流浪の月のレビュー・感想・評価
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原作のよいところが…
原作ファンで、行ってみました。キャスティング聞いた時はイメージと違うと感じましたが、映像化みたら松坂桃李くん広瀬すずちゃんは役に入り込んでいてよかったです!
ただ、内容がダラダラ冗長で時系列わかりにくいし、
最初に広瀬すずちゃんと横浜流星くんの濡れ場をあんな長く、見せられたのがびっくりしました!
そこ、重要じゃない…代わりに必要なシーンや描写が足らなくて多分映画だけみたら意味が分からないと思う。
原作のラストには幸せな余韻が残るのに、この映画はほぼ鬱々として長く感じました。せっかく主演二人がよかったからなんだかもったいなかったと思う。
主演二人に星2つ。
ある意味結果オーライの物語。巡り会えて良かったね、と、表面は不幸で悲しい話の様でその実一緒に流れてくれる運命の人と繋がれたね、というお話。
(原作未読)①亮くんは“たかがバイトだろ”という台詞を吐いた時点で「あっ、こいつダメ」と思った。下手くそなセックスシーンは必要なのか?と思ったが、亮という人間を描くには必要だったのかも(更紗がセックスに対して積極的になれないトラウマがあることの伏線にもなっていたことが後に分かる)。同棲相手が料理を作って待っているのは当たり前、って思ってるところや、更紗に暴行を加えるシーンとか「ホントに、ホントにダメなやつ」であるけれども、土地持ちの家に生まれた(自分には逃げ場所がある)反面母親は居ないようで(死んだか逃げたかはわからないけれど)その辺りが人格形成に影響しているのかも知れず、まあ弱い人間だということですね。更紗はこんなやつと結婚しないで良かった。②少女時代の更紗が家に帰ると従兄弟にイタズラされるので帰りたくないという気持ちは十分分かるけれども、公園で目の前に立つお兄ちゃんが同じことをするとは思わなかったのかしら。その辺り、ちょっと不自然さを感じるが結果として変なことしないお兄ちゃんで良かったね、です。肌感覚でこのお兄ちゃんはそういう人じゃない、と分かったのかな。同居するようになってホントに楽しそうだったし。確かにそういう波長の合う人に時たま巡り合うことは私もこれまでの人生で確かにあったし。③広瀬すずは前から上手い子だなとは思っていたけれど本作でも好演。特に亮と関係が上手く行かなくなってから対峙するときの目の演技が良い。更紗の少女時代を演じた女の子も上手。④松坂桃李は大学生には見えなかったが、“死んでも知られたくない”秘密を抱えて生きている男の影の様なものは良く表現していた、と思う。ここにも毒親の被害者が一人いた訳だが、子供のない私には自分の子供に“自分の異常を私のせいだと言うの?”とか“生育の悪い木を出来損ないだから捨てるのよ”(と文を見る目も言っていた)とか言う母親がいることが信じられない。そういう女を“母はとても正しい人だから”という文の心の折れ曲がり具合が痛ましい。母親役の女優さんは知らない人だが少ない出番ながら中々の存在感。⑤あと、帰りたくないという更紗を家に連れ帰ろうとした時はどういう気持ちだったのだろう。もう大学生だから自分のしていること(誘拐と見なされることは分かっていただろうし。)同じ子供の体だから繋がれると思ったのか、やはり少しはロリコンの気はあったのか。更紗の口からケチャップを拭い取って上げた後、唇を撫でるところはビミョー。⑥多部未華子は彼女でないとだめな役だったのか疑問。柄本明は、あの台詞“人も物も出逢って別れてまた出逢う”(だったかな?)を言う為だけのゲスト出演か?⑦観る前は、吉田修一の『さよなら渓谷』的な映画なのかな、と思ったがずっと分かりやすい映画であった。⑧ラスト、二人が共に流れていくことを確認し合うまでは、二人の心の中には様々な感情(葛藤・悩み・苦しみ・悲しみ・絶望・希望・自由・解放感等々)があったと思うが、静謐な映像はその心象風景をよく表していた、と思う。
【”お母さん、僕は矢張り外れですか・・。”心に刻まれてしまった様々な傷と再生を描く作品。人間の真の善性と、僅かな悪性。そして意図せぬ悪意と誤解。今作はずっしりと重みのある見応えある作品でもある。】
ー 上弦の月や下弦の月、満月を会社帰りにたまに見ると、人間の心の様だな・・、と思うことがある。今作はその様な、人間の複雑な心模様を、描いている。そして、観る側は気づく。”もしかしたら、心の一部が欠損したまま生きている人もいるのではないかな・・”と・・。-
◆感想
■今作は印象的なシーンが多数あるが、私は劇中唐突に描かれる幼き佐伯文(長じてからは、松坂桃李)が帰宅した際に、彼の母親(内田也哉子)が、枯れかけた樹を無表情に、庭の地面から間引きのように、引き抜いているシーンである。
このシーンは、今作の”軸”であると、私は思った。
・文が家に帰りたくない小学生の更紗(白鳥玉季。抜群である。長じてからは、広瀬すず)が公園で読書中に雨が降り出した時に、差し出した傘のシーンは、劇中、複数回描かれる。そして、文は更紗に”家に来る?”と問いかけ、更紗は嬉しそうに付いてくる。
- 文の真の善性故の行為である。彼の心の傷による行為でもある事が後半描かれる。上手い構成である。ー
・小学生の更紗が、文の家で自由奔放に振舞う、安心しきった姿の数々。そして、文が”死んでいるのではないか”と思った程、熟睡する姿。
- 徐々に明かされる、更紗の父が病で他界し、母親は男を作って家を出て叔母の家に住んでいる事。そして、叔母の子タカフミが夜中に更紗の身体を頻繁に触りに来ること。
後半明かされる文の母親に抱いた気持ちと、更紗の母親に密かに抱いている哀しき思いがシンクロしていく。ー
・更紗を”誘拐した”事で少年院に入った文。だが、それを”自分を助けてくれたのに文の人生を台無しにしてしまった”と責める気持ちを抱きながら、誰にも愛されずに過ごして来た更紗。
- 彼女が自分を愛してくれたりょうちゃん(横浜流星:良くあの役を受けたなあ。けれども、自己中心的で、自信家でありながら更紗に捨てられた途端に脆さを露呈する男を好演している。)に惹かれ、同棲した理由が良く分かる。-
・更紗が、久しぶりに会った珈琲しか出さない喫茶店を営んでいる姿を見た時の安堵した表情。
- 彼女が抱えていたトラウマが僅かに解けるシーンであり、広瀬すずがその心持を絶妙に演じている。-
・更紗がりょうちゃんから文と会っている事を理由に暴行を受け、(女性に対し、殴る蹴るとは言語同断であるが、その程度の男である事は上記の通りである。)血だらけで町を彷徨い、行きついた先は文の喫茶店の前。
- そして、再び文に”家に来る?”と言われる・・。文が善性の塊である事が良く分かるし、更紗も文への距離を再び近づけるきっかけにもなるシーンである。-
・二人の関係性が、下衆な週刊誌に取り上げられ、再び文は追い詰められていく。そして、閉店した喫茶店で、文は更紗に対し、自分の真実の姿を見せる・・。
- 文という中性的な名前の所以が分かるシーンである。それにしても、文を演じた松坂桃李は矢張り凄い。肉体を激変させ、男のオーラを消し中性的な人物を自然に演じている。-
<今作品は、観ていて辛いシーンも多いが、ラストの文と更紗が全ての周囲からの好奇の目を気にせず、一緒に生きて行くと決めた橋の上でのシーンは、僅かな希望を感じさせる。
心の欠損を、二人は一緒に生きる事で埋め合い、新しい人生を歩んでいくのだろうと私は思ったのである。
劇中で流れる、悲し気なピアノの旋律も、この作品の趣を高めていると思った作品でもある。>
"わかりあえる" この絶望的な言葉
始終、涙目で鑑賞してしまった。これだけの悲しみを何故に人間は背負わなければならないのか。
そんな虚無感に苛まれる作品である。
本屋さん大賞受賞の原作(未読)であるので小説レビューも拝読したが、その中でも評価が二分されている、
好き嫌いのハッキリするストーリーであろう。それは今日の数多あるニュースサイトのコメント欄のそれと同様だ。
偏見、差別、嫉妬と蔑み・・・
興味本位とコマーシャリズム・・・
それはフィクションであるストーリー内容でさえも歯牙に懸ける。
矛盾点を必要に突くことで人は優越感に浸る。そこに上下関係が生まれ上と下は互いに憎悪の対象となる。
この二人に出来ることは"逃避"しかない。受容れる余裕のないこの社会で、それでも生きていくにはこの選択肢しかないのだ。
心ない人間はこういう。曰わく「努力しろ」「がんばれ」と・・・
それは誰の為の言葉なのだ。それは自分が単に楽になりたいだけなのだろう。
ラスト前のクライマックスでの裸での告白は、あのシーンだけではしっかり理解は困難である。それは観客自ら
考え、調べて欲しいという監督のメッセージだと思う。
でも、もう少しシルエット的な演出、若しくは大胆に文字や医学書等挿絵的な差込で演出しても良かったのではと・・・蛇足である。
傑作というものは時間が過ぎてからわかる…
初日に鑑賞してから本作が頭から離れなかった。
パラサイトや万引き家族の時もそうだったけれど、心に棲みついたみたいにずっと忘れられない作品がまた一つ生まれた。
朝起きた時、食器を洗う時、布団に入る時、食事をする時…本作の場面がふと蘇ってくる。
それと同時に次から次へと溢れてくる解釈や感想。
すっかり本作に心奪われてしまった。
そして10日がすぎて、もう一度観に行った。
更紗と文…
もの静かに儚げで声も出さずに存在する、まるで昼間にうっすらと現れた月のような2人。
それぞれの心に隠しもつ深い傷は外見からは想像することができない。
似た者同士のようで全くの正反対な更紗と文がまるで呼吸するように自然とひかれ合うのは必然なのではないだろうか…
風に揺れるウィンドチャイムのように2つの魂が共鳴する音が私には聴こえた。
それと同時に、どうか2人がやっと見つけた居場所を奪わないで!と願わずにはいられなかった。
更紗が繰り返す言葉「私は可哀想な子じゃない」…これが本作の伝えたかったことかもしれない。
当たり前みたいに親が育て、当たり前みたいに男女が出会い、当たり前みたいに愛し合い、当たり前みたいに一緒になるというまことしやかな固定概念。
2人が私に問いかける…当たり前って何?と。
私はガーン!と頭を殴られた感じがした。
例えばテレビやネットで流される数々のニュース…
何が正しくて何が間違いなのか…それぞれ個人が持つ価値観や先入観がゆらゆら揺らぎながら、大多数の方向へと向かっていくという現実。
自分と違うことや異質なことは認められない、多数決的気質への問い。
きっと人は誰しも忘れられない記憶や痛みを胸の奥に持っている。その傷は人それぞれで他とは共有することは難しい。
人はその〝共有できなさ〟にさいなまれながらも微かなひと筋の光を手繰り寄せながら生きてるのかもしれない。
この2人のように。
静かだけれど力強く、更紗と文がくれたメッセージをしっかりと受け止めてこれからを生きよう…そう思える映画。
もともと細い松坂桃李さんは役作りのために-9キロの減量をして文を体現。
広瀬すずさんは食事制限とジムで儚げな更紗に近づいた。
そして、ただ一途に更紗を愛する亮を演じた横浜流星さんの新境地が素晴らしかった。
その役者陣の演技を彩るのはホン・ギョンピョの創り出す映像。
画の美しさと力強さに酔いしれた。
血だらけなのに美しい更紗。
沼に浮かぶ消え入りそうな文。
雨、風、光、音…そしてさまざまな表情を見せる月。
傑作です。
つまらない
単純に面白くなかったです。がっかり。
舞台挨拶でもキャスト自身が自信なさそうだったし。
私の唯一の救いが広瀬すずさんが出てることだったけど、あんな激しいベットシーンは見たくなかった。印象が変わってしまいました。
見なければよかった。
原作未読。演技は素晴らしかった。
私の斜め前方に座ってたおじさんが上映中に何度かケータイを観ていてその光でだいぶ気を散らされて。やめてと言いたかったけどすぐ声をかけられる距離ではないし私が動いたら他の人にまで迷惑がかかるしこの不条理はどうしたら良いの?と、映画のテーマと勝手にリンクさせながら観ていました。レベルが違うけど。
初見はちゃんと集中して観たかったな〜。
上映前の舞台挨拶中継付きの回を観ました。
その時のお話でそれぞれの役割りを知ったくらい、全く事前情報無しで行ったんですが、原作を読んだ人が観る前提で作られた映画なんですかね。いろいろと説明不足というか、納得できないこともありました。
更紗については、親戚の家に帰りたくなかったこととか、好きになってくれる人にすがってしまう気持ちはわかったけど、文については、お母さんとの関係が、文がそこまで傷ついてしまう理由が、イマイチ納得できなかったな。
文のお母さんは、文の病気を知らなかった?思春期にもなったらそういうこと母親に言えないのもわかるし、だとしたら、文とお母さんが分かり合えないのもわかるけど。映画を1回観ただけだと、お母さんはうまく育たなかった木を抜いただけで、それを目撃した文が勝手に傷ついたようにしか見えないから、お母さんがちょっと可哀想でした。
亮の過去も原作には描かれてるのかな?映画では亮はおばあちゃん思いで家族は仲が良くて、どうしてDV男になったのかわからなかった。
まぁ亮についてはぶっちゃけわからなくてもいいんだけど、あゆみのことがほとんどわからなかったのは拍子抜けだったな。
多部ちゃんが舞台挨拶に出てきたってことはだいぶ重要な役なんだろうなと思ってたのに、あれじゃ通りすがりと変わらない。職業を原作と変えて看護師にしたのも、旅行の思い出話の中で「血は見慣れてる」って言うためだけだったし。
普段のふたりやあゆみの思いがほとんど描かれてないから、あゆみの感情が爆発するシーンは良かったけど、だからこそ取ってつけた感じになっちゃった。
誘拐事件の最中だけが更紗と文にとって幸せな時間で、その思い出にすがって生きるだけだと思っていた中で再会したふたりが惹かれあうのは必然で、誰に何を言われてもまた流れていけばいいと覚悟できたなら、これはハッピーエンドということなのかな?
うん、少なくとも更紗と文は、一番良い選択ができたよね。
鑑賞後感は、全然ハッピーじゃなかったけど。
誰もが言えないことを抱えているし、そのせいで悲しみの連鎖がうまれてしまうことがある。
そう思って周りの人に接すれば、もう少し優しい世の中になるのかもしれないけど、気持ちを隠されたらもうわからないよね。
自分からもう少しオープンにできたら、自分も周りも楽になるしもっと幸せに近づけるのかもしれないと思った、言っちゃえば反面教師にしたいような映画でした。
人生の諦めの先に
この映画のテーマの核心は「人生の諦めと苦悩」が根底にあると感じた。文(松坂桃李)の「死んでも知られたくない秘密」、これは週刊誌でどう報道されようが、身近にいた更紗(広瀬すず)にも知られたくなかった男性機能に問題があること。だから大人の女性とも付き合えない。あゆみ(多部未華子)が週刊誌の報道を見て、吐き気がした、こんな人と付き合ってたなんて、と文を全否定し、別れ際に一つだけ教えて「(ロリコン)だから私と一度もしなかったの?」と文に問いかけても、文は死んでも知られたくない核心には触れたくない。だから、あんな形で言うしかなかった哀しみ。
それは、育つ過程で母から欠陥品と扱われ続けたことも多分に人格に影響しているだろう。本当は文も母に受け入れられ、周りに受け入れられたかったはずだ。そんな生い立ちの彼が雨の公園で更紗に会う。悪戯する気なんて最初からない。年は少し離れていても、お互いの生い立ちから、初めて心が寛げるひと時だったのではないだろうか。
ポーの詩集を見て自分を癒す。更紗と別れさせられた15年、彼はよく生きたと思う。そして再会。既に大人の女性になった更紗、あの時の更紗と気づいても、もう過去のようには接することは出来ないと思ったのだろう。実家の離れから出てカフェで働いていても、彼は引きこもったままだった。
しかし更紗も父が死に母に捨てられ、預けられた叔母の家の息子に体を触られる嫌がらせに耐えられない気持ちでありながらも、それを「言えない」という心の蓋がある。それは、大人になり、亮と付き合い、求められても「私はセックスは嫌い」も言えない。
更紗も自分をわかってくれる人を求めていた。だから自分を好きになるひとなら、それが満たされると期待があったが「人は自分が見たいようにしか見ない」という事に気づく。
そして、更紗は大人になり再び文に会い、最初は文の幸せを祈りながらも、自分自身の2度目の救いに繋がっていった。それは、文にとっても同じで、ついに死んでも知られたくない自分の秘密を更紗にさらけ出せるまでになった。
魂の流浪、そこは二人それぞれにとって闇の中だったが、この長い期間の流浪を経て、二人の出会いは、闇の中に月明かりを照らすような、深い魂の出会いにまで高まったように見えた。
最後に、タイトルの意味が分かった
これは…
ロリコンなの?
文がロリコン設定なら『ちょっと…』て思うけど、
更紗が初恋で、今も好きって話なら、
別に良いと思うけど、
なかなか全容が見えてこないし、
文もロリコン否定しないし、
(言葉では更紗が特別っぽいけど…)
更紗は大人になって、文は成長が止まったままって、
生物学的には分かるけど、それでロリコンなのかな…?
更紗が好きなのかな、と思いつつ
梨花とのやり取りを見ていたら、
『んん?』と分からなくなったり…
本編見る限りでは、とても分かりづらい。
長い割に、よく分からないところが結構あったな。
(HPチラ見、文は大学生か。分からんよ笑)
(文と更紗は、9〜12歳差か。)
これは、原作読まないといけないかも。
本屋大賞受賞なんですね。
それなら多分、面白いと思うので、買おうかな。
【日傘のお兄さん(豊島ミホ)】
みたいな話かと思ったけど、違うっぽい。
あと、
梨花が保護(?)されるまでの流れは、
マジでよく分からなかった。
ベランダで話しているだけの写真で、
何の容疑で逮捕されるの?
逮捕はされていないのかな?
梨花が保護されただけ?
更紗が、母親の安西に依頼されたんじゃん。
文に会わせたから、即保護!?(絶対変)
つーか、母親どこ行ったん?育児放棄だろ…
亮(多分お芝居初見)は、怖くてキモかった…
モラハラDV男は、本当に気持ち悪い…
お芝居上手いって事ですね。
私は子どもの頃、誰かに助けて欲しくて、
何度も家から逃げようとしたから、
文みたいな人は、憧れ。
実行しなかったのは、
まだ見ぬ相手が、誘拐犯にされると思ったから。
あと、最悪は殺されるかもしれないし。
自分で生計を立てて
出来るだけ早く家を出ようって、5歳で決心した。
でも、文みたいな人がいたら、ついて行くだろうな…
文と彼女を家までストーキングした後の
『良かったね文』はなんか一番よく分かった…
ずっと心配だったし、とても残念な気持ち。
(ただ撮り方笑 怨霊かよ笑 本人から見えるだろ笑)
最後は二人で一緒にいるようだったので、
二人がずっと幸せなら良いな、と思った。
ルールを踏み外さなければ救われない孤独
様々なマイノリティが声をあげるようになって久しい現代で、なお無言のまま生きざるを得ない人間がいる。更紗の感情を追いながら物語を見ていたが、終盤に文が見せた姿に衝撃を受け、彼の背負った苦悩に気持ちが引き寄せられた。
第二次性徴が来ない病を抱えた文は、正しいことしか認めない母親に自身を受け入れられないまま育つ。幼い更紗を誘拐したとみなされ「犯罪者」となった後は、家の離れに数年間閉じ込められる。その後カフェの経営を始め、大人の女性であるあゆみとの交際を試みるものの、セックスが出来ないこと自体を打ち明けられず、行き詰まってしまう。
彼が心を開き癒されるのは、体の関係がなくても特別な絆を認め合える相手ということに、必然的になる。傍観者たちが彼のことをロリコンと呼ぶ場面があるが、彼を受け入れる大人の女性は少ないだろうし、そもそも打ち明けることさえ困難なコンプレックスだという事情を汲めば、本人にとっては純粋な趣味趣向というわけではなく、選択肢が狭まった結果なのかも知れない。
従兄からいたずらをされた経験からセックスに拒否感を持つ更紗となら、互いの痛みに触れずに癒しあえる組み合わせになったはずが、最初の出会いが早すぎたことで様々な悲劇が起こってしまう。
二人が時を経て再び接触したことが表沙汰になった時、世間の反応はひたすら冷たく、野次馬たちは残酷だが、警察や直接関わりのある人々に関してはそれも仕方ない。彼らの最初の邂逅は、形式的には完全に未成年者誘拐という犯罪であり、その行為は通常ほぼ大人側の悪意のもとに為されていることもまた事実だから、警戒しない方が難しい。映画の観客と違って当事者の周囲の人間には、文が善意なのかどうかや、更紗が騙されていないかどうかなどを彼らの言葉だけで判断するのは不可能だ。
シングルマザー安西さんの娘を預かって深刻な誤解を受けるのも、そういう背景がある以上どうしようもない。(ただし、週刊誌やネットの誹謗中傷、スプレー落書きやチラシばら撒きの野次馬、帰ってこない安西さんは許されない。)
文が社会から疎まれることなく、恋愛関係やそれに匹敵する他人のぬくもりや受容を得るハードルはかなり高い。カミングアウトで理解を得ることも、おそらく他のマイノリティに輪をかけてしづらい。想像を絶する孤独だ。
そんな彼が、最終的に更紗にありのままの姿を受け入れられてよかったと思う一方、このご時世の治安が染み付いた頭の片隅で、彼らの関係の始まり方を屈託なく肯定することが出来ない自分もいた。
もっとも原作者はそんなこと分かっていて、社会のルールを踏み越えざるを得ないほどの居場所のなさや孤独を描きたかったのだろう。ルール通りやることが、彼らを再び地獄に放り込むことになる場合もある。同じことを「万引き家族」や「ひとくず」でも感じた。
広瀬すずの熱演と、体を張った松坂桃李の静と動、広瀬の子供時代をシームレスな印象で演じた白鳥玉季、それぞれに見応えがあった。横浜流星の演じた亮の不穏さ、一見物分かりのよい彼氏の(薄っぺらい)仮面が次第に剥がれてゆく様はリアルで怖かった。
前半で、文と更紗が楽しく過ごす場面の劇伴が唐突にテンション高いポップスだった点だけは違和感を覚えたが、空の雲行きや欠けた月、地方都市の空気感などの映像描写は美しく、登場人物の心模様を暗示する場面も多く、印象に残った。
追記
文のカフェの店名「calico」は「更紗」を意味する。
流浪の月という小説の良さはまぁまぁ出せてたかと・・・
決して多くない台詞であそこまで繊細な表現や描写を引き出した俳優達は本当に素晴らしかったと思う。韓国映画に近い印象を受けた。
広瀬すず・松坂桃李の表現力は素晴らしいし、嫉妬するくらい凄く引き込まれるものがあったし、横浜流星の絶対にしてはいけないサイテーな事をしているけど、もしかしたら自分も一線を超えてしまうかもしれないと思わせる人間くささも上手く出せてたと思う。
ただ、更紗と文は恋愛関係のそれとは絶対に違うし、むしろ文は更紗を他の人と同じように愛せない事に悩んでいる描写はもっと必要なのでは?特にラストは人によっては少し誤解や疑問を残してしまうかと。
小説の実写化特有の説明台詞を省いたのは良かったが、時系列が入り組んでるのは小説の実写化っぽい。あと、余韻を残すのは良かったけど、原作を読んでいないと色々と疑問が残るラストなのは何となく不完全燃焼感がある。
絶望の中のかすかな希望はやっぱり絶望。
たまたま時間ができたので公開初日に見れた。
10歳の家出少女を家で保護したことからロリコン誘拐犯になり、15年後深夜カフェで再会し、そこからコミュニケーションを取り始める。少女は預けられてた親戚の家が嫌で文との生活は安心と楽しみに満ち、充実した生活だったのを15年ぶりに思い出し、お互いにパートナーがいたが、疎遠になって魅かれ合っていく。でも、その魅かれ具合は肉体関係などではなく、一緒に時間を共有することを求めているのだ。
李監督は複雑な心情を描くのがとてもうまい。人は単純な感情・感覚だけではなく、よろこびの中に悲しみを秘めていたり、破滅と分かってても感情を抑えきれない、など。しかもそれぞれの登場人物が多くのセリフがある訳でもないが、目で演技をする役者が揃い、シーンごとのちょっとした心の動きが見てとれる。
しかも、各シーンとも丁寧に描かれているので、見逃しやん??この意味が分からないということがない。でも、余韻はしっかり持たせてくれるので映画を見たという満足感で帰宅できる。
孤狼の血シリーズを見た直後だったので、松坂桃李の違いだけでもびっくりさせられる。ヤクザまがいの警官→失敗の子という烙印を押された子ども時代を送り、自分に自信を無くした青年まで振り幅が大きい。
個人的に気になった点(映画上では追及するべきところではないが)
・自傷行為が最後のシーンになった亮はそのあとどうなったのか。またDVを他のパートナーにしているのか。
・子どもを預け不倫旅行に行った安西。その後子どもは更紗と同じ道を辿ったのか。安西は更紗と文にどんな対応をしたのか。
脚本だめかな
もともと原作ファンだったので、初日初回を見に行った。脚本次第で主演女優賞も取れる作品だとワクワクしていた。
結果脚本が弱かった。予習せずに見に行った客は理解できたのか不安になった。
更紗の性格が自由で干渉しない親のもとで育った事や、親戚の家での息苦しさ(性暴力以外の)を感じて生活していたこと。家に帰ることへ限界を感じていた部分が抜け落ちたりサラッと流していたりするので仕上がりが全体的に暗く、更紗のおちゃめな部分が本当の自分で、文と居るときにしか自分が出ないという心の描写が欠けている。
役者は頑張っているが話のポイントが押さえきれていなくてがっかりした。
警察に「洗脳されている」として話を聞いてもらえず悪い方向にしか進まなかったり、生きづらさを出してほしいところがサラッと流されてしまった。
広瀬すずの主演女優賞はないな。と感じた。残念。
横浜流星の描写に関しては細かく理解でき、演技も良かったので賞も取れそうだと感じた。
繊細さと儚さ、美しさと危うさが融合した問題作
本作には“流れる”表現が多く用いられている。風で大きく揺れるカーテン、水、雲、そして満ち欠けによって姿を変える月。
色調、切り取り方、カメラワーク、全てにおいてため息が出るほど美しい。文の部屋や文のカフェも味がある。
原作未読ですが、脚本もグイグイとのめり込んで見てしまう。
更紗という役に見事にハマった広瀬すずや、松坂桃李の身体作りまで含めた役者魂は言うまでもなく、更紗に歪んだ愛を向ける亮を演じた横浜流星の怪演っぷりにはお見事!
複雑な環境に置かれていた更紗にとって、文は唯一の安らぎの場所、自然体でいられる相手だった。
愛にも様々な形がある。
二人の関係が周りからは歪んだ愛、異常に見えたとしても、二人の愛を貫けば良いのだと。
ラストで更紗が言う「その時はまたどこかに流れていこう」
他者には理解されない二人の強い絆があるのだ。
文の秘密が最後に明かされるが…ちょっと衝撃的だった(文のお母さん役に内田也哉子とは!意外な配役に驚きと嬉しさが)。
文は「誘拐事件」の加害者になってしまうが、そもそも本作の題材がかなり危ういテーマ。実際に痛ましい事件も耳にするし、特に小さな子を持つ親は、そういった人たちから子どもたちが危険な目に合わないように、と常に気をつけているはず。
だけど本作を見るとそれが一概に“悪”とも言えず、無くはない話だよねとも思ったり…
善悪二元論では語れないとても難しい内容(レビュー書くにもかなり言葉を選んで書いたつもりですが、、、)。
非常に難しいテーマを観客に投げかけている。
誰も、なんも、知らないくせに
原作では、タランティーノ脚本、トニー・スコット監督の『トゥルーロマンス』が重要なモチーフになっています。
原作を読んでおくか、映画から入るかは人それぞれですが、『トゥルーロマンス』はできれば見ておいたほうがいいかもしれません。
と、下書きしておいたのですが、本日やっと待ちに待った公開日。
以下は、映画鑑賞後に追記いたしました。
(一部、ネタバレ含みます)
ただ、『真実は違うのだ』と心で訴え、ステレオタイプの常識からの攻撃に対して静かに抗ってるだけなのに、いつでも理不尽に叩かれる。同情的な店長のように「俺は味方だし分かってるよ」的な人たちの善意すら、被害者と犯罪者と捉えてる時点で、2人にとっては理不尽な暴力装置として働く。
…誰も、なんも、知らないくせに。
原作の中で、ネット動画を見て文と更紗の事件のことを無責任に批判している若者たちを見て、13歳になった梨花がつぶやきます。2人のことを〝なんも知らなくない、かなり理解している〟友達として文と更紗とはずっと付き合いが続いていくのです。
原作の場合、事実を俯瞰的に見ている読者は、色々な場面で〝そこはきちんと訴えれば良かったのに〟というもどかしさで歯痒くなるのですが、映画ではその相手としての役割は亮くんが背負うことになります。世間という敵に比べると個人寄りになってしまう分、少し軽くなります(もちろん、暴力行為の罪自体は少しも軽くありません)。その分、嫌がらせのチラシやスプレーでの罵詈雑言が〝世間の面白半分の悪意〟を強調します。
(原作の中の一場面…更紗の場合)
文の部屋で、『トゥルー・ロマンス』を見ているとき、更紗はこう思うのです。
アラバマ、大丈夫だよ。クラレンスは死なないよ。
最後はふたり一緒に幸せになるよ。
だけどわたしはいつまでも絶対絶命のままだ。
この先、生き延びられる術があるとしたら、文の隣りだけだ。
映画の中で、更紗は亮くんに向かって言いました。
私はあなたが思うような可哀想な人ではないよ。
そう言える強さの源泉が、『トゥルー・ロマンス』へのコメントから伝わってきます。
(原作の中の一場面…文の場合)
『この木、ハズレね』
文が幼い頃、文の母親は、庭に植えたトネリコが順調に育たないのを見てそう言って、直ぐに業者を呼んで植え替えさせます。
性腺機能低下症(原作では具体的に書かれていないので、この病名は推察です)のことを誰にも打ち明けられない文はこう思う。僕もハズレなのだ。
映画は、終盤までかなり観念的な表現に徹しているので、説明的な台詞や場面も少ないうえに、時系列が前後したり、イメージと現実が混在しています。
原作を未読の人にとっては、分かりづらいと思います。しかし、ラスト。文が裸になり告白する場面で一気に溜まっていたマグマが噴出します(舞台挨拶で広瀬すずさんがマグマのことに触れていました)。
観念と現実的な痛みが、劇的に繋がり押し寄せてきます。
性的な繋がりのない文と更紗の関係性こそが、李監督にとっての『トゥルー・ロマンス』だったのですね。
なるほど…。
※映画の中では、『トゥルー・ロマンス』はまったく出てきませんが(筒井康隆原作のパプリカのアニメは出てきた)、主人公ふたりは、危なっかしくて見ていられないほど無鉄砲で純粋なのです。タイプはまったく違うけれど、理不尽な暴力に負けない根性がとても崇高で魅力的❗️
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