「作られた英雄の悲劇」英雄の証明 ありのさんの映画レビュー(感想・評価)
作られた英雄の悲劇
金貨が入ったバッグを持ち主に返したことで一躍時の人となった男の数奇な運命をサスペンスフルに描いたヒューマンドラマ。
監督、共同製作、脚本は「彼女が消えた浜辺」、「別離」、「セールスマン」のアスガー・ファルハディ。人間の欲望と悪心、イラン社会に根付く独特の秩序を巧み絡めながら展開される物語は今回も健在で、改めて氏の手腕に心酔してしまった。
ただし、今回はイランの法制度についての予備知識がないと少し分かりづらい内容かもしれない。主人公のラヒムは借金を返済できず債権者から訴えられて服役している。全額返済すればその罪は直ちに許されるらしいが、これは日本の法律では考えられないことであろう。
あるいは、服役囚のためのチャリティー団体が登場してくるが、これも日本では馴染みのないシステムではないだろうか。集められた寄付金は囚人たちのために使用することが可能なようである。
これまでにもファルハディはイラン社会に根付く独特の慣習や不文律をドラマの大きな要素として取り入れてきた。例えば、女性蔑視の歴史的な文化や、婚姻関係の司法上の複雑な問題等。我々からすると想像もつかないような規範と習性が、主人公たちの運命を翻弄していく。
今回ファルハディはイランの法制度や警察権力の闇、あるいはSNSが持つ社会的影響力といった所に着目し、それらをある種シニカルでナンセンスなユーモアとして描いて見せているような気がした。明らかにこれまでとは違った目付をしていて、自分はそこが新鮮に観れた。
それにしても、本作の主人公ラヒムは余りにも情けない男である。映画は彼の視座で進行するので、彼の境遇を同情的に見せているが、しかしよくよく考えてみると彼は小さな嘘をたくさんついているし、多くの人間を傷つけてきた。それらの罪に目もくれず、拾った金貨入りのバッグを持ち主に返したということだけを注目して善人のようになっていくこの状況は、どう見ても何かがおかしい。こういう状況を作ってしまったことの最大の原因は彼を祭り上げたマスコミや彼を利用した警察関係者にあることは間違いない。しかし、主体性がなく周囲に流されるがままになるラヒム自身にも原因があったのではないだろうか。彼は決して根っからの悪人というわけではない。しかし、決して善人というわけでもない。要は人が良すぎるのであろう。
中盤から、ラヒムを訴えた債権者が姿を見せるようになる。彼は借金を全額返済すれ罪を不問に付すと言っている。しかし、これも果たして本当だろうか?映画の中では描かれていないが、彼は裏でラヒムを陥れるような工作をしていた可能性は否定できない。ラヒムの再就職を邪魔したのは誰か?ということを考えれば、そう想像するしかない。
しかして、紆余曲折ありながら、二人の対立は深まっていくのだが、終盤で大きな事件が起こりラヒムの運命は決定的に暗転してしまう。こうなる前にどこかで歯止めがきかなかったのか…と考えてしまうが、やはりそれは無理だったのだろう。何しろラヒム自身が、至る所で選択ミスを犯してしまっているのだから…。すべては彼の心の弱さが生んだ結果なのだ。
ラストカットが印象深かった。この映像構図はラヒムの顛末を余りにも残酷に提示して見せている。観終わった後に色々と考えさせられた。
過去のファルハディ作品のセルフオマージュらしきものが散見できたことも、本作を観る上では楽しめた。
例えば、ラヒムの幼い息子が登場してドラマ上重要な役割を果たしているが、ファルハディ映画における子供の存在の大きさは「別離」や「セールスマン」を観るとよく分かる。子供は常に大人たちの醜い争いの犠牲となっている。本作も然りである。
また、本作ではバッグの持ち主を巡る謎解きドラマが挿話されるが、これなどは「彼女が消えた浜辺」のヒロインや「セールスマン」の”前住人”のごとく、終始ミステリアスである。”不在”が創り出すスリリングな作劇はファルハディ作品の魅力の一つだと思うが、そこに今回も引き込まれた。