「九州で暮らすシングルマザーの谷口里枝(安藤サクラ)。 夫と暮らした...」ある男 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
九州で暮らすシングルマザーの谷口里枝(安藤サクラ)。 夫と暮らした...
九州で暮らすシングルマザーの谷口里枝(安藤サクラ)。
夫と暮らした横浜から離婚後、実家に戻り、役所勤めしながら実家の文具店を手伝っていた。
ある日、文具店にスケッチブックを買いに来た青年(窪田正孝)がいた。
どことなく暗い感じで、どこか他所からこの町に来たらしく、いまは山仕事の見習いのようなことをしている。
暗い感じだったが、無口で誠実なところがあり、しばらくして彼は里枝に自分が描いた絵を見せ、谷口大祐と名乗った。
絵には、神社で遊ぶ里枝の一人息子が他の子どもたちと一緒に描かれており、それがきっかけで二人は交際するようになり、やがて結婚、ふたりの間にもうひとり娘を授かることになる。
が、不幸にして、彼は伐採作業の際に事故を起こして、倒木の下敷きとなって死亡してしまう。
一年後、一周忌の後、彼が生家と言っていた北関東の温泉宿に連絡をし、彼の兄という人物・谷口恭一(眞島秀和)が訪ねてくるが、仏壇の写真をみた恭一は「写真の人物は弟とは似ても似つかない・・・」という
といったところから始まる物語で、その後、里枝が離婚の際に世話になった弁護士・城戸章良(妻夫木聡)に連絡し、大祐と名乗っていた男性の素性を調査することになる。
ミステリの物語としては、宮部みゆき『火車』などで描かれた戸籍交換の物語で目新しさはありません。
そう、目新しさはないんです。
谷口大祐と名乗っていた人物の素性が殺人犯の息子というのもテレビの2時間ドラマで幾度となく登場した設定で、新しくはありません。
だからといって、この映画がつまらないかというとそうではなく、常に観ている側を不安に陥れてくるあたりが興味深く、その原因がどこにあるのかを考えながら観ました。
観ている側を不安にする要素は、ずばり「アイデンティに対する不安」「自己存在に対する不安」です。
自己存在に対する不安といっても、いわゆる自己肯定感の乏しさ、自己に対する承認欲求への不満とかというものではありません。
アイデンティを、理系的に分析したというか、そういうところです。
少々七面倒くさい話になりますが、大学時代にスイスの学者ソシュールの記号論を学びました。
言語や記号はふたつに分解でき、
ひとつは、言語は音声、記号ならばその形象(シニフィアンといいます)
もうひとつが、その音声・形象が指すイメージ・概念、ないしその意味内容・本質(シニフィエといいます)
です。
記号論を推し進めると、いわゆる音声・マークなど記号のほかの物事を、シニフィアンとシニフィエに分解することができる、というものです。
(かなり昔に習ったことなので、現在は変化しているかもしれませんが)
さて、自己のアイデンティというものも、シニフィアンとシニフィエに分解が可能で、
名前はシニフィアンで、自己の本質的存在はシニフィエと言えます。
窪田正孝が演じた男の最終的なシニフィアンは谷口大祐で、
谷口大祐には「老舗温泉宿の次男坊」というプロパティ(属性、付属的性質)があります。
しかしそれは男のシニフィエではありません。
シニフィエは、殺人犯の息子というプロパティに苦悩して生きてきた「暗いけれど誠実な男性」です。
しかし、多くのひとびとは殺人犯の息子というプロパティを、男の本質だと見誤ってしまう・・・
そして、谷口大祐の過去を調査するうちに、自身のアイデンティに不安を感じる男が、弁護士の城戸章良。
彼のプロパティは、人権派弁護士のほかに、在日韓国人三世というものがあります。
(柄本明演じる戸籍ブローカーの言では「男前の」というのもありますが)
その城戸は、調査の過程で自身のアイデンティのシニフィエを見失っていきます。
(「暗くはないが明るくもない、が誠実な男」といったところでしょうか)
ここが怖いところです。
表層と属性に惑わされて、自己の本質を見失う・・・
何々社の誰それさん、どこどこのパートさん、誰それのおとうさん・おかあさん、
何々で活躍したひと、何々でしくじったひと・・・
それらは本質じゃない。
じゃないけれど、それらが持つ意味は社会的に大きい。
そして、自己の本質を見失う不安が常にある。
そういう意味で、観る側を不安にさせる映画でした。
<追記>
この映画を観ている間のわたしは「映画を観ているひと」であり、それ以外の何者でもありませんでした。