「偽りの「天才」と、その感染者たち」死刑にいたる病 阿呆さんの映画レビュー(感想・評価)
偽りの「天才」と、その感染者たち
私は白石監督の作品は『孤狼』シリーズしか拝見しておらず、このレビューはいわゆるミーハーのそれになってしまうだろうが、ご容赦いただきたい。
まず白石監督の画について。
土砂降りのなか、雨に濡れる混凝土が美しく黒々と艶めき、作中で重要な意味をもつ「暴力」が、劇的にふるわれる……
『孤狼』にも見られたこのモチーフは本作でも健在であり、他のシーンとは一線を画すかたちで照り映えていた。それは主人公がサラリーマンに逆上するも絞殺未遂に終わり、己の「平凡さ」に気づく重要なシーンである。それに続く性愛成就のシーンも雨があり、自動車という無機物が欲情した主人公の獣性を受け止める台となっていた。
このモチーフを見るたびに私はフランシス・ベーコンという画家の作品を思い出さずにはいられない。彼の有名な『叫び』の諸作は横溢する痛みの、受け手の感性にじかに作用する表現であり、四方を無機物に囲繞された現代人へのメタ認知にほかならない。
白石監督の作品にも「痛み」はつきものであり、そこが非常にベーコンの諸作と私の中で照応するのである。
さて、本作の主題は「痛み」であり、またその共感および自閉であることは明らかである。
榛村は人を痛めつけ、惨殺する。
同時に彼は素晴らしく社交的で、善人にみえ、人心の掌握に長けている。
この矛盾するかのような要素を人格に併存させた、いわゆるサイコパスである榛村はある種のカリスマを備え、あたかも教祖のように人を自分に「感染」させてしまう。その感染力は強烈で、主人公を含めて多数の被害者たちが文字通り「感電」したかのように、彼に魅了されてしまう。
しかしながら、彼のその恐るべき独創性は、策謀と虚偽と破壊しかもたらさない。なるほど、彼は人の心を読み、それを思うまま操ることに長けていることは間違いない。だがそれは、彼の知性におそらくは殆ど先天的に、偶然備わっていた技術にすぎない。彼は人心に関わる高度な知見と勘を有する「技術者」、熟練工だったのである。
彼があれほど犠牲者を痛めつけるのは、彼に痛みが、つまり他人の痛みを自分のものであるかのように感じとる力が皆無であるという証拠である。彼の「共感」はどこまでも自閉的である。彼はカリスマではあっても教祖ではない。彼には導者として、共同体を構築し、それを運営してゆく能力がないからである。
自分が「非凡」なものでありたいという願望は誰しもが抱くものである。最近はサイコパスがそのわかりやすい人格としてしばしば挙げられがちで「サイコパス診断」なるものすら存在する。
しかしながら、「非凡」さの理想としてサイコパスを見ることは大きな過ちであることを、本作は嫌というほど明瞭に諭してくれている。
その独創性は創造的でない。
その独創性は自己完結し、破壊しか生まない。
サイコパスは世の言う「天才」ではない。天才の業績は功罪はあれど、必ず共同体や人類種へと還元される。サイコパスの所業には還元されるものがない。自己満足な殺人と操縦のあとには、ただ喪失と、痛みと、虚しさが残るだけなのだ。
阿部サダヲ演じる榛村が、終盤自分の戦利品を燃やし、あるいは流してゆくシーンを思い出してほしい。あそこに存在していたのは、虚しさだけである。何もないのである。彼がどんな思いでカフカを読み、『アンの結婚』を観たのか。私には解らない。そして解りたくもないし、解る必要もないのだ。
「悪のカリスマ」は確固とした共同体を創り得ない。共同体は創始者の因子を育み、そこからやがて新たな天才が生まれて多くの実りをもたらす。因子とは個人を元にして、けれども個人を離れることで生じる遺産のことである。
しかし「悪のカリスマ」はどこまでも自我に固執し、因子を残すことはない。そこから生まれるのはその意のままになる愚劣なエピゴーネンか、ナイーブな模倣者のみである。
一番最後のシーン、宮崎優演じる主人公の彼女は、独創的な殺人者、ある種の天才と化していたのであろうか。
私は否、と言いたい。彼女は榛村に操縦された感染者であったに相違ない。誰かを「好き」になることなど、精神病質者にはありえないのだから。