「悪魔の囁き。」死刑にいたる病 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
悪魔の囁き。
抑圧されて生きてきたそんな人間の心を解放させて人を自由自在に操る、そんな悪魔がこの世には存在する。
地域で評判のパン屋を営む榛村には連続殺人鬼というもう一つの顔があった。逮捕され現在公判中のその榛村から手紙をもらった主人公の雅也は榛村が立件された殺人罪九件のうち、最後の一件はえん罪だとして真犯人を突き止めてくれるよう頼まれる。
過去に学校と塾との行き来の間で通っていた榛村のパン屋だけが心のよりどころだった雅也は何の疑問もなく調査をはじめやがてのめりこんでいく。
なぜ一介の学生風情が弁護士の真似事までしてあそこまで調査にのめりこんだのか、なぜ刑務官は面会時間の終了を告げながらすぐに打ち切らなかったのか、なぜ中学の同級生だった灯里は雅也の手の傷を舐めてまで彼の気をひこうとしたのか。これらの違和感の正体がやがて明らかになる。
雅也はパン屋に通っていたころからすでに榛村の術中にはまっていた。そして他の人間たちも同様に。すべては榛村の手の上で転がされていた、雅也も金山も、そして灯里も。
榛村は幼少のころからひどい虐待を受けて精神のバランスが壊れたサディストである。と同時に同じ様に抑圧されて育った人間たちの人心を理解し操るすべを身に着けていた。すべてはこの榛村に操られていた。今更九件のうちの一件の無罪が明らかになったところで彼の死刑は免れようがない。彼はそれをわかっていながらなぜ雅也に調査を依頼したのか。なぜその最後の犯行だけあえて殺害方法を変えたのか。
彼は死刑を前に最後の快楽を味わいたかったのではないか。人心を操り人をもてあそぶサディスティックな快楽を。
彼はただ殺すのではない。入念な計画を立てて相手と信頼関係を築いた上で、その信頼していた自分からむごい仕打ちを受ける相手の絶望感を感じて快楽としていたまさに究極の快楽殺人鬼だった。
今回の依頼も雅也や金山、灯里たちの人心を操ることで彼らの人生を翻弄し最後に快楽を得たかっただけではなかったか。
あるいは彼らの抱える抑圧を解放させて自分の後継者にしたかったのだろうか。雅也は抑圧されてため込んだ鬱憤を晴らすかのように通りすがりの人間に暴行を加える。しかし殺す寸前に我に返る。自分は榛村の子ではない、自分は榛村のようにはならない。
しかし灯里との出会いが榛村に仕組まれていたことを知ってしまう。灯里は爪をはがしたいでしょうと雅也を誘惑する。
榛村と関わった人間はすべて人心を操られる。まるで人の心の隙間に入り込み思うがままに操る悪魔のような存在の榛村。
親による子への虐待が後を絶たず、虐待された子はまた自分の子を虐待し、数世代にもわたって抑圧された人間の心が榛村のような悪魔を生み出してしまうのだろうか。
作品はヒューマンミステリー、ホラー、サスペンスの要素を織り交ぜたような作り。二転三転するミステリー部分は興味深く見れたが、肝心のヒューマンミステリーの部分が物足りずあまりはまらなかった。観客に違和感を与えて、その違和感が解消される感覚を味合わせようという脚本はお見事。