郊外の鳥たちのレビュー・感想・評価
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失った物は二度と戻らない。
この映画から観て感じる事は、主人公の過去と現在を交差する形で、デジタル化、高速化等便利さを追求するした慣れの果てに世界中が失った生活感、本当のゆとり、豊かさ、幸せ等とは何かを考える作品です。
是非おすすめします。
変わりゆく中国で失われゆくもの
近年の中国映画においては破格の傑作と言える『象は静かに座っている』を撮ったフー・ボー監督などと共に中国第8世代の一人というチウ・ション監督の長編デビュー作。
そしてこれもまた傑作。
郊外に建ち並ぶ高層マンション群。
黙々と測量/調査を行う4人の男たち。
建物は地盤沈下により傾きゴーストタウンと化していた。
開発地区に指定された郊外に住む子供たち。
取り壊しが決まった家々。
そこには日常を謳歌する子どもたちの姿があった。
経済的な繁栄とずさんな開発、その前後の二つの時間が行き来して交錯した。
そう、観る我々はそこで失われたものを知る。
抗しがたい無常感に切なくなった。
意図不明…
地盤沈下が発生した新興団地との現在とその団地が造成される前の町という現在と過去を往き来し、時には交錯するちょっと不思議な物語。
現代パートと過去パートはどうやら相似的に描かれているようだが、微妙に違ってたりちょっと意図が分からない…
過去パートはそれなりにノスタルジックだったりする形で描かれているが、現代パートが意味不明のグダグダさでますます意味不明…
全身青色だという「郊外の鳥たち」とはどうやら子供たちことだったのか、と気付いただけでもよかった…
公式サイトで予習すべし。
公式サイトで監督のインタビューを読んでから観るべし。でないと、そのディテールの説明不足(観客に委ねられた空白)を理解しづらいかもしれない。時制の混在は、それぞれが時間対称となっていることを意識して読解せねばならないだろう。そしてクライマックスの時間軸から逸脱した輪廻の外側にある「死」にも似た静寂が、青い鳥の目線でのラストカットとして提示される。時制の混在は数か所で交差するが、一方は「見ることを暗示」させる大人から子供へ提供する双眼鏡、もう一方は「見られないように」する子供から大人への測量機への蓋が象徴的に描かれるが、これも監督のインタビューを読んで腑に落ちた。なるほど。まあ、若い才能を理解するのは、彼らの未熟?であるが故の「描く=映画的に説明」の不足を補完するために、ぜひ公式サイトに目を通してから作品に浸ってほしい。犯人がバレたりするタイプの作品ではないのでね。
個人的にビンゴ!
タルコフスキーがスタンドバイミー作ったらこんな感じかな?この監督チゥションの長編一作目だそうです。
個人的にズームの多用は少し鼻についたけど世界観は好きだ。次回作楽しみ!
地方の新興都市(監督の故郷、杭州)地盤沈下を調査する測量チームの1人が主人公で、廃校で自分と同じ名前の子の日記を見つける、、、。
以降マルチバース、並行世界的に話は進む。
子供の仲間達と測量チームもわざと被る様にキャスティングされているが、同一人物なのか、過去なのか、未来なのかもあやふやで、時々望遠鏡の向こうや、噛んだガムなんかが世界が交差する接点となるさりげないSF感。
測量される旧市街、瓦礫の山と鳥が居る森の中のコントラスト、、絵のトーンは違うけどタルコっぽいと思う。
まあ、失って行く純粋さとか郷愁って、ちゃんと自分のどっかに、または別な次元に並行してあり続けるんじゃないか?ってテーマだと私は勝手に受け取ったけど、、「一体何がいいたいんじゃ!」と怒る人も居るのはわかる。
はっきりとしたストーリーが好きな人には向かない映画です。監督も「真実は映画の外にある」って言ってるし。
中国映画若手代表のビーガンは2本とも観て新鮮だったけどちょっと自分には長過ぎたのよ。だけど楽しみな監督が1人増えて良かった。
関係無いけど20年くらい前、仕事で杭州に一週間くらい居た事がある。地方都市とはいえ結構大きい街で、空いた時間で市場を見学させてもらい地べたに並べてある動くズタ袋(中はヘビ)や、おばちゃんが店先で猫を捌いて売ってる所をさらっと観て捌き方を覚えた、、もちろん撮影禁止。
自宅に帰ってウチの猫達に「オレは君達の捌き方知ってるから言うこと聞くように」と自慢した良い思い出。
まぼろしの青い鳥たちは、どこか遠くへ飛び去っていった
中国のめざましい経済発展と、その進歩の波濤をうまく乗りこなすことのできない人々。「都市再開発」というモチーフは両者のギャップを描き出すための恰好のキャンバスだ。ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』然りロウ・イエの『シャドウプレイ』然り、中国映画の巨匠たちは煌々たるビル群と古ぼけた団地の陰陽を通じて自分たちの(あらゆる意味における)立ち位置を模索してきた。
本作もまたビル群と団地の二項対立を立ち上げはするものの、その矛先を安易に都市開発やら資本主義やらに向けるような政治性とは慎重に距離を取る。
4人の測量作業員たちを中心とした現在の物語レイヤーと日記の中の子供たちを中心とした過去の物語レイヤーは、対立的に布置されているものの、両者ともに過去を目指しているという点においてほとんど変わりがない。測量作業員たちはみなどこか生気を失っている。ロングショットで長々と続く作業シーンはひたすら退屈で緩慢な印象を我らに与えるし、4人が土手の真ん中で昼寝をする彼らの寝姿からは幼児退行じみた過去への志向が見てとれる。彼らが間接的であれ日記の中の子供たちの世界線と干渉することができたのも、彼らが過去へのノスタルジックな憧憬を内面に抱いているからであるように思う。
一方、子供たちが織り成す過去の物語も、過去とは言いつつもそこでは今まさにその過去なるものが失われつつある。彼らが暮らす街にも再開発の波が押し寄せ、旧市街の住民たちは川向こうの高層マンションへの引っ越しを余儀なくされる。それによって子供たちの人間関係にも否応なく変化が生じる。山の中の草地にみんなで寝転がり、自分の好きな人を教え合うような他愛のない日常は失われてゆく。子供たちが不登校になった太っちょの家を目指す一連のシークエンスは彼らの関係が不可逆的に失われていくさまをアレゴリカルに描き出している。出発時には7〜8人はいたはずの集団が、紆余曲折を経て最後には3人にまで減ってしまう。しかも太っちょの家には最後まで辿り着けない。
夕暮れの中、子供たちが最後に目にするのは、自動車がひっきりなしに行き交う高架だ。それを見て子供たちは泣き暮れる。彼らはもう先へ進めない。そこから先は彼らの世界ではないから。彼らの物語はそこで途絶せざるを得ない。
しかし留意すべきは、本作において憧憬される過去が必ずしも無辜無謬な美しいものではないということだ。子供たちの物語が樹上の鳥の巣を棒で突いて落とすシーンから始まるのは、彼らが根本的に残酷であることの示唆だ。他にも、いじめや仲間同士での対立など、無菌的なノスタルジーを拒むようなシークエンスがいくつも挿入される。
それではなぜ本作に登場する人々は皆一様に過去を目指しているのかといえば、そこには手触りがあるからだ。粗暴さや関係の不和に汚染されていようが、いや、むしろそれ故に、過去には温度があった。エアガンで肩を撃たれたり、不意に抱きつかれたり、友達を背負ったり背負われたり。人々はその生々しい温度を求めているのかもしれない。測量作業員たちが冒頭で互いのパートナーとの生活について談義するシーンや、彼らの一人が宿泊先のホテルで美容院経営の女と衝動的に寝るシーンからは、彼らの生活から温度が失われていることを示している。
温度という比喩をビル群と団地の二項対立に対応させてみると、そこには人間とオブジェクトという新たな対立構造が析出する。経済成長によって無機的なオブジェクトに埋め尽くされた街にはもはや温度は存在しない。もちろん経済成長は悪いことではない。都市開発による利益がその損失を上回ることは疑いようがない。チェン・カイコー『黄色い大地』やチャン・イーモウ『あの子を探して』に出てくるような辺境の貧しい原始的生活に回帰したい人間などいない。ただ、フィクションの役目はそうしたわかりきった客観的事実を羅列することにはない。
本作の眼目は、経済成長の結果としてオブジェクトに囲繞されてしまった人間たちのよるべのない不安や喪失感を描き出すところにある。しかも「人間が生きていた頃」として彼らが想起する過去にもまた随所でオブジェクトの陰が覗いている、という絶望的現況。双眼鏡を覗いた子供が「私あそこに住むの」と川向こうに立ち並ぶ高層マンションを指し示す友達に向かって「どれも同じに見える」と言うシーンはきわめてクリティカルだ。高層マンションのオブジェクト性=非人間性に疑義を呈しつつも、それを眼差す視線もまた双眼鏡というオブジェクトを媒介しているという皮肉。もはやオブジェクトなくして我々の生活は成り立たない。ノスタルジーの中にさえ完全なる逃避は実現しない。
いったい我々はどうするべきなのか?考えあぐねて睡魔に絡め取られている隙に、まぼろしの青い鳥たちは一羽、また一羽とどこかへ飛び去っていくのだろう。
都市開発は悪じゃない
地盤沈下により退去命令が出た町で、地質調査の一環として測量をする男達と、廃校になった学校に残された日記の話。
測量技師の一人「ハオ」と、同名の少年が書いた日記の内容を行ったり来たりしながら見せていくけれど、日記がどのくらい前のことなのかわからない、というかそれ程昔のことではないようで、そこから感じるものといえば、あー子供の頃ってこういうのあるよねという程度。
タイトルの部分にかかってくるものあります?
しかも遊び心なんだろうけれど、ガムの件が余計でそこに注視してしまうと話しが訳わからなくなるというね。
少年達の小さな冒険的なものを見せたかったのだろう部分も結局中途半端、開発により失ったものを見せたいのであろう部分も取って付けた感があって、特に何も刺さらなかった。
他に何かあったのを読み取れなかっただけ?
あの時のあの場所が愛おしく思う。
日本で配給される中国映画に限って今昔物語が多い気がする。もちろん作家によって表現方法は違えど、どれも魅力的に思う。中国と日本はなんだかんだで地続きな文化圏だと信じているタチで、そういう意味ではこのノスタルジックで切ない感覚は共感できるものがある。夢と被せながら、現在と過去を行き来することで境界線が曖昧になる感覚は、歳のせいかこれまた痛いほどあるある。
なんでもないことが楽しかったあの頃
不思議な物語だった。
同じ名前を持つ時代も年齢も違う二人の人物の日々を交差しながら描いた作品。
子ども時代の瑞々しい思春期の感性がとても上手に表現されていて、なんでもないことが楽しかったあの頃が思い出された。
監督と立田さんのお話では、カメラのズームアップは70年代のビジュアルスタイルを意識していているとのこと。とても気になった部分だったけど、ちゃんと意味があったんだなあ。
海辺のカフカに影響を受けた話では、同じ名前の違う人物である子どもと大人の話を交錯して作り上げた理由を、子ども時代と大人時代は地続きではないからという話に、なんか妙に納得してしまった。
分かりにくい
2023年2月26日
映画 #郊外の鳥たち (2018年)鑑賞
郊外を調査で訪れた測量師が廃校で自分と同じ名の少年の日記を見つけるところからいつの間にかラビリンスへ
ゴーストタウンとか地盤沈下とか急激な成長に伴う中国の恥部も描いているところに注目
@FansVoiceJP さん試写会ありがとうございました
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