「神に委ねた判決の行方」最後の決闘裁判 悶さんの映画レビュー(感想・評価)
神に委ねた判決の行方
【鑑賞のきっかけ】
劇場公開時には全く気づかなかった作品。
でも、監督がリドリー・スコットで、豪華俳優陣が演技。
しかも、中世が舞台で、予告編からは、しっかりとした歴史劇が期待できそうに感じて、動画配信で鑑賞してみました。
【率直な感想】
<現代なら、法廷サスペンス>
原題は、「The Last Duel」で、Duelは、決闘の意味なので、直訳すると「最後の決闘」。
ただ、これだと説明不足の感があります。
邦題の「最後の決闘裁判」の方が、「裁判」が入っている点で、この作品が描いていることを的確に表現しているように思えます。
【中世フランス――騎士の妻マルグリットが、夫の旧友に乱暴されたと訴えるが、彼は無実を主張し、目撃者もいない。真実の行方は、夫と被告による生死を賭けた“決闘裁判”に委ねられる。それは、神による絶対的な裁き――。】
上記は、公式ホームページからの引用なのですが、ネット等で調べた結果で補足すると、次のとおりになります。
中世ヨーロッパでは、刑事告訴による裁判が行われていたものの、証拠や証人が不足し、原告と被告の主張が対立したままで決着がつかないとき、お互いが剣を手にして「決闘」を行い、勝った方の主張を認めるという裁判方法が認められていた。
本作品では、告訴したのは、妻マグリットですが、夫の旧友(ジャック:アダム・ドライバー)が乱暴したことを否定し、明確な証拠がなく、真実がはっきりしないので、妻に代わって夫(ジャン:マット・デイモン)がジャックと決闘をすることになったのです。
この決闘シーンが、後半の見せ場なのですが、この方式が採用された背景には、キリスト教への信仰が絶対的であった時代、「神はすべてをお見通しなのだから、真実を主張する方に神が勝利を与えるであろう」という考えが根底にあったと言えるでしょう。
つまり、原題では、「決闘」を強調しているけれど、本作品の重要な点は、「裁判」の行方な訳で<現代なら、法廷サスペンス>としたのは、このためです。
<人が人を裁く難しさ>
今の時代では、裁判の行方を「神」に委ねるというのは、「あり得ない」と思ってしまいます。
でも、もし、この作品の時代の人間が、数百年後の世界では、「人が人を裁くのが当たり前」になっていると知ったなら、現代社会の裁判のやり方を「あり得ない」と思うのではないでしょうか。
「人が人を裁く」きっかけを作ったのは、本作品から400年後、18世紀末に起こった「フランス革命」です。
社会のルールである「法律」は、人が自ら作り、「法律」に違反した者は、裁判にかけられ、裁判官という「人」が判決を下すという法治国家が世界中で誕生しました。
一方、宗教については、「信仰の自由」という枠組みの中で存在することとなり、「神が人を裁く」なんてあり得ない、となりました。
しかし、人が人を裁くとき、間違いが生じないか、不安があります。
人は間違いを犯す生き物だから。
それゆえ、キリスト教への信仰が絶対的な中世においては、最終的な判断を「神」に委ねることにしていたのだな、と本作品を通して気づきました。
【全体評価】
じつは、本作品のテーマは、「人が人を裁けるのか」ということではなくて、女性が、乱暴されたことをきちんと告発していくのは、現代社会でも難しく、実際、裁判にまで至らず、泣き寝入りということも珍しくないと聞いています。
自分は乱暴されたと主張することは、現代でも困難が伴うことなのに、それを600年以上も前の女性が行っていたという歴史的事実。
ここに、現代に通じる深いテーマ性が感じられるのです。
本作品では、最終的に「神」が判断してくれるのですが、これが現代の裁判で、人間の裁判官が判決を下さなければならないとしたら、一体どうなっていただろう?
鑑賞直後、そんな思いが頭をよぎり、「人を裁く」主体が、「神」から「人」へ移っていく歴史の流れについて、述べさせていただきました。
多くの気づきを与えてくれた本作品、私にとってはお気に入りの一作となりました。