最後の決闘裁判のレビュー・感想・評価
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突きつけられる、人間の本質
傑作でした。
巧妙に姿を変えながら、現代にも脈々と受け継がれる剥き出しの野蛮と残忍性。この残酷が、なぜ現代にないと言い切れる。いつの世も人間の本質は変わらないと感じます。
ダークで陰鬱とした中世ヨーロッパの描写も素晴らしく、決闘場面は呼吸も忘れるほど…終始釘付けで鑑賞しました。
史実に基づくこの作品。重複する三者三様の事実をそれぞれの視点で描き分け、そのズレにこそ潜む真実を突きつけてくる、リドリー・スコット監督の力量がすごいです。無限とも思える引き出しの数!サーの称号にも納得です。
馬上で翻るマルグリットの黒いマントは、暗黒時代を生きた彼女の人生の象徴のよう…ラストシーン、深い憂いを湛えたマルグリットの笑顔が胸に刺さりました。
あれほどに胸を打つ表情のできるジョディ・カマー、そのために観てもいいくらいの美しさ。
自分の権威を守り通そうとする男たちとそれに振り回される女
ある出来事に対して三者三様の思惑が交差する様子を丁寧に描写した佳作。
また、1300年代後半の出来事を扱っていながら古臭さを感じさせないのは、女性の尊厳という現代社会に通じる問題を提示しているからであろう。
さすがに600年以上前になると
ヨーロッパの国々も凄まじい男尊女卑、階級・格差社会だったことを再認識させられる映画。さらにそこに宗教という要素が入ってくると、もう理解不能なこともとても多い。だとすると、これから600年後には、現代にある理不尽や不条理はほとんど解消されているのかな。
リドリー・スコットの「じわじわラストへもっていく」技が全開だ!
マルグリット(ジョディ・カマー)、カルージュ(マット・デイモン)、ル・グリ(アダム・ドライバー)、三人それぞれの言い分を描いたシーンは、同じようで実は微妙な言い回しや行動(眼差し等)が含まれており、視点を変えるとこんなにも違う解釈になるという面白い描写である。これらの微妙な違いに気づかないと、退屈に感じる観客が出るのかもしれないが、三者三様の性質と感受性の相違が際立ち評価すべきだろう。
撮影は暗めの背景に重厚さが加わり雰囲気を高め、中世の決闘にふさわしい趣きである。
ベン・アフレックが近年にない引き締まった体躯でずる賢さを好演。
真実など、わからない。。
本人にも本当の自分の心などわからないと思うのよね。
だからか、彼の作品を観たあといつも何故か?
憎むべき人があまりいない。。
誰しもに共感を覚える、自分の中にもある、悪意や疑念や、リアルな感情を少しずつ感じるのです。
予告編に期待しすぎた
14世紀フランスの史実を元にした作品。
妻・夫・元友人、それぞれ微妙に食い違う真実、誰かが誰かを陥れようとしてるのか?と思いきや、期待していた大どんでん返しがなく、起承転結の転が抜けるとこうもしまりが悪くなるものかと不完全燃焼感だけが残ってしまった気がする。
真実は1つではない
Disney+にて鑑賞。
私が個人的に好きな黒澤明監督作品『羅生門』に似ている作品として話題になっていたので、かなり期待しての鑑賞です。
結論ですが、非常に楽しめました。
構成は確かに似ていましたが、『羅生門』とは異なる部分も多い作品のように感じました。本作では決闘の当事者である三人の証言によって事件の概要を描き出す内容ですが、実のところ事件の概要については三人の証言がほぼほぼ同じで、細かな描写だけ異なっていました。「映像使いまわしてるのか?」ってくらい似たような描写がありつつも、細かい部分ながら明らかに違う描写も多くて、そこを比較しながら鑑賞するとかなり楽しめると思います。
三部構成のラストの章が始まる前のテロップで「これが真実ですよ」と描写されていましたが、あれも真実かどうかは正直確信がないですね。
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1386年、百年戦争の真っ最中に起こったフランス史上最後の「決闘裁判」を描いた映画。騎士カルージュ(マット・デイモン)の妻マルグリッド(ジョディ・カマー)は、夫や義母が不在の折、自宅に訪ねてきたカルージュの友人であるル・グリ(アダム・ドライバー)から力づくで性的暴行を受けてしまう。マルグリッドは帰宅したカルージュにそのことを打ち明ける。裁判を起こしたものの、ル・グリは暴行を真っ向から否定。暴行の証拠が無い上に女性の立場が弱い時代であったが故、虚偽の申告によりル・グリの名誉を貶めたとして逆に非難を受けることになってしまう。窮地に立たされたカルージュ夫妻は、当時すでに禁止されていた「決闘裁判」によって決着を付けようとル・グリに提案するのだった。
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カルージュ→ル・グリ→マルグリッドの順にそれぞれの視点から事件のあらましと裁判までの流れを描き、最後に決闘シーンによって裁判の決着をつけるというストーリー構成。
本作では「他の章では描かれていないシーン」とか「同じシーンで表情や身振り手振りなどの細かな違い」に注目して鑑賞すると面白いと思います。
「他の章では描かれていないシーン」として分かりやすいのは、ル・グリとマルグリッドの会話などの描写ですね。ル・グリの章では二人はお互い高い教養を持っていたため知的な話題で盛り上がり、次第にル・グリは美しくて知的な彼女に惹かれていきます。しかしながらマルグリッドの章では「二人で会話して盛り上がった」という描写は一切なく、挨拶程度の会話しか交わしていないように描写されています。このことからも、ル・グリの恋愛感情は一方的な感情だったと言うことが見て取れます。
「同じシーンで表情や身振り手振りなどの細かな違い」で分かりやすいのは、ル・グリがマルグリッドの家に入り込み、彼女を追いまわすシーンですね。
ル・グリ視点では、マルグリッドは階段を上がる前に靴を脱いでいますが、マルグリッド視点ではル・グリに追いかけられて靴が脱げているという違いがあります。
そして寝室に追い詰められたマルグリッドが助けを呼ぶために叫ぶシーン。ル・グリ視点ではマルグリッドが叫ぶのは一回だけで、ル・グリも「誰もいないよ」と言わんばかりに耳に澄ませるようなジェスチャーをしますが、マルグリッド視点ではマルグリッドは二度も大声で叫び、ル・グリは「シー!静かに!」というように口に人差し指を当てるジェスチャーをしています。
この描写から、ル・グリの傲慢さが見て取れますね。それぞれの章は「各登場人物の視点の真実」ですので、ル・グリは(自分の頭の中では)余裕綽々でマルグリッドへの蛮行に及んだんでしょうね。
決闘裁判前の、ル・グリを訴える法廷シーンでの描写も、観ていて胸がむかむかする気分ですね。あれは酷かった。でも、現在でも性被害者が裁判や聴取で好奇の目に晒される「セカンドレイプ」がしばしば問題に上がっていますし、劇中の裁判官が言っていた「レイプでは妊娠しないから本当は望んでたんだろ」という発言も、2012年8月に当時アメリカ下院議員で中絶反対派だったトッド・エイキン(Todd・Akin)氏が「本当のレイプなら女性の体の防衛本能が働いて妊娠しない」と発言して物議を醸したこともありますので、劇中の描写を「700年前の古い医学知識に基づいた思想だ」と笑ってられないんですよね。そういう意味でも、700年近く前を描いた作品ながら現代にも通じる部分がある作品でしたね。「人間全然進歩しないな」と、歴史を概観できる作品でした。
本当にクオリティの高い作品でした!!オススメです!!
本当に決闘裁判に挑んだのは…
『グラディエーター』がアカデミー作品賞を受賞してから、すっかり史劇スペクタクルの名匠となったサー・リドリー・スコット。手掛けるのは、『エクソダス:神と王』以来。
それと共に近年は、『ゲティ家の身代金』や間もなく公開される『ハウス・オブ・グッチ』などスキャンダラスな実録ものも多い。
その二つを掛け合わせたような本作。
決闘裁判。
中世紀、証人や証拠が不足している告訴事件を解決する為、原告と被告が行う合法決闘。
勝てば全ての名誉は守られるが、負ければ不名誉と共に、死…。
14世紀のフランスで行われた“最後の決闘裁判”を題材にしたノンフィクション小説が基。
1386年。
遠征から帰還した騎士カルージュの妻マルグリットが、夫の旧友ル・グリに強/姦されたと訴える。が、目撃者や確たる証拠はナシ、ル・グリは無実を主張し、主君ピエール伯も肩入れ。立場が無くなった二人だが、カルージュは決闘に臨む事に…。
…というのが、主な概要。
尺は2時間半。これを一本調子の2時間半掛けてだらだらやってたら、ダルい。正直、序盤はちとダルかった。
しかしこれを、カルージュ、ル・グリ、マルグリットの3人の視点から描く。
言わずと知れた“羅生門”スタイル。
これにより各章ごと微妙に証言やキャラの感情が異なり、実は当初は退屈だった本作だが、引き込まれた。
カルージュの真実。
かつては名騎士だったが、次第にその気性の荒らさが悪い結果を招くように。敗戦も続く。
新たに赴任したピエール伯爵とソリが合わず。
盟友ル・グリは自分の味方と思っていたら…
資金調達、自分のものの土地、さらに狙っていた城内職の事で裏切られる。
妻として迎え入れたマルグリットはいつまで経っても子を身籠らず。
そんな時、妻が盟友から強/姦された事を知らされる。
裏切り、怒り、受けた辱しめと名誉の回復の為、決闘に臨む…。
ル・グリの真実。
騎士道一直線のカルージュと違って、頭の回転が利く。資金調達やピエール伯の財政立て直しに貢献し、気に入られ、側近に。
そもそも彼はカルージュを裏切りつもりは毛頭無く、仲を取り保とうとしていたが、カルージュがさらに反発した事で険悪になる。
一応の仲直りの場。カルージュが我が妻にキスをさせる。美しい盟友の妻にあらぬ感情を抱くル・グリ。
暫く家を空けるカルージュ。その不在の隙に訪ねるル・グリ。力ずくで…。
訴えられるが、無実を主張。ピエール伯も後ろ楯。
が、あちらが国王の許しを得て決闘を挑んでくる…。
“カルージュの真実”から見ると、どん底に落とされた男が己の名誉回復を掛けて。
一見、THE主人公&王道の史劇なのだが…
決闘シーンは最後の見せ場になるのでお預け、妻が強/姦されるシーンは彼は現場に居合わせていないので描かれない。(巧い描き方だと思う)
と言う事で、“ル・グリの真実”。
まるで“カルージュの真実”では裏切り悪者と描かれているが、端からそうではない。出世や権力の欲はあったかもしれないが、本気で友を助けようとしていた。寧ろ、友情に亀裂を入れたのはカルージュの癇癪かもしれない。
そして、問題のシーン。カルージュも真実か否か疑った、本当に強/姦はあったのか。
あった。
だが彼にとっては、マルグリットが嫌がってるのは世間を気にしてのフリで、本当は自分を愛している。
そんな彼女が自分を訴えた事にショックを受ける…。
それぞれの名誉、主張。
しかしいつの世も、男は自分の言いたい事だけを推し通したいだけ。
ここでいよいよ、“マルグリットの真実”。
ここで見方がガラリと変わる…。
妻を想い、愛し、決闘に挑むのも妻の為…と思ったら、見当違い。
元々の粗野な性格、子を授からない事で、結婚生活は早々と冷え切っていた。
カルージュにとって妻は、我が一族を継ぐ子を産み、献身的に仕える。如何にもなこの時代の男性的な考え。
夫が不在の時は家事のみならず家計を支える仕事も任され、自立した考え。従女とは気さくに仲良し。
それらが継母には不快。血を流す戦争は無くならないが、“嫁姑戦争”も無くならない。
強/姦。ル・グリは自分に感情があったなど言っているが、そんなものは一切無く、本気で嫌がり、本気で抵抗した。逃げられもしなかった。
夫は妻を気遣い慰めるどころが、疑い責める。
これが、夫の本当の顔。“カルージュの真実”のヒロイックさなど微塵も無い。
ル・グリも異常な愛欲者。どうして私の愛を受け入れてくれないんだ?…なんてチープ悲恋も無い。
傲慢と強欲な男二人に挟まれたヒロインの苦しみ。
それは続く。
カルージュは決闘嘆願。言うまでもなくそれは、妻の為ではなく、自分の名誉の為。
マルグリットへの尋問。言いたくない事、思い出したくない事まで、根掘り葉掘り聞かれる。
子を授からないのは夫との性交渉に快楽を感じていないから。
現在マルグリットは妊娠中。期間を考えると…、ひょっとして強/姦された時、快楽を感じたのではないか。
もはや公開セクハラに等しい。
ある時ル・グリの容姿を褒めた事を友人が暴露し、苦しい立場に。元々その気があった…?
もし夫が負ければ、マルグリットも裸にされ、火あぶりに…。
カルージュは妻がル・グリの容姿を褒めた事を責めるが(何と器の小さい…)、マルグリットも言い返す。
負ければ自分も火あぶりになる事を隠していた事。でも何より、もし自分たちが死ぬ事になれば、産まれてくる子がたった独り…。
一人の女性として、産まれてくる子の母として、強さを垣間見えた瞬間。
男性派のイメージが強いリドリー・スコット作品だが、女性主人公作品で印象深いのもある。『エイリアン』『テルマ&ルイーズ』『G.I.ジェーン』…。
本作も立派な女性主人公作品。
それを体現したジョディ・カマーの凛とした魅力と誠実な熱演。
マット・デイモン、アダム・ドライヴァー、ベン・アフレックらビッグネーム・キャストが、クセあるキャラを巧演。
マットとベンが出世作『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』以来24年ぶりに共同で脚本を執筆し、話題に。もう一人、女性脚本家ニコール・ホロフセナーも参加。
面白いのは脚本執筆に当たって、カルージュとル・グリについては資料が残されており、男性視点はマットとベンが担当。マルグリットについては資料が残されておらず、女性ならではの視点でホロフセナーが担当。
不思議と“マルグリットの真実”に唸らされた。
勿論、史劇スペクタクルの名匠、リドリー・スコット。
ラストの決闘シーンは手に汗握り、息を飲む迫力と臨場感。
甲冑のリアルさ、剣がぶりかり合う音、ただ“闘う”んじゃなく“命懸け”。
生々しく、恐ろしさも感じた。
マットとアダムの白熱健闘には天晴れ!
史実を基にしているので、一応ネタバレチェックは付けるが、
勝者はカルージュ。名誉は守られた。
一方のル・グリの死体は無惨にも…。
国王や観衆から喝采を浴びるカルージュ。その顔、晴れ晴れと。
夫に続くマルグリット。しかしその表情はどうしても、名誉が守られ、命が助かり、安堵しているとは思えない。
涙を流す。その涙は誰のものか…?
ラストシーン。
これまでの暗い映像ではなく、温かみのある映像。
そこに居るのは、やっと穏やかな生活を手に入れたマルグリットと、幼い息子。
カルージュはあれから数年後に戦死したという。
子供は一体どちらの…?
明確にせず、謎を残したままなのも、余韻が残る。
“最後の決闘裁判”後のマルグリットの真実は、明らかではない。
閉幕は脚色でもあるかもしれない。
しかし…
独身を貫き、女主人として生きたマルグリットを、当時の社会は眉を潜めただろう。陰口を叩いただろう。
女性が生き難く、声を上げられなかった時代。
そんな時代に彼女こそ本当の意味で、決闘を挑んだ。
今を生きる女性たちの遥か先駆者。
そう思いを馳せずにいられない。
冬のお城は寒くて冷たいだろうなぁ
とにかく主人公の女性が凛として美しい
興味ある作品でした
想像とは違い…
まあ。灯りがロウソクの時代ですから
全てが神のみぞ知る時代だったんですね
強い人が……何か納得出来ない気もしますが
どちらにしても命をかけた裁判
決闘裁判を王を初め民衆も笑いながらを
観ている風景がなんとも……ですね
この女性は強い(心が)人です
彼女はふたりの決闘をどんな気持ちで見ていたのか また決着がついて夫の後ろを馬に乗っていた時の顔の表情 最後子どもと戯れていた時少し遠くを見つめる表情が……読めない 映画の中の中世の雰囲気は好きです
少し経って思ったことは
この女性は告白したことで決闘裁判で自分を含め三人の運命が決まってしまう
夫が殺されると思った状況で子供と暮らすことができないと思ったその時涙が溢れる
その後夫が勝つことが出来ての放心状態の表情
子どもと一緒に暮らすことができる喜びの表情と過去となった想いが過る表情
最後30年結婚しないで幸せに暮らした
これは誰にも束縛されずに暮らせたことが幸せなこと。と思った
壮大なスケールでの戦闘描写が圧巻だった。 妻がレイプされたことが事...
壮大なスケールでの戦闘描写が圧巻だった。
妻がレイプされたことが事実か否か、決闘によって決めるという考え方。
めちゃくちゃではあるが、正しい方を神が勝たせるということを信じるなら問題ないのか。
また、セックスによって快楽を感じなければ妊娠することもないというのも当時の常識だったのか。
物語は旦那、レイプの加害者、被害者である妻の3人の視点からそれぞれ描かれるが、どの視点からでもレイプがあったという事実は共通している。
それなら一体何のために視点を分けたのか意味不明だが、少しずつだが見え方は違っているので全く無意味だったとは言わない。
3度の接吻
当時の風習かもしれないが、現代においても洋の東西で受け取り方に違いのある行為。ジェンダーの在り方に深く切り込んだ本作において象徴的なシーン、この異様な行いを三者の立場から見る。行いに変化をつけずに、切り取り方で表現するリドリースコット。羅生門的な作品において、これは新しい発明。自供におけるマットデイモンと他者の供述におけるマットデイモンが完全に地続きで、他者のようには映さない。「あっ、やっぱりお前やってたな」そう思わせる、演技が一貫している。
夫婦の性行為における表現の違いも目がひく。それには触れぬ男と触れる女。受け身だけでよい訳ではないと思うが、宿すことを目的としている行為としての認識が影になる。馬をモチーフとしてもってくる巧さ。
同性による性差別とセカンドレイプについてもかなり切り込んでいる。プロミストヤングウーマンにおいても描かれていたが、現代的なメッセージだろう。
戦闘や決闘における活劇としての充実度は、既にグラディエーターで実証済みであるが、それにも劣らぬクオリティ。窓の少ない中世の館における日光や暖炉などの光表現の卓越ぶり。14世紀のパリの絵の説得力が物凄い。建設中の大聖堂とセーヌ川の組み合わせは絵葉書の定番か。こういう絵作りは、日本でも試みて欲しいところ。
晴れの日はない中世にあって、決闘後も重たさがひきづる。ラストはどうしてもグラディエーターとの比較になってしまう。それでも役割が続く。漸く光が差し込むラスト。さて、これも物議を呼ぶところかな。絵の選び方はあったはずだが、その絵だけは少し凡庸かも知れぬ。
最後の決闘裁判はニーチェの「悲劇の誕生」から?
この映画は、単なる善と悪の闘いを描いているのではないと考える。決闘の事実をもとにニーチェの「悲劇の誕生」を下書きにして作られた映画なのだと私は思う。ニーチェはこの書でギリシャ悲劇がアポロン的な造形、形象世界と、ディオニソス(バッカス)的な心象、情念の融合によってもたらされたと書いた。
この2つの観念を人間の性格的な概念に当てはめると、アポロン的とは意識的で、かつ理性的、秩序だっていて、論理性に優れた性格を言い、ディオニソス的とは無意識的で、情動的、陶酔型の激情的性格のことを言う。この2つの性格は「理性と感性」、「静謐と狂乱」のように本来相反するものなのだ。
この映画では、マット・デイモンの演じたカルージュがアポロンであり、アダム・ドライバーの演じたジャック・ル・グリがディオニソスそのものなのだ。カルージュを突き動かす行動原理は理性と秩序であり、キリスト教的絶対正義である。他方ル・グリを動かすのは、情動と感性、激情的なアンチキリスト的行動原理である。
ニーチェは反キリストの立場を取ったが、ここで示されたル・グリの行動は明らかにアンチキリストである。その点からもこの映画の意図は明らかだと思う。つまりカルージュにより示されるキリスト教的絶対正義が、アンチキリストのル・グリを打ち負かし、正義と秩序を世界にもたらすのだと。だがしかし、本当にそれだけなのだろうか?それならばなぜマルグリットは命が助かったにも関わらず、晴れやかな顔をしないのか。
ここからは私の独断とある種偏見なのだが、ディオニソスはギュンニスとも呼ばれている、女男という意味だ。今でいえばLGBTともいえる。つまりある意味、性において自由なのだ。他方アポロンであるカルージュのセックスといえば目的が子作りにあるのは明らかだ、それが悪いと言っているのではない。しかしこの先死ぬまで名誉のために秩序と正義に生き、厳格なキリスト世界の中で暮らすことが、本当に自分にとって幸せなのだろうか。彼女はきっと疑問に思ったはずなのだ。其疑問の象徴が建設中のノートルダム大聖堂のように思える。キリスト世界の勝利の聖堂が、なぜか暗く幽霊屋敷のように描かれているのは一体なぜなのだろうか。
昨年見逃してしまったのですが、ようやく見れました! 時代背景がわか...
昨年見逃してしまったのですが、ようやく見れました!
時代背景がわからなくても話にはついていけますが、背景がわかっていた方がよりこの物語を深く理解出来そうですね。それぞれのシーンはそれぞれの立場からの振り返りがあり、心のあり様がよくわかります。最後の決闘シーンは圧巻でした!それにしてもジョディーカマーの美しいこと...
羅生門の手法で描いた中世版「テルマ&ルイーズ」
昨日、黒澤の「羅生門」を観て、翌日に本作を観ることになった。すると両作とも手法が「羅生門」スタイルだったので、出来すぎた偶然に驚かされた。何よりも今にしてもなお、その映画手法が世界に影響を与え続けている黒澤監督の偉大さに頭が下がる。
「羅生門」は平安時代の強盗殺人レイプ事件をめぐって、被害者とその妻、犯人と、最後に目撃者の証言をそれぞれ映像として描き、人間のエゴをむき出しにしていく作品だった。
本作は、中世ヨーロッパの封建領主間におけるレイプ事件をめぐって、領主と被害者の妻、加害者の領主の3人の証言を、やはり別々に映像化して、どれが真相なのか観客に想像させるものである。
これは黒澤作品と違い、3人の証言がまったく異なるわけではなく、「妻と加害者に合意があったか否か」だけが争点となっている。そして時代背景、宗教裁判の実態を考えれば、状況証拠としては真っ黒だから、羅生門手法は①妻の証言で犯行に至る経過やその後の反響が徐々に明らかになっていく点や、②領主双方の人間性が別々の観点から膨らみをもって描かれている点――に効果を生んでいる。
両者とも自己の非を認めないことから、最後は領主同士が戦って「真実」を決定することに。中世騎士の戦いはリドリーには手慣れたもので、今回も最後の決闘シーンは息をのむ迫真性に満ちている。
その中でレイプに対し泣き寝入りせずに、世間や家族と戦いながら真実を貫く女性の姿を描くことが本作の狙いであり、女性にとっては痛快極まりないだろう。中世版「テルマ&ルイーズ」といった趣が面白い。
この時代には強い女性が
期待せず歴史も知らずに鑑賞。
日本もそうだけど女性の主張や自立が出来ない時代に、立ち向かった彼女に圧倒された。
強い者が真実の証。
真実は戦いで証明されるのか(..)
子供が金髪で安心した。
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