流浪の月のレビュー・感想・評価
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マトモなヤツがいない
原作未読。
まず、長い。そして、その割には分かりにくい。一番大事な文の病気も映画だけでは「はっ?」って感じ。見ていて、精神か肉体に障害が有るんだろうなと言うのは分かるんだけど、最終盤でいきなり文が脱ぎ始めて、「?」と思ったら、台詞がボソボソだし、当然に股間をアップにするワケにもいかないので伝わらない(見終えてからネットで文の病気をググって分かった)
更紗が恋人・亮の実家に行った時の家族の対応、亮はDV気質、殴って鼻血出してる女にセックスしようとする・・・・・。更紗の同僚は娘を預けて男と失踪。その所為で、単に更紗留守中に子供を預かっている文が警察に踏み込まれて、力尽くで身柄拘束(人権派弁護士出てくる案件)。
じゃあ、文と更紗が不条理に襲われているだけの被害者かと言うと・・・・・。
流浪と言うタイトル回収が一番最後に来たけども・・・・・この二人、一緒に居ない方が良いんじゃね?と思ってしまう。
メインが若手(一番年長の松坂桃李でも34,多部未華子33歳)だけど、役者は良いんよね。
それだけに、冗長な展開が・・・・・原作読んでる人だと違う感想かも。
真相を知らずに
何事も上手くいかないなって感じながら見た。
文は世間から見たら誘拐犯だけど、更紗にとっては救世主だった。15年も経って、どん底にいた更紗のまた救世主のようだったのに、世間はまた傷つける。
一緒にいることが幸せなのかそうじゃないのかは、他人には分からないけど、昔まわりの人に引き離されて、離れ離れになった2人が大人になって一緒にいることを選ぶことが出来たのは良かったのだと思う。
最後の余韻が重くのしかかった
印象に残った部分は自分を押し殺して生きてきた更紗が文に再会して幼い自分を取り戻していくところ。
亮に殴られ行きつく先はキャリコ
文に見つかりあの顔でフッと出た笑顔にぐっときた
湖でハンバーガーを食べるシーンと文との会話もよかった。松坂桃李さんはじめ広瀬すずさん横浜流星さんの細かい演技に鳥肌がたった
松坂桃李は文だったし、横浜流星も亮を生きていた
2人の子役もとても良かった
現実を受け止め、変化しようとする人の想いを描いた深い映画です。
「流浪の月」には、「水」に関するシーンがたくさん出てきます。
「水」に関する場面の共通点は、「人生をリセットしたい」という心情を描いてるのではないかと思います。
清らかなイメージである「水」に関するシーンでは、登場人物の「人生をリセットしたい」という想いが投影されているのではないかなと思います。
そんな思いを抱きながらも、束縛されることなく、自由に空を彷徨う月に憧れている様を描いてるのだと感じました。
いろいろな意味で、「大人に成りきれていない子供」同士が、互いに自立しようと与えあい、「大人になっていく」というテーマが描かれていたように思います。
ラストシーンでは、メンタルだけではなく、「フィジカル的な大人」への憧れまでも描いていたんだなと奥の深さを感じました。
最後まで見ると、すべてがつながる映画です。
胸を打つ150分の心の旅
「俺ははずれだから…」
文が裸になり振り返りながら更紗に苦悩を打ち明けるシーン。
ぽとぽとと落ち続ける文の涙の重さは
更紗には痛いほどだっただろう。
咄嗟に駆け寄り文を抱きしめようとする更紗。
更紗が近くにいるほど怖かったと打ち明け、払い除ける文。
長年、向き合ってもらうことができなかった肉親との関わりや身体へのコンプレックスは文のこころに高く険しい壁を築いていた。
しかし怯まず文に向かう更紗。
彼女自身も心にのしかかっていた過去からの闇を突き抜ける瞬間だった。
慟哭が吹き荒れたあとの静寂。
疲れ果て目を閉じ眠る文と
それをみつめる深くやわらかな更紗の眼差しは
かつて更紗を助けた時にみせた文のそれとおなじ温もりだった。
衝撃的な告白は、行き場を失うような切なさで
観るものの心までも切りつけてきたが
すべての過去を受け入れ成長した更紗がそこにいたことで地面にたたきつけられるぎりぎりのところでふわりと舞う一枚の羽に助けられたかのように展開した。
自分といればまた。。。と、
更紗を大切に思うからこそ臆病になる儚げな文に更紗は言う。
「その時はまた流れていけばいいよ。」
この覚悟ある更紗の言葉の力は
安らぎと強さをもって沁み渡る一筋の光。
文にも、私たちにも。
生きづらさを感じる魂はそこかしこにあることを胸に置く。
同時に、そこに手を添えられるのも私たちであることを伝える。
すこしの希望とたくさんの不安を纏いつつ歩み出した二人の強い絆。
これこそが 紺色の夜を彷徨うときにも淡くやさしく照らして包む流浪の月なのだろう。
原作を読んでからの鑑賞。
原作と映画ではすこし描き方はかわる部分もある。
すべての事象は偶然でなく、必然であることを改めておもう。
心ある人として生きるとき忘れてはいけないものを。
俳優陣の内面から湧き上がる感情の細やかな心の表現に見入る長くて短い150分でした。
松坂桃李と横浜流星にたじろいだ
これは、男性陣が圧巻な一本。暴力的な彼氏は綺麗な顔の人の方が迫力があり、観ていて辛かった。松坂桃李くんは儚げなキャラクターを上手く表現していて、ラストの告白シーンは迫力がすごかった。子役の女の子も可愛い。だけど、アイスクリームあんな大きなものをまんま食べるのは、アメリカじゃないし、違和感あった。いろいろ考えさせられた作品。
声無き声を語る映画。隠された暴力の痕跡が全編に散りばめられていた。
暴力について描かれた映画だった。
声をあげられない性暴力、妻や同居人女性への男からの暴力、ネットの暴力、週刊誌の暴力、養育拒否、母親からの子どもへの無関心と侮蔑、未成年同士の性暴力、公権力の暴力。
前向きに逃げる、という言葉を思い出した。
ぼろぼろになる横浜流星が良かった。彼の行動は父親譲りのものだったのだろう。あの家族の描き方が印象的だった。
切ない
重く、切なく物哀しい…
世間的に誘拐の加害者と被害者の2人。
周りはサラサを一方的に可哀想な子と決め付けて同情、フミをロリコン、変態等と罵る。
けれど2人にとって一緒にいた時間は自分らしくいられた大切な時間。
2人の間にある真実は、他人には理解されることはないんだろう。
観終わった後はなんとも言えない気分になりました。
表現的に分かりづらいかったので、原作を読んでみようかなと思いました。
「多様性」から除外された男たちの話
見終わった直後の印象は「社会派映画かと思いきや、ギリギリアウトな恋愛映画」だった。
更紗と文はくっついちゃダメだろと思ってたら最終的にくっついちゃって、見てる側からするとカタルシスはあるけどモラル的にはダメだよなー、でも面白かったな、みたいな感想だった。
帰り道に色々考えてるうち、違う考えに行き着いた。
一見、この映画の主役は更紗みたいに見えるけど、ほんとの主役は文と亮じゃないかと。
ふたりは線対称の関係で、更紗はその「線」の役割じゃないかと。
文はどうやら小児性愛者、亮はDV癖のある男として描かれている。
ふたりともそれが社会的に許されないと自覚し、それを隠しながらなんとか生きている。が、どうしてもそれを抑えられなくなりそうな瞬間もある。
更紗はふたりの“それ”が発露する対象として存在している、とも言えるんじゃないか。
文と亮の違いは、自分の“それ”を自覚し、向き合ってきたか否か。
若い頃に(何もしていないとはいえ)大きな事件となり、否が応でも“それ”と向き合わざるを得なかった文と、“それ”を無視し続けながら「社会的な幸せ」を掴もうとし、踏み外した亮。
心の中に怪物がいたとしても、人はこの社会の中で暮らさなきゃいけない。
そのためには、“それ”を無視せず、正面から対峙して、飼い慣らし、しんどくても一緒に生きていくしかないんだろう。
「多様性」とか「自分らしさ」とか安易に言うけど、こういう危険だったり汚いとされる「自分らしさ」は社会から除外される。
それは社会の治安や安全のためにはしょうがないかもしれないけど、でも社会が見て見ぬ振りをしても、そういう人もいるんだよ。「いる」ことを否定しても、糾弾しても、いる。
「自分らしさ」を発揮すればたちまち加害者になってしまう人たち。
そういう人たちとどう付き合えばいいのか、社会はまだその術を知らない。
この映画だって、おそらくどうしようもなく受け入れられない人もいっぱいいるだろう。
そんなことは百も承知で、それでもこの映画を作った李相日監督の覚悟を感じたし、私は敬意を払いたい。
一方、すんごい面白かったからこそ、些細なことが気になった。
ああいう生き方をしてきた文が、あんなにきれいな筋肉のついた身体なのは違和感ある、とか、更紗はどうやってあのマンション借りられたんだ?とか。
あと、警察に連れて行かれた梨花ちゃんがその後どうなったか分からず、更紗も文も心配すらしないのか…と思ったけど、二人には梨花ちゃんを心配する余裕なんてないってことかなぁ。
ともあれ、重厚感のある素晴らしい日本映画がまたひとつ誕生したことを嬉しく思います。
決めるのは本人たちではなく社会の目
「何もなかった」って証明が
一番難しい。ほぼ不可能。
更紗の人生で
一番「自由」だったのは
後にも先にも
あの2ヶ月間だけだったんですよね。
その後は
「誘拐の被害者」となってしまったので。
あの時は良かったっていう思い出だけで
頑張って生きてこれたのかもしれない。
本人たちは何も悪くない
周りが悪かったことにしちゃってるだけ。
でもその「周り=社会」とは
切り離して生きていくことはできない。
受け入れる?わけにはいかない。
受け入れたからってどうにもならないし。
もし小5の女の子じゃなくて
男の子だったらどうなってたんだろう?
誘拐にはなるんだろうけど、
ここまでのことにはならなかったのかも。
あと、女性が小5女子をだったら、とか
女性が小5男子をだったら
また話は変わってくるのかな。
「何もなかった」だとしても
結局は社会が決めること
ってなってしまうのかな。
本人たちには何もできない。
決めるのは「社会の目」
ものすごく怖い。
ん-、そうじゃなくてさ
面白かった。映画の間中ずっと集中して見た。良かった。見る価値あり。
でも、松坂桃李の設定がさ、身体的な特徴で仕方なく(どうしようもなく)女性と深く関われないっていうのがさ、んー、なんていうか、そうなると「そりゃしょうがないようね」「めっちゃ特別な人だね」になってしまうわけで、納得するけど共感はできんわけで、んー、そうじゃない設定の方が良かったなあ。広瀬すずの設定の方が共感できた。身近に感じられた。
是非とも見て欲しい映画。すごく良かったよ。
人間の想像力とは
映像は絵画ように美しく、主要な登場人物から語られる言葉は少ない。
そのため全体的に澄み切った冷たい池のような印象。
しかし内容は、人間の深みに入り込むような、観終わった後、心に重くのしかかってくるような作品。
画は美しいのに、テーマは重く暗い、このアンバランスさがこの映画の素晴らしい点だと思います。
先に小説を読んでいたので、ある程度、役のイメージはあったのですが、本当に役者の方々がお見事でした。
私の想像をはるかに超えて役を生きてらっしゃる、文や更紗や亮がそこで生きているのをみて、感動しました。
横浜流星さんの、弱くすがるような目と、愛情が憎しみと怒りに変わる目のギャップにはゾッとしました。
松坂桃李さんの顔つき、身体の線の細さも、想像する文そのもので、ラストの服を脱ぐシーンでは自然と涙が流れていました。
人間の想像力はなんと乏しいのか、と人間という生き物の悲しい限界をみたような気がしました。
そして、、、
文が池の上で浮いている姿がミレーのオフィーリアの絵とリンクして見えたのは私だけではないはず、、。
生きづらいあなたへ
自分がよく出張で行く長野県松本市が舞台と聞いて、これは観に行かねば、と思い観賞。
はじめは、行ったことのある場所や風景を追っかけてテンション上がってましたが、徐々に登場人物の心象にのめり込んでしまって、、。テンションも下がる下がる。
観終わって後はぐったり。あまりにもテーマが重く、濃厚で、かつラストで明かされる真実は驚愕。しばらく呆然自失になりました。
ストーリーは、ある事件を経て、社会の中でひっそりと生きていた二人が社会(世間)に再び晒され、やがて、まわりの人々を巻き込みながらも、彼らはその運命にお互いひかれ、そして、その宿命を受け入れて、「流浪の月」のようにさまよいながら支えあって生きていく。
性的マイノリティーである主人公を松坂桃李が熱演してます。影のある難役を見事に演じられてました。また、広瀬すずや横浜流星など若手の演技合戦はとても見応えがありました。若手俳優がむき出しでやっているのは清々しくて大好きなんです。
残念なのは、なぜ更紗が文に惹かれていったのか?更紗が当時置かれていた厳しい境遇を描いてもらうと2人の関係性をもっと深く理解できたかもしれません。あと子役が天真爛漫すぎるのも気になりましたね。
いずれにせよ、性的マイノリティー(広い意味で社会的マイノリティーという表現が適切)の人々を描くことで救われる方がたくさんいるんじゃないか。そうでないかたは知るという意味で。そういう人々を描くために映画ってあるんじゃないか、と強く思いました。
カロリー高めの映画ですが、本当に観て良かった。
追伸
松本市ではスタッフさんと同じ宿にも泊まってました。
素晴らしい映画をつくってくれてありがとうございました。監督、キャスト、スタッフ様に改めて御礼を申し上げます。
ハッピーエンド
シンプルにフミとサラサの魂がふれあい
そして強く結びついていくさまが描かれていて
ふたりにとって理不尽なことが
つぎつぎふりかかる
観ていて息苦しくなりそうなストーリーだけど
不思議とスンナリと受け入れながら
みつづけられることができた。
ハッピーエンドとは言い過ぎかも知れないが
魂が結びついていれば
流浪の中でも大丈夫な
ふたりであって欲しいと願って
鑑賞し終えることができました。
複雑ね
映画館で鑑賞しました。
上映開始から1か月が経過しているのに、映画館の席が6割以上が埋まっていてビックリしました。
とても率直な感想としては、面白かったかと問われると、何と答えらいいか分からない、といったところです。なにかがスッキリと終わったわけでもないので、明確な結末を求める方にとっては、面白くはない、とは思います。
ただ、鑑賞中は色々なことを考えさせられましたし、出演している俳優さん達の演技も素晴らしく、2時間30分という時間を長くは感じませんでした。
鑑賞している際に思ったことは以下のことです。
①文はロリコンだったのか。
文は自分のことをロリコンと認識しているが、ロリコンを小児性愛者と読み替えれば、更紗らに性的欲求をぶつけなかった文を小児性愛者というのか。文は能力的に「繋がれない」としても、繋がる以外の行動で性的な行動を表現することはできると思うが、少なくとも映画の中ではそういった描写はないし、更紗も「なにもされなかった」と言っている。このことから、一般的に想像する小児性愛者とは違う気もするが、ケチャップを拭うシーンもあり、更紗に対して恋愛感情は持っていた、とは思われる。
ここまで細かく考えましたが、結局は「普通ではない」「性的に大人になれない」と自分を卑下していて、成人女性に対してコンプレックスを抱いている男性、という表現が出きれば正確にロリコンかどうかはどうでもいい話だとも思います。
②更紗が従兄の行為を告白できなかった
文が警察に逮捕された後、更紗が従兄の行為を警察に言えなかったのは、更紗の中にもいろんな葛藤があったのかもしれません。言うと、従兄の立場が危うくなるかもしれない、そもそも自分の発言が認められず叔母の家での自分の立場がなくなるかもしれない等。
事件後の家での描写がなかったので分からないところですが・・・。
③多様性ってなんだろう
以前に比べ様々な多様性に対する寛容さが求められている世の中で、「ロリコン」という自分の力では変え難い嗜好は認められないのか。性的欲求に従い行動を起こせば、罰せられるのは当然ですが。
「大人の女性しか好きになってはいけない」というのも固定概念なのでは、とも思ってしまいました。犯罪となる行為を行わなければ、人の趣味・嗜好なんてどうでもいいだろ、と個人的に常々思っている自分としては、そう思ってしまいました。
(未成年に対する性的行為を含めた犯罪行為を容認するつもりがないことは、念のため記載しておきます。)
④アンティークショップのおじさん
細かい話ですが、あの人の存在は必要だったのか。必要だったとして、柄本さんでなくてよかったのではないか。柄本さんという俳優を使ったからこそ、アンティークショップのおじさんが際立ってしまった。
文も更紗も、複雑な背景を抱えており、本当の自分を見て認めてくれる存在を求めていた。しかし、状況しか見ていない、切り取られた情報しか知らない世間は、2人の関係性を認めない。辛いですね。
様々なことを考えさせてもらえた良い映画だったと思います。
彼は幼児愛者だったのか
李相日らしく見終わった後に考えさせる作品。
同僚の娘を預かるシーン。あそこだけ文が凄く普通のいい顔してて。150分中あそこだけ。
やっぱり?と思わされるシーケンスで最後までずっと引っかかってたけど、あれは絶対に手に入れることができない「普通」だったのだろうかと思うといたたまれない。
コンプレックスを曝け出し、受け入れられ、文はあの笑顔を見せているだろうか。
追記
ロリコンかどうかだけど、文の解釈の通り「大人の女性を愛せない(秘密を受け入れてもらえないから)」が正解で幼児しか愛せない性癖とは今作に関しては違うかな。
更紗だけ成長してしまった旨のセリフや実家のエピソードから自己認識として精神的な成長は止まっており、更紗に対する想いは純愛だと思う。
寄り添う2人
善と悪の境界線なんてものはハッキリするはずがない。
弱く脆い2人の出会い、そして互いを補填するかの如く寄り添い過ごす姿がとても素敵だけど儚く感じられる。
そこには愛というには、まだ幼すぎる想いとそれを許さない社会の目。
引き離された2人の15年後の邂逅。それぞれ生きた年月では埋められない想いが2人を惹きつける。
ただ2人の想いとは裏腹に善という名の行為を振りかざす人の恐ろしさを見せられる。
人の弱さや恐ろしさを見せられるのだけど、その中でも2人のおもいやる姿と寄り添う姿に心がぎゅっと締め付けられた。
自分の立場は亮くん
2人のことは、2人にしかわからない。
幼くして誘拐されて、監禁されていたと認識されれば、それはどんなに本人たちがなにもなかったと言ったって、そうはいかない。
報道されたことだけを鵜呑みにして、表面だけをなぞって…今の社会に溢れているリアルな世間の感情。
亮くんは、私たちの目線の人。
だって、信じられないもの。誘拐された、だけどなにもなかったなんて。
だから、俺が守る。って思っているのに
また再会した誘拐犯のところへ行こうとするなんて許せるはずない。
当然の感情で、でも文と更紗からしたら、なんて酷いことをするんだって。
たくさん考えさせられる映画でした。
あんなに嫌な役を演じた横浜さん、今までの印象を覆されました。
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