カナルタ 螺旋状の夢のレビュー・感想・評価
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深く濃い緑が語りかけてくるもの
英国の大学院で映像人類学を専攻する監督が、卒業制作のため一人でアマゾンの奥地へ踏み入り、現地で生活しながら記録されていった映像群である。まず度肝を抜かれるのは、冒頭、一人の女性が口内で混ぜ合わせた液体を勢いよく鍋の中へ噴射するところ。この儀式的な場面を経て、我々は通常の日本人的な常識とは異なる文化や習わしがあることを知る。そこでは何かと発酵した白濁の液体が重宝され、なおかつメインの男性は森の中を徘徊しながら薬草を探し、鬱蒼とした草木をナタで切り開き、そこに手作りの住居を築き上げたりもする。彼らにとっては何気ない日常でも、我々にとっては発見の連続。ちょっとした言動に価値観を揺さぶられ、場面を重ねることでふと言い様のない親近感や愛おしさが湧き起こってくる。世界はとてつもなく広く、文化や価値観は多彩ーーー当たり前のことではあるが、自由な世界旅行もままならない今、この映画がその普遍を教えてくれた。
新時代の映像人類学者
この映像を撮らせた監督はいったい…
田中泯さんを撮った犬童一心監督にも感じましたが、この人物の映像を撮らせるという撮影者の力量。
そこにまず興味が湧きました。
友人が上映を企画してくれたのですが、
なんと太田監督をお招きしての開催。
光海監督はイギリスの大学で映像人類学を専攻していて「カナルタ」は大学の卒業制作として撮影されたそうです。
フランスに住んでいる際に、日本・アジア人差別といった立場を経験して、ひたすら映画館に篭っていたそうです。その経験が少数民族や映像への関心に繋がっていったと話してくれました。
監督自身がアマゾン先住民の住む現地に1年間滞在して、撮影時間はわずか40時間ほどだったと言います。映画の中では1日でやってそうに見える事も実際は4〜5日かかっていることも多く、そのうち3〜4日は一緒に作業を手伝い、こう撮ろうと決めて1日で撮る、というスタイルだったそうです。
映画が進むにつれ、セバスティアンがどんどん心を開いて名前を呼ぶことが増えていきます。
仲間として認められるくらいドップリ順応していたことが伺えます。
セバスティアンが斧で大怪我をしたシーンは壮絶でした。医療資格を取得した息子さんが施す現代医療は役に立たず、薬草に切り替えて自力で治してしまいます。回復後は背部に傷が見えるものの、かなりキレイな治り方でしたし、またターザン並みに飛び回ってました。
村人達は街に出た時に市販のビールなんかを買ってくることはあるんだけど、どこの誰がどんなもの使って作ってるかわからないから、体に良くないと思ってるそうです。それよりうちの女達が作った酒(バナナ噛み噛みしてペーして作るやつ)の方が遥かにうまい、と。
映画の中では、とにかく男は男らしく、俺の強さを見ろ!女は酒を作り飯を作り、子供を育て、家を守る、という姿が出てきます。
ジェンダー問題とかいろいろ言われていますが、自然界の根本ではやはり男と女はハッキリと役割が違うものなのでしょう。
多様化が認められるのも現代社会の中の自然ではあるんでしょうけれど、種の根源的なことを言うと、どんどんシンプルになるんじゃないかな、と思います。
上映後の質問会でこれまた回答力がハンパなく高く、参加者からの質問も止まりません(上記の内容はその時の話も混在しています)。
その質問はちょっと…と思うようなものでも、納得度高すぎの回答が出てくる監督、1989年生まれですよ…
あとから「その回答力は一体どうなってるんですか?」と本人に直接聞いてみたら、「同じ言葉を使わないようには気をつけています。伝えたい内容は一緒でも形を変えてます。」
と言うようなことを仰っていました。
彼の言葉は各種SNSで見られますが、ハッとするような言葉がたくさん。
デジタルネイティブ世代というか、新時代の人達が現れ出してるな、と感じます。
PCのスペックが違うように、情報処理能力やメモリ機能とか、性能全般が格段に上がっているというか…
飾らず気取らず、常識に捉われず、サラリと極地に行ってしまう。そんな人でした。
追記
9月の鑑賞後の10月に、出演者のセバスティアンの訃報が届きました。
その時の太田光海監督の言葉がまた、、とても胸を打ちました。ご存命中最後の上映会を鑑賞できたことに感謝申し上げます。
自然に生かされると言うこと
ドキュメンタリーだ
派手な事件も、気持ちを誘導するバックグラウンドミュージックもない
ただただ、自然の虫の音、料理をする火の音、煮られる素材の音、人間の話し声だけが音としてある。
本当は映画館で見たかった。
アマゾンに住むシュアール族の村に監督が1年間滞在して撮ったのだとか。
それが日本人の青年だというから驚きだ。
東京出身で、あの自然の中で貴重な資料を残し、数々の賞を取ったらしい
密着するのはセバスティアンという50歳くらいの男
妻は村の村長らしい。セバスティアンの父はシャーマンで、息子は町にある学校で医者になったような表現があった。
セバスティアン本人も、リーダーとして達振る舞ってるように見えた。
彼らは洋服も着るし、金属の鍋も、プラスティック製品も使う。文明の存在も知っている。
村の権利を要求しに町で交渉もする。
それでもアマゾンで自分たちで建てた家に暮らし、アマゾンで取れた食材を食べる。
選んであの生活をしているのだ。
セバスティアンは歌う、大きな木を切らないで 子どもたちは何を食べたらいいの?
アマゾンではもう狩猟もままならず、肉はなかなか食べられないらしい。
昔の生活のように見えて、実は未来の私達の生活なのかもしれない。
ハリウッド様式の刺激を解毒してくれる
作為的で不自然なほどの刺激は、もはや洗脳と言っても良いレベルで我々現代人を汚染している。
洗脳された汚染人には、この一見淡々と流れる画面に入りきれなければ退屈することが幾度となくあるだろう。
しかしここに流れているのは、圧倒的な生の謳歌である。現代人が失った五感から六感までを駆使する生き方が描かれている。
我々の非日常が、彼らの日常だ。
とするとーー我々の日常は、不自然ーーという言葉で表す以外ない事に気づく。
主人公シュアール族のセバスチャンは、非常に知能の高い人物だ。机上の空論を振り翳すことのない、生きた学問の実践者だ。
彼は意図的に、アマゾンの森を守っている。
Tシャツとジーンズを身につけながらも、近代文明とはキチンと距離を取って、彼ら自身の生き方を守ろうとしているし、守っている。
中国企業やグローバル企業の魔の手が、アマゾンの森を搾取しに来ている。
『この大きな木を切るな。我々の子供たちは何を食べていったら良いのか』
セバスチャンの歌は、まんま我々への問いかけとして胸に深く届く。
見終わった頃にはハリウッド映画の洗脳刺激から逃れて、生きる原動力を得ているだろう。
全ての人類が
こんなふうに生きていた過去がある。
だから地球の裏側でも既視感がある。
五感、手足を使って食べ物や家を作る。
有用なものが何か?は自分の身体に聴いてみる。起こった出来事には意味がある。
生きる道はすでに示されている。
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