「加害への責任を約束する」プロミシング・ヤング・ウーマン abokado0329さんの映画レビュー(感想・評価)
加害への責任を約束する
第93回アカデミー賞の脚本賞を受賞した本作品。
実はそれを知ったのは鑑賞後で、何となくみた作品。
けれど、おもしろかった。とりわけ男性の性加害への責任の問題を適切に明るみに出しているようだった。
主人公は、医大に進学しプロミシング・ヤング・ウーマン(前途有望な若い女性)であったキャシー。キャシーには、幼いころから仲良かった親友のニーナがいた。しかしニーナはある日のパーティーで泥酔させられ、同級生のアルにレイプされる。その事件がきっかけで、ニーナは自死し、キャシーは退学をする。精神的に不安定になるキャシー。彼女は、どこにでもあるカフェで何となく働き、30歳になっても親と一緒に住んでいる。そんな彼女は、夜な夜なクラブへ行く。そこで泥酔しているふりをして、男性にお持ち帰りをさせ、男性に鉄槌を下すのであった。
そんなことを繰り返していたある日、かつての同級生であったライアンと再会する。彼と親しくなり、心の傷は癒されるが、ニーナのレイプに加担した同級生の話も聞くことになる。そしてキャシーは、同級生らに復讐をしていくのであった…。
同級生がニーナのレイプに加担したことに対する言い訳が、テンプレート過ぎた。しかしそれが現実世界における性加害への正当化の常套手段でもある。
言い訳で使われるのが、「若かったから」「彼女も合意してたから」である。「若いから性加害をしてよい」はなんの合理性もないし、アルコールが入ってて合意がされることは客観的にいって無理がある。けれど、現在、医者として社会的に地位がある者が、過去の罪を償う時のありふれた言い訳なのである。この言い訳で正当化する男たちにキャシーは不正を感じ、鉄槌を下すのであるから痛快である。
しかも鉄槌は、女性であるかつての学長や同級生にも向けられる。女性であっても社会的に地位が高い者が性加害に見て見ぬふりをすること、傍観者であること、そして上述の言い訳を行使するのであれば鉄槌の対象なのである。
ライアンにも鉄槌が下ることも痛快。中盤、幸せな同棲生活のシーンがあり、ここで終わるのかと思った。しかしニーナのビデオが発見され、そこでライアンも傍観者として加担していることが発覚する。精微な脚本だと思った。
もう一つ印象的なのは、ニーナが一度も登場せず不在であること。
キャシーが所持している写真から外見は確認できるが、動く彼女は最後まで登場しない。キャシーの語りやニーナの母を登場させることで、ニーナを浮かび上がらせる手法もさすがだと思った。安易な過去のシーンを挿入していないのもいい。
ただ最後の結末はあれでよかったのかなとは思う。キャシーは死ぬことで、最後の復讐が果たされる。しかしプロミシング・ヤング・ウーマンは、この世からさり、男性たちは生き延びる。例え罪が適切に与えられたとしても、死の方が重い。未来がないからである。あまりにもキャシーに救いがないような気がする。
以上のように述べた私自身も、本作を透明な主体として高みからレビューできる地位には属せないし、属してはいけない。過去に、いや現在においても罪として断罪されない無数の加害をしてしまっていると思うからである。
本作で不在な主体に加害を引き受ける主体がある。弁護士はかろうじて過去の罪を背負い続けている。そのためキャシーに赦されるが、社会正義へは向かない。私は、加害への責任を引き受け、社会正義の実現を目指していきたい。ここでこのように述べることもなんだかエゴイスティックな気がするが、それでも言わなければいけない気がする。