場主と彼を取り巻く人々との緊迫した関係を描いた人間ドラマ」とありますが、恐らく本作を観る前に一般の人がこの文を読んでしまうと、この“無慈悲”という言葉に完全に引きずられてしまうでしょうね。私は観終わってから読んだので、的外れな単語だと思いましたよ。そんな単純なキャラ設定ではなかったでしょう。
まず本作の主人公って、本当にフィル(ベネディクト・カンバーバッチ)なのか?、私は鑑賞中、主人公無しの群像劇だと思い観ていました。
で、単純にフィルが悪役だとも全然思えませんでした。主な登場人物は全て少し異様な一面が描写されていましたからね…
特にピーター(ひょっとするとこちらの方が主人公)は完全にサイコパスでしたし、フィルはサイコパスではないが、彼の中に自分と同じ性質を見出していたと思われ、母親はピーターからすると(愛情とは別の)守るべきアイコン的存在に過ぎなかった様にも感じられ、母親はアルコール依存症であり、この3人は明らかに社会的マイノリティーであって、ただジョージというのは、どの時代のどの社会にもいる一番の弱者でもあり、一番のマジョリティーでもあり、マス(鈍感・自分勝手)の象徴的存在に思えました。
なので、フィルを主人公としたサスペンス映画としてだけ追って見ると非常に薄っぺらいドラマになる様な気がしますが、この作品の奥深さは、ある時代の社会の転換期を一つの家族の出来事として集約して描かれているという観方や解釈も出来る物語構成でした。
これ以上の事はまだ私も整理が出来ていせんが…、もう一度見直したい作品です。
追記,
しかし、画面にキルステン・ダンストが登場し(かなり年取ったなと思って見ていると)息子に「ピーター」って呼ぶのを聞いて、思わず笑ってしまった。
異色の西部劇 やっぱり西部を描いている
モンタナ州は今でも「偉大なる西部」と呼ばれているそうで
きっと壮大な自然が広がる所なんだろう
1920年代が舞台というから時代的には『ギャツビー』の時代と重なる
東部と西部ではこんなに違ったとは言え、既にモンタナの町の中では
女性が自動車を運転していたり、ドレスの裾も短くなってきている
そんな、いわゆる一世代前の西部劇とは違う世界に住むフィル一家の物語
カンバーバッチ演じるフィルと弟の連れ子のピーターとの
距離の縮め方が見ていてハラハラさせられる
特に2人が煙草を吸い合うシーン、ピーターの誘うような目線に釘付けになった
フィルの秘密の場所でのシーンも美しいばかり
次第に深いところで交差するかに思わせた後でのあのラストは
怖いくらいの驚きだった
フィルは東部の大学に在籍していたという設定なのだが、
時代に背を向けているのに、実は西部の男達の世界には
本当には溶け込めていない、どちらにも真実の居場所がみつからない、
そんな人間に見えた
今時の西部劇はこんなに複雑な内容を含んでいると思える面白い作品だった
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