カウラは忘れないのレビュー・感想・評価
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この話は知っていたが
あまり知られてなく事件の特集は少なかったと でもやはりミニ系でひっそりやってる作品 一部の特定の人物のみ焦点を当てたインタビューがメインでNHKのこの手の特集に比べてもっと広くその時の背景や当時の映像等も詳しく入れて欲しかったと!
カウラ事件、知りませんでした。
皆死んでしまった、生かすことは出来なかったなかと罪悪感を持つではなく、何故自分も死ななかったのかと生きてることに罪悪感。
捕虜になって極楽な生活にあっても長々と抜けない戦時訓、自殺のための脱走。多くは流された感もあるが、この様な場所にあっても流れに逆らってまで生きようと思わないのね。
カウラを忘れまい。そして、私の体は私のもの。
三食付いて労働なし。軍隊の上下関係も解消された平等なコミュニティ。各自が特技を生かして花札やグラブまで工夫して手作りしてしまう、潤沢なレクリエーションの機会。
そんな恵まれた捕虜たちがある朝突然決行された大脱走。それは脱走ではなく集団自決の変形版であると、オーストラリア当局が理解するのにどれくらい時間がかかったことだろう。 戦後の価値観の人間には、頭ではその思考回路を理解しようとすればできなくもないけれど、誰もが納得できない愚行だ。じゃあ、あなたがその場にいたら反対して「私の体は私のもの!」と叫べたか?、、、歴史にたらればはないと考え直すとして、未来においては絶対にそう言いたい。
当時、らい病のため一人だけ隔離されていたため距離を置いて事態を見守り生き延びた立花誠一郎さんの冷静さが印象的だった。強いは弱い、弱いは強い。
戦争の被害者としての歴史だけでなく加害者としての歴史を、のみならず、このような狂わされてしまった集団意識の歴史もしっかり刻んでいくべきだ。この映画のベースになったワークをした高校生に施された教育こそ「高等教育」だなあと思った。瀬戸内海放送さん、良いお仕事でした。
日本人は再び戦争を止めることができないだろう
本作品のテーマは日本人の恥の感覚と、東条英機の「戦陣訓」である。日本人は何を以て恥とするのか。戦陣訓はどれだけ陸軍兵士の精神を縛ったのか。
ツイッターだったか、今般のコロナ禍に際して、ワクチン接種を推奨するための各国の違いが風刺されていた。アメリカ人には「ワクチンを打ったら英雄になれますよ」と言い、日本人には「みんな打ってますよ」と言えばいいのだそうである。
たしかに日本人には人と異なることを嫌う性質があると思う。日本人だけかどうかは別にして、みんながやっているのにやらないと、責められる雰囲気はある。マスク警察や自粛警察など「お上」の言うことに従わない人を市井の人が罰することさえある。それは公権力の要請を笠に来て弱い者いじめをしたいだけなのだが、この戦時中のような精神性が未だに蔓延していることが恐ろしい。それは戦争を肯定する精神性に等しいからである。
恥の感覚は何故か大人よりも子供に際立つ。いじめられていることを親にも教師にも言えない子供がいる。恥の感覚があるからである。自分が弱い立場になってしまったことが恥ずかしいのだ。弱い=悪および否定に対して、強い=善および肯定という感覚。いじめられる子供だけではなく、レイプされた女性もそのことを言えない場合がある。
それに恐怖だ。いじめを告発するとさらにエスカレートするのではないかという恐怖。親も教師も何もできないのではないかという絶望感。レイプを告発しても合意だと言い張られてしまう恐怖。警官が男ばかりだと、結局は男の都合で判断されてしまうのではないかという絶望感。
コロナ禍の状況を強行して開催した東京五輪。これを大運動会だと表現した途端に「アスリートに対するリスペクトがない」等々と批判される。このオリンピックで増えた借金は都民ひとりあたり10万円超、国民一人当たり1万円超だそうだ。全費用を日本人が獲得したメダルの個数で割ると、1個あたり690億円にもなる。参加したアスリートの皆さんにこの数字を伝えたい。
なぜ五輪の話題かと言うと、コロナ禍で医療体制が崩壊して国民がたくさん死んでいるのに五輪を強行して感染を増やすのはおかしいだろうという正論が、カス総理が繰り返す「安全、安心の」という具体策を伴わない主張に負けてしまったことで、同じことが将来の開戦時にも繰り返されかねないと解ったからだ。五輪さえ止められないのに戦争を止められるはずがないという訳である。同じ主張をネットでも散見する。
ドキュメンタリー映画「東京裁判」を観ると、東条英機が如何に頭の悪い男だったかが解る。そんな男が書いた愚かな文書が戦陣訓だ。一顧だにする価値もないはずだが、陸軍兵士もそれほど頭がよくないのか、戦陣訓に縛られていたフシがある。故郷の家族の恥とならぬように、捕虜にはなるな、捕虜になったら汚名を残すことになると書かれている部分が本作品で扱われている訳だが、敵との戦闘力の差が大きすぎたら捕虜になるしかない。捕虜になることがどうしていけないのか、論理的な説明はなにもない。具体性もない。要するに戦陣訓は机上の空論に過ぎない。しかし日本人の恥の感覚に融合したために、陸軍兵士はこれを聖典のように崇めてしまったのである。
本作品はカウラという捕虜収容所の件を扱っているが、その奥にある恥の感覚と、弱いことが悪で強いことが善だという思想が、日本人の精神を深く蝕んでいることを示唆している。収容所の待遇がよかったにもかかわらず、殺されるために脱走を図った精神は、五輪に反対できない精神、戦争を止められない精神である。
家という価値観を捨て、国家という価値観を捨て、恥の感覚を捨て、弱い自分を肯定し、孤立することを恐れない勇気を獲得しない限り、日本人は再び戦争を止めることができないだろう。
偽名の墓
「カウラ事件」は、自分は全然知らなかった。
しかし、帰宅後、ネットを見るとWIkipediaだけでなく、書籍もテレビドラマ化もあり、皇室の訪問さえあったらしい。
Googleで地図で見ると、町の北北東に「POW (prisoner of war) キャンプサイト跡」を見つけることができる。さらにもう少し北には、「ジャパニーズ・ウォー墓地」がある。
この映画ではなぜか全く触れられないが、捕虜キャンプは4ブロックに分かれ、「A」と「C」にイタリア人、「D」に日本人将校など、そして「B」に日本人下士官や兵卒が収容され、この「B」コンパウンドが本作の脱走事件の舞台だったようだ。
96分の作品だが、前半を「歴史編」、後半を「現代編」と分けることができるかもしれない。
前半の「歴史編」では、4人の生存者の証言を中心にして、経緯や内部事情が明かされる。
本作のテーマは、「生きて虜囚の辱を受けず」という「戦陣訓」に基づく、捕虜たちの“自殺的脱走”だ。
「捕虜になったことが内地で分かったら、家族が村八分になる」とか、「どうせ生きて帰れない」という絶望感があったようだ。
それゆえ、収容所では“偽名”で通した人も多かったらしく、日本人墓地には“偽名の墓”が並んでいる。
後半の「現代編」は、歴史ドキュメンタリーの観点からは、冗長な印象を受ける。
カウラでのオーストラリア人の行事、若い日本人学生の訪問、脱走をテーマにした演劇などが映される。現地オーストラリア人の関心の高さが印象的だ。
証言者の一人は、他の証言者3人と大きく違った経験をしたハンセン病患者の立花さんであるが、後半は尺を割きすぎだと思う。映像にしたところで、兵士たちの深い思いが伝えられるわけではあるまい。
“脱走”兵士の思いは観客も想像できるし、学生の感想が観客を代弁しているとは限らないし、演劇が実際の状況を語るわけではない。
歴史事実を語り、あとは観る者に委ねることも必要ではないだろうか?
しかも、終映後の山田真美さんのトークによれば、実情はもっと複雑のようである。
事件の“公的”原因は、事件直後の調査証言に基づくものにすぎないらしい。
4人の証言者は、比較的収容年月が浅い、後方部隊の元兵士である。
“突撃ラッパ”を吹いた偽名「ミナミ」(本名:豊島一)のことだけは触れられるが、事件を主導した他の首謀者や、「D」コンパウンドにいた将校たちのことは語られない。
そもそも、証言などせずに、人に言えないことを墓場まで持っていく兵隊の方が多数なのである。
いずれにしても、本作品は、自分のような何も知らない人間に対する“人門編”だ。
後半は冗長で、正直なところ、前半で語られた悲劇の歴史への感情が、むしろ冷まされてしまった気がする。
96分の上映時間なら、より多角的にアプローチして欲しかったというのが、率直な印象である。
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