わたしは最悪。のレビュー・感想・評価
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「何者かになる」を追い続けることは「最悪」か?
◯作品全体
次々とパートナーを変えていき、浮気をして、結婚間近の空気感をも振り払い、浮気相手のところへ身を寄せ、その相手すら自分の理想的な答えをくれなければ切り捨てる。挙句の果てに妊娠して母親になることの戸惑いをどうにかしようと末期がんの別れた男のところへ顔を出す始末。相手が自分のことを好きでいてくれていることに甘んじて、自分にとって都合の良い距離感となった男と昔話をして「良い母親になる」という言葉を引き出そうとする。死期が迫っている男に対して付き合っていたときに会っていたと平然と言ってのける姿は、病人の傷口をえぐっているようにしか見えない。
…いや、本当に、酷い女だなあと思うんだけれど、個人的に憎むことができないのは、その最悪な振る舞いが「何者にもなれない」ということにもがいているからだ。
自分の中で未来にいろいろな選択肢があることを自覚している時を「若いころ」というのであれば、若いころは「何者かになれる」と思っていた。自分の理想としている自分の姿にいつかはなれるんだと思っている間は、きっと主人公・ユリヤもその確証の無い向上心が自分を支えていたはずだ。
しかし自分が「何者かになれない」ということを自覚したとき、そうではないと誰かに言ってもらいたくて仕方がなくなる。本作ではパーティでアクセルが評価されていてユリヤが蚊帳の外にいるシーンが、その境界線だった。ユリヤは誰もしらない別のパーティで踊り、後々アイヴィンから「場所をとっている」踊りだったと言われるような存在感を示した。そして自分を主役と見定めてくれたアイヴィンに痴態を晒す。そうすることで、誰かの主役になっていたかったのだ。
一方でアクセルに自分の文章を的確に分析してもらって世間から注目されると、ユリヤの振る舞いも物語としての波風も落ち着いてくる。自分自身が主役であるうちは自己実現が出来ている、という認識なのだろう。
個人的にはこの、何者にもなれないことを突き付けられたときの悲しみや、年齢とともに役割を押し付けれる苦しみ、自分の役割を自分で選んで自己実現ができている間の喜びにすごく共感して心に刺さった。そしてユリヤの痴態ともいえる行動に、怒りや滑稽さよりも悲しさを感じてしまった。なぜならその行動には「何者かになりたい」という感情がしっかりとあって、思い通りにいかないユリヤの苦心が伝わるからだ。
自分が何者かになろうとしても、世間の評価や年齢が自分の心を折ってくるあの感覚。一番辛辣だったのは本屋でバイトをするユリヤがバックヤードから出てくるカットで、スタッフ用の服の背中に「喜んでお手伝いします」と書かれていたことだ。お前は主役ではない、サポートをするポジションだ、と冷たく突き付けられ、それを背中に掲げなければならない。何者かになりたい人間にとって、これほどつらいことはないだろう。そしてその服を着たユリヤは入院したアクセルに会いに行き、母親として生きるために背中を押してもらいに行く。「何者かになる」ということを一度は諦めてしまったように見えた。
しかし流産し、物語のラストはユリヤがカメラマンとして仕事をこなす。アイヴィンはユリヤが撮影した女優の夫になっていて、ユリヤが望んだ仕事に一人没頭する姿で幕を閉じるが、その結末は「最悪」だったのだろうか。
個人的には答えはノーだ。「私」の振る舞いは確かに最悪だったが、この結末は彼女が望んだものだ。それが孤独であれ、本人がずっと望んでいるものを追い続けるのであれば、「最悪」と結論で付けるのはまだ先のはずだ。
自分は「何者かになる」を諦めてしまった人間なので、諦めずに独り前へ進むユリヤには、どうか自分が主役だと思えるハッピーエンドの未来をつかみ取ってほしい。
本作を見ている時も、見終わった後もそう願い続けたくなる作品だった。
◯カメラワークとか
・朝のなにげない一コマで時間が止まり、アイヴィンとともに高台へ向かうシーン。空想の時間の切り取りが上手だった。街の人々が動かない、というのは空想の表現でもあるだろうけど、個人的には街の中で動いているのは自分とアイヴィンだけ、という主役を夢見るユリヤの理想が垣間見えたような気がした。
◯その他
・パーティ終わりにユリヤが街並みを見つめるカットが良かった。夕方の寂しい空気感と綺麗な街並み。街並みはすごく綺麗だからこそユリヤ自身のみじめさが浮き上がってくるような。
彼女から別れを切り出されるシーンがリアル。。
彼女から別れを切り出されるシーンが昔の苦い記憶を思い出させて胸が締め付けられた。そう、女性は理屈じゃないのよアクセル。。なかなか納得いかんと思うが。(しかしちょっと待てよ、、あの時も実は新しい男がいたということか。。)
アクセルが癌になるシーン、真に迫っていた。
あんな感じで急にくるものなのだろう。
思いのほか長い。いや長く感じたが正しいか。
触れるか触れないかの繊細なボディタッチ、煙の交換など、あー言うのがエロくて興奮するよね。目的をとにかく達すればいいというもんじゃない!
一言で表せられたり、何かわかりやすい教訓を簡単に得られることを期待して観ない方がいい。
抵抗感はあったが突き離せない、未熟さに気付くまでの道程
このタイトルは主人公の自虐的な自己紹介で、実際はもうちょっとかわいげのある悩みの話かと思ったら、正直掛け値なしに最悪に近くてちょっと引いた。勝手な想像をした私が悪いのだが、ポスターのイメージも相まってライトコメディでも見るような構えで受けたので、主人公のキャラと後半の重さに不意打ちを食らった。
いわゆる「お勉強ができる」人間が、成人してから肝心の自分の人生の方向性が見えずに迷う気持ちは、何となく分かる。女性だからというだけで結婚すれば子供を産むだろうと思われることに抵抗を感じる気持ちも分かる。自分の人生も見定められていない状態で、子育てに自分の時間を捧げることに踏み出せない気持ちも、分かる。
一方、何となく感じる行き詰まりや息苦しさの理由を、彼女は他責的に考えているように見えて、そのことに抵抗感があった。恋愛への依存心が重い。人生の空虚さを埋める手段として、自分と向き合うのではなく、代わりに相手を傷つけつつパートナーを変えているように見えてなかなか受け入れにくかった。
年上のアクセルに「何か違う」と感じてアイヴィンと浮気し、アクセルにとっては唐突とも思える形で彼に別れを告げる。アクセルはご都合ではと思うほど物分かりよく別れてくれる。でもアイヴィンと付き合いだしても、結局自分の人生に対する「これじゃない」感は消えない。望まない妊娠と流産を経て、結局アイヴィンとも離れる。子供がほしかったアクセルの病床で、アイヴィンとの子供が出来たことを告白する場面はあまりに残酷。
ラストでその後フォトグラファーに転職し、他の女性と子供を持ったアイヴィンを割り切った表情で見送る彼女の姿を見て、やっと自分と向き合って、人生の歩き方を見つけられたのかも知れないと感じた。
映画として客観的に見ているから、他人の無神経さを見ているようなもやもやした気持ちになったというのもあるだろう。私自身も、違う形だが失敗して誰かに迷惑をかけ傷つけて、自分の未熟さを学んだ経験はある。この映画がそういった人生経験を主人公補正なしに描いているからこそ、あの未熟な自由さを見てどこか身につまされ、そこに抵抗感を覚えたのだろうか。
ユリヤ以外が静止した世界の描写、ドラッグでトラップした時の映像表現は幻想的で面白かった。ユリヤ役のレナーテ・レインスベの美しさ、北欧の風景や洗練されたインテリア、何より終盤でのアクセルの聖人のような言葉が癒しだった。
この映像、彼女の決断に、ずっと心を委ねていたくなる
幕開けから新鮮な勢いを感じる。綴られるのは主人公ユリヤがいかに心変わりの速い人物かってこと。「他にもっとふさわしいものがあるのでは?」と考えだすともう止まらない。自分の気持ちに素直であるがゆえに、その行動はとても迅速。まさに突風が吹くかのように過去を捨て、新たなものを掴もうとする。トリアー監督の視座はそんなユリヤのことを一切批判もしないし、むしろ研ぎ澄まされた映像で彼女のあらゆる心の機微を祝福しているかのよう。性に関するオープンな会話にしても、吐き出した煙の交換にしても、悪趣味や下品に傾くことのないトリアー的視点が機能。決して蔑んだり、道徳的になったり、「ほれ見たことか」と上から目線で抑えつけようともしないし、静止したオスロの街を駆け抜ける際の高揚感、疾走感なんて観る者をナチュラルに惹きつける至高の場面だ。ユリヤの人生、決断、それを映し撮るトリアーの映像にずっと心を委ねていたい一作である。
カンヌ国際映画祭で女優賞受賞、アカデミー賞で脚本賞と国際長編映画賞のノミネートは伊達じゃない、大人の恋愛映画。
本作は、脚本と主演女優に大きな特徴のある作品です。
まず脚本は「序章」「12章」「終章」から構成されています。
序章で、「医大は成績優秀者に相応しい進路だ」と考える主人公ユリヤ。でも想像と違うと、医大を辞め心理学へ。そして心理学もピンと来ないと写真家に、と自分探しをします。
そして、パーティーでマンガ家と出会います。
それ以降の各章にはタイトルが付いていて、分かりやすい構成になっています。
(途中、ユリヤが時間を止めるシーンが1回出てきますが、これは「ユリヤの空想」を表現したものです)
2022年の第75回カンヌ国際映画祭で是枝裕和監督作「ベイビー・ブローカー」で主演したソン・ガンホが男優賞を受賞しましたが、前年の第74回カンヌ国際映画祭でユリヤ役のレナーテ・レインスベが初主演で受賞しています。様々な顔を見せるユリヤを見ていれば、これは納得がいきます。
そして本作はノルウェー語なので、アカデミー賞では「国際長編映画賞」に該当し、まさに日本の「ドライブ・マイ・カー」と賞レースを競っていたのです。
本作の邦題「わたしは最悪。」について、2つの意味で考察が必要だと思います。
1つ目は、「邦題のセンスがないのでは?」ということ。
これについては、原題のノルウェー語では「Verdens verste menneske」となっていて直訳すると「世界で一番悪い人間」という意味になります。
ただ、これは正直なところ分かりにくいと思います。
英語版では「The Worst Person in the World」と、そのままです。
そこで邦題は、このノルウェーでの慣用句を分かりやすく「わたしは最悪。」と訳しただけなのです。
2つ目は、「そもそもどういう意味なのか?」ということ。
これは、ユリヤが「ある段階」で頭に浮かぶセリフだと私は解釈しています。
その「ある段階」は、人によって異なるかもしれませんが。
ひょっとしたら1回目では作品の良さが伝わりきらないのかもしれません。そこで、もし機会があれば2回は見てみてほしいです。有名な賞を受賞したからと言って、誰にでも合う作品なんて無いのだと思います。
でも、この作品は、「別の機会に見て、良さが実感できたりする名作」なのだと私は考えています。
やや大人な映画なので「R15+」なのも納得ですが、大人になったからこそ分かる作品と言えます。
人生の選択について考えさせられる
オスロで暮らす聡明で美しい女性主人公ユリヤによる人生の選択、恋愛(+結婚するかどうか)の選択をめぐる物語なので、英題の「The Worst Person in the World」は大げさだが、これもまた、自分の目に映る範囲だけを“世界”と認識する「セカイ系」の一種と考えるなら、彼女の目線での自虐的なタイトルということになるだろうか。
フィクションゆえに誇張されている面ももちろんあるが、自分のキャリアの選択はこれでいいのか、今のパートナーとずっと一緒でいいのかなど、誰もが一度や二度は覚えがある悩み、劇中に「自分探し」というワードも出てくるし、そんな普遍的な題材に共感する人も多いだろう。また、年齢の離れた相手と交際した経験がある人なら、ユリヤとコミック作家アクセルとの関係にきっと自身の記憶を重ねてしまうはず。
基本はリアリズムの描写で語られるが、予告編でも示されているように、マネキンチャレンジのように静止した街の中をユリヤが駆けていくシーンと、マジックマッシュルームを食べて幻覚を見る場面で、リアルから逸脱したファンタスティックな視覚効果が使われているのも印象的だ。
余談めくが、ちょうど3年前の2019年6月に北欧を旅行しオスロにも2日ほど滞在した。市内には「テネット」のロケにも使われた美しい外観のオペラハウスや、ノーベル平和賞授賞式会場として知られるオスロ市庁舎にも近いベイエリアなど、見栄えのいいロケーションも多々あるが、そうした観光名所を敢えて避け、欧州の都市のそこかしこにありそうな“素顔の街並み”を背景に撮影しているのは、デンマーク出身ながらノルウェーのオスロで育ち、同国で作品を発表し続けてきたヨアキム・トリアー監督ならではだろう。
自分以外の世界が止まって見える
“理想の人生”と“厳しい現実”の間で揺れながら、自分の気持ちに正直に生きていくことを選択していく女性の失敗と成長を描いた、ロマンティック・コメディタッチの恋愛ドラマである。
ヨアキム・トリアー監督は、遊び心溢れる独創的な映像と音楽で主人公ユリヤの心情を映し出す。彼女が芸術の都オスロを眺めながらひとり帰途につくシーンや、それまでの自分から解放されたかのような表情で街の中を駆けてゆくシーンが印象的だ。ユリヤを演じたレナーテ・レインスベは、まるでユリヤが自分の中のいくつかの人格と対話するかのように、子供のような無邪気さと愚かさ、さらに大人のずるさと賢さが混在する年代の感情の揺れ動きを、繊細かつ大胆な演技で表現している。
日常の中で時おり抱くある違和感。自分は何者なのか、なぜここにいるのか―。部屋の電気のスイッチを「パチン」と押した瞬間、抑えていた感情が彼女の中で弾ける。外へ飛び出すと、自分以外の世界が止まって見える。そんな街の中をゆっくりと駆けだしていくユリヤの表情が笑顔に変わっていく姿に世界が共感したのだろう。
A Portrayal of the Sadness of Romance
Nobody really knows how or why love makes the world go round. The Worst Person is a story of how unexpected occurrences and unfulfilled desires bring forth betrayal to a committed relationship. What ensues is a new life clouded in the past of broken promises. Broken up into eleven parts, the film is easily digestible. Like Romania's Loony Porn, it's an up-to-date essay on Instagram woke zeitgeist.
感想メモ
賢いからという理由で医学部に進み、自分は人間の肉体ではなく心に興味があると言って心理学を学び、はたまた写真家になりたいと言い、気が付けば何者にもなれないまま30代手前
君は行き詰まったら別れる、とアクセルに言われていたが、その通りだと思う
それ以上の道を模索せずに別の分野、別の男に可能性を見出す、そういう無いものねだりな態度はかなり心当たりがあり、身が引き締まる思い…
街のうごきが止まるシーンが印象的、動いているのは2人だけ、1番楽しい恋の始まり
あの夜だけの思い出にしておいた方が良かったと思うけどねー、直接の性描写無しの手前のエロさが何とも言えない、タバコの煙吸うのとか
彼女の生き方を”最悪”と称するには共感する部分が多すぎる、わたしも最悪かー
自分の思い描いていた理想と現実の乖離に耐えきれず、目を背け続けている、才能が無いと分かるのが怖くて向き合いきれずにいる
膵臓癌で死にそうな元カレのところに行って、君なら良い母親になれると言って、はかなり最悪だったけどね
人との出会いのタイミング、重要だなー
構えて見たけど大丈夫でした
トリアー家とは相容れない私。でも何だかやけに評判良いのよね。アマプラだしイヤなら見るのやめればいいし、と自分に言い聞かせて見始めました。もちろん懐疑的に。でも何分経ってもあの家系特有の厚ぼったいめんどくさい鼻につく「こちらはアートやっておりますので」臭がしてこない。なんならグレタ・ガーウィグかと思うほどの軽やかさ。この年代の女性の描き方も見事。若い女の子は、男の子もなのかな?理由もなく別れるよね。理由もなく仕事も辞める。もっといいものがあるかもしれないと思うからなんだろうね。耐え難いほどの問題がないならそのまま続けたほうが良いよと年寄りは思うのだけど、その年寄りの冒険しなさこそが若者が嫌うものなんだもんね仕方ないよね。アクセルはそこを見誤ってた。本人がどんなに大丈夫と言おうともやっぱり年齢差カップルは年下から離れていくんだよ。だって彼らには次があるんだもん。置いていかれる年寄り側は本当に憐れ。いやー素晴らしかった、トリアーさん疑ってスミマセンでした。
何を持って最悪というのだろう
題名からしてもっとコメディっぽい作品かなと思ったら一人の女性のシリアスな生き方の話。
プロローグからわかるように飽きやすく一つのことに集中できないコロコロ変わる主人公。
裏を返せば替わることの決断力があるということかも。
映画は作品を通して何を言いたかったのかあまり理解できず観た自分が最悪と思ったがレビューや作品批評など読むとそう思った自分が最悪だった。
妊娠しているのにたばこをパカスカ数のは最悪だし、12章でシャワーを浴びるシーンが印象的だった。
エピローグで窓から見えたのは元カレが新しい彼女との間に子供を授かっていて楽しげに歩いていた。
「赤ちゃん、いらん言うてたんとちゃうんか!」と叫んで終って欲しかった。
The worst person in the world
I get that you feel stuck.
But is this the solution? The best solution?
人それぞれに「自分って最悪!」がある
好きだったな。
前半はポンポン、テンポよく進んでいく。
プロローグ的な。まだ本章は始まってない、説明部分的なところはポンポン進んでいくので、本章に入って行く頃にはストーリーに引き込まれてる。
最初のテンポとはうって変わって、
ストーリーが後半になっていくに連れて、ゆっくりと、ひとつひとつのシーンに集中させてくれる感じ。見入ってしまう。
俳優たちひとりひとりの演技、役作りも魅力的だった。
主人公ユリヤ、コミック作家アクセル、カフェ店員アイヴィン。
この3人をメインキャストとしていいんだろうけど、
この3人、なんかじっと見てしまう魅力があった。
もしかしたら、そういうカメラワークや演出がそうさせてるのかもしれないけど、後半は彼らの演技がとても自然であり、魅力的であり、感情、表情に引き込まれていった。
ノルウェーの作品を見るのは初めてだったかもしれない。
ノルウェー(オスロ?)の街並みが味わえて楽しかったのも、冒頭この作品に引き込まれていった要因の1つだと思う。
北欧、という感じがところどころ感じたというか。笑
具体的にどこが、って説明するのはムズイのだけれど、
街並み、インテリア、人の佇まい(もちろん日本とは違うし、アメリカの感じとも全然違う。ヨーロッパといってもやはり北欧は北欧で独特の雰囲気がある。自立感?の空気?)そういうものから違いを感じた。
私は日本の作品では何故か「湿度」を感じる。映像に。
なぜかわからない。日差し、光量が関係しているのかもしれないけど
作品を見た時に、その光量で湿度とか気候の感じが伝わってくる。
今作の、他の家族たちとコテージで宿泊するときのあの気候の感じ。気持ちよかったな。
そして街並みの時も、空気・気候の感じを味わいたくなって、観ながらもすごく気候・空気感を想像していた。
「気持ちよさそうな気候だな〜」なんて思いながら終始見ていた。
インテリアもよかったな〜
それこそ北欧って感じがしたな〜色味。白とかクリームとかスッキリシンプル系な感じがした。全体的に。
アクセルと住んでた部屋が好きだったな。
アクセル、私は結構好きなタイプだった。
だから結構こころ掴まれる、ぎゅ、っとなるシーン多かった。
ユリヤに別れを告げられて、引き留めるシーンがとても好きだった。
アクセルのスキンシップの取り方、距離の詰め方がタイプだったな〜〜
アイヴィンも優しくていい男だったよな〜
(アダム・ドライバーに見えて仕方ない)
良いか悪いかは置いておいて、ユリヤのああいう決断の仕方、わかるところがあった。
「行き詰まると別れる」私もその節があるから耳が痛い。
何かに行き詰まると、今、できることをしようとしてしまう。
衝動に近い。
それは持ってるものを手放すことかもしれないし、人間関係を見直すことかもしれないし、引っ越すことかもしれないし、転職することかもしれない。
その行動はきっとはたから見ると「迷い」のようにも見えるだろうし「何してんの」って愚かな行動に見えてしまうかもしれない。
でも、本人にとっては、何か、何かはっきりとわからない原因に対して、
何か、何かアクションを起こして、何か、変わっていかないか。
そんな心と体の衝動。
迷ってるのは自分が一番わかってて。でもじっともしていられない。
だから、そんな行動をとってしまうのだ。
その行動は後から振り返った時、後悔してしまうことかもしれない。
でも「良い」とか「悪い」とかではなくて、
その時、その瞬間には、その行動が必要だったのだと思う。
人からはきっと「最悪だ」と言われるのだろう。
ここいう行動は他人に迷惑をかける。
それは本人が一番わかってる。申し訳ない。
「私は最悪な人間だ」とその都度落ち込む。
申し訳なくて、自分も情けなくて。
でも、
私はこう生きるしかないんだよな。と、開き直ってるわけではなくて
いや、開き直ってんのかもな。笑
落ち込んで、落ち込んで、開き直って、また進む。
「私は最悪」
英題: The Worst Person in the World
きっと誰しも「あー自分って最悪な人間だ!」って思うこと、必ずあると思う。今作はユリヤの、「私って最悪だ!」を見せてもらった気がする。
誰かにとっては最悪だし、でも誰かが見ると「わかるよ」と共感し癒えるものがあるのかもしれない。
ユリヤは、何かに行き詰まった時、街を歩いていた。
遠くを見つめて、太陽・朝陽を見つめて涙する。
悩んだ時は歩いて歩いて、太陽を見る頃に、何か自分の中で結論が出るような。ユリヤのそのシーンを見るたびに、ああ、こういうの、あるよなあって。自分も悩んだ時は歩いて、綺麗な朝陽を見たいなって、そう思った。
p.s.
不意打ちのOlav
自分探し
ユリアはトビッキリ強烈でした。
よく考えると普通の30過ぎ独身女性の、ありふれた日常生活ではないか?
ただユリアを演じるレナーテ・レインズヴェの大胆演技(脱ぎっぷりの良さ)
美貌と愛嬌そしてアッケラカンとした性格。
名匠ヨアキム・トリアーの脚本と人間観察の鋭さ。
親戚・家族(幼い子供たちと老親)の人間動物園。
卓越した描写に「スペシャル感がマックス」であるので錯覚するが、
ユリアは普通の30過ぎの女性のほぼ平凡な選択をするだけなのだ。
医学部に入るも、
「私は肉体より魂が好き」と気づいて、
「心理カウンセラー」を目指して心理学部に編入。
実戦より講義を聞くだけの詰め込み授業に飽き足らない。
そのうちカメラに興味を持つ。
奨学金の殆どをカメラ機材購入に充ててしまう。
そんなこんなで書店員としてアルバイトをしながら
自分探しを続行。
そしてある夜バーで風刺漫画の売れっ子アクセルと知り合い
意気投合。同棲関係になる。
しかし結婚と子供を匂わせられたことにより、気持ちが冷める。
勝手に入り込んだ結婚パーティーで、ワインを飲んでいて、
アイヴィンという体格の良い温和な男性と知り合う。
アクセルを振ってアイヴィンと同居を始める。
結婚前に2人や3人と暮らすなんてごく普通‼️
医学部→心理学部→カメラマン志望、
よくあることです。
じゃあ、どこがこんなに斬新なんでしょうね!!
主人公がトビキリ自由でカッコいいから?
男に依存しないところ?
破天荒なところ!!
カメラはユリアの日常の秘めごとを、堂々と映し出します。
アイヴァンとユリアのおしっこシーン(見せっこ・・・
・・・こんなんお医者さんごっこでも、やるんかいな?)
ユリアのオーラルセックス(日本ならパンティ履いたままだもんね)
ユリアがダンプカーの勢いで過去を振り落として行くのが、
本当に爽快‼️
あなたは最悪でも、最低でもない。
社会にも男にも屈せず、へこたれず、へつらわず、
You are Spccial end Beautiful Person
きれいな映像をバックに主人公の揺れる想いがよく映える
何となく好み系だろうと思ってチョイスし、期待違わぬ良い雰囲気にとにかく満足。
主人公の振る舞いは冷静に観るとそれってどうなの!?って感じなのだが、気が付くと性別をも越えた共感が生まれるから不思議だ。オスロの美しい街並みや主演女優の独特な魅力がそうさせるのか。なんとなく自然なカメラワークも、主人公の複雑な想いをより鮮明に浮き立たせている。
本作は一般的には地味な部類になるのだろうが、止まった世界で二人きりで楽しむデートやすれ違いの切ない心情等々、個人的にはノルウェー版「ラ・ラ・ランド」と言っても過言ではないほど高評価できる作品だ。
自分の未来を可能性のままにしておきたい
主人公ユリヤは頭が良く文才もある。何にでも、とまではいかなくとも、本人が望めば大概のものになれる。
しかしユリヤは望まない。何者かが確定してしまうことを恐れている。肩書きが確定しそうになると逃げ出すのだ。
かといって、何も目指していないわけでもない。非常に面倒な女なのだ。
彼女は30歳。しかしまだ子どもでいようとする。
自由で縛られない生き方。未来が可能性に満ちた状態。それを維持したいのだ。
大人になっていくというのは、好き勝手に振る舞えなくなっていくものだ。選べる選択肢が少なくなっていく中で、望むものを得、守ろうとしていくのが大人だ。
その大人の生き方の見本として、アクセルがいる。
彼はグラフィックノベル作家としてそれに邁進し、守ろうと戦う。さらなる幸せのために、ユリヤに求婚もする。
未来を選んで得て守ろうとしていたわけだ。
物語が進み、ある意味で、大人の一生を目の当たりにしたことで、ユリヤもやっと選択し、自分の肩書きを確定させようと成長する。
子どもはいらないと言っていた人間も子を得るように、人は変わっていくものなのだ。
国が違うので当てはまるかどうか分からないけれど、40歳オーバー世代の人は子どものときに、誰もが早く大人になりたいと願っていたように思う。無自覚であっても。
子どもの目線で大人のほうが自由だったからだ。
ピーターパン症候群なんて言葉があるよねってくらい、珍しいといえた。
ものが溢れて、子どものままで充分に楽しめる世の中になったからなのか、大人が楽しそうでなくなったからなのか、ピーターパン症候群という言葉は聞かなくなり、現代のアダルトチルドレンと意味がイコールではないとしても、その状態の人は増えたように思う。時代は変わっていくのだなと強く感じる作品であった。
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