「「善意の人」が「善意」ですることの痛さ」英雄の証明 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
「善意の人」が「善意」ですることの痛さ
<映画のことば>
「お代は、いいよ。」
「いいえ。いくらですか。」
「囚人はタダだよ。」
「不公平です。」
「それが世の中さ。俺も2年服役した。」
お金の貸し借りということは純粋に民事的な取引のことであって、最初から踏み倒す意図で借りた(貸し金の名目で詐取した)というのでもない限り、犯罪を犯したものとして服役しなければならない道理はないと思うのですけれども。
(日本では、借金を返さない=金銭債務の債務不履行は、犯罪ではないこと、もちろんです。)
彼の地では、そうではないようで、「服役」という重圧で貸し金の返済を促すという法制度になっている様子です。
(イラン国民は名誉を重んじるということですから、その名誉を担保に借金の返済圧をかけると言ったところでしょうか。ある意味では「返さないとこうなるぞ」という見せしめ的な効果を狙ってのことかも知れません。しかし、実際は、上で拾った映画のことばのように、借金で投獄される人は少なくないように見受けられます。)
そうだとしたら、この「借金服役制」は、あまり人道的なやり方ではないように思えてなりません。タクシーの運転手が、安直に「替え玉」を立てることを示唆してしまったのも、過去に、その「重圧」に苦しめられた体験があったことと無縁でなかったからだろうと思います。評論子は。
総じて、本作には「これは」という悪人は登場していないようです。件のタクシー運転手は言うに及ばす、服役囚の善行を美談に仕立てて、自分の刑務所の評判を上げたい所長ら刑務所の職員も、積極的に美談を掘り起こして自分達の活動を引き立てたいチャリティ協会の役員たちも、吃語症の息子を前面に押し出しても、ラヒムの善行を世間に印象付けようとするラヒムの職場の同僚のビデオ撮影も。そして、自分達は万一のときの「火の粉」を被りたくない審議会の職員も。
反面、ラヒムを刑務所送りにした、前妻の兄のバーラムも、彼のために高利貸しの保証を引き受け、私財を処分して保証人としての責任を果たしていた…。
それらの、個々には決して悪意のない「善意の人たち」の「善意の行為」が、かえってラヒムをどんどんと深い深い泥沼に引き入れていくさまは、観ていて切ないと言う他に、評論子には言葉がありませんでした。
私が参加している映画サークルで、上映会で取り上げることになり鑑賞することにした一本でしたが、観終わって、心に痛い一本になってしまいました。評論子には。
(追記)
ファルコンデは、ラヒムのどこのどんなところにホレて婚約までしているのかは、評論子には然りとは分かりませんでしたけれども。
それでも、彼女が彼を上手く「操縦」しているような節も見受けられたように思います。
金貨入りのバッグを拾って、自分たちでの換金を最初に言い出したのは、案外、彼女の方だったのかも知れないと思いました。そんなくだりも、作中にはあったように記憶します。そんなこんなで、彼女もけっこうな「ファム・ファタール」だともし言ったら、それは、評論子の思い過ごしというものだったでしょうか。