AGANAI 地下鉄サリン事件と私のレビュー・感想・評価
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水切りのシーンがすごすぎる
これはすごい作品だ。地下鉄サリン事件被害者である監督が、アレフの広報、荒木氏と自分たちのルーツである故郷に向けて2人旅をするのだが、そこには加害者と被害者の対立軸を置いては語り得ない関係性が生まれている。
さかはら監督は、まるで友人のようにフランクに荒木氏に接する。荒木氏の方は距離感を測りかねているように見える。しかし、監督は時折鋭く事件とその清算について言及する。荒木氏の心はいまだなにかに捕われているように見える。彼の心を閉じ込めている何かを監督は開けようと試みる。
川で石を投げて水切りで遊ぶシーンは名シーンだ。大人が2人、水切りで喜んでいる。あのシーンでは確かに2人は友人に見える。このシーンの荒木氏はとても無邪気な笑顔を見せている。ずっとガードの硬そうな申告な顔をしている彼も、この時だけは無防備に見える。あの一瞬をカメラに収めたことが本作を傑作にしていると思う。
【加害者側の”迷える子羊”を、真っ当な道に導こうとする被害者とのロードムービードキュメント。加害者組織の中にも被害者は居る。事件の悲惨さを知らない若者達が入信している事実にも暗澹たる気持ちになる。】
ー 当たり前であるが、テロ集団だったオウム真理教を擁護する気は微塵もない。麻原を始め、テロの関わった多くの者が極刑、もしくは無期懲役に処された事は、当たり前だと思っている。
だが、この作品を観て、再確認したのは、麻原の呪縛にかかり、人生を棒に振ろうとしている人間がまだまだ居るという事である。ー
◆感想
・地下鉄サリン事件に巻き込まれたさかはら監督が、Alepfの広報部長に連絡を取り、今作で描かれているように、交流を深めて行く姿。
本来であれば、自分の人生を狂わせた教団と同じ教えを、事件後20年経っても説いている教団の広報部長荒木に対して、罵声を浴びせてもおかしくないのに・・。
ー さかはら監督と荒木の関係性は、友人の様にも見える。ー
・荒木の人間性の描き方の見事さ。
彼は、さかはら監督に対して、丁寧語を使いながら、一緒に河原で石切をして子供の様に遊ぶ姿。そして、自分を可愛がってくれた祖母が住んでいた小さな町の駅に停車した列車の中から、涙を流しながら祖母が住んでいた方向を見る姿。
更に彼は、さかはら監督の”お願い”に驚くほど、容易に従う。
京都大学で学んでいた彼が、麻原と出会い、影響を受けた事を話す姿。
さかはら監督の”明日、ご両親に会って下さい”と言うお願いにも、逡巡しつつ従う。
そして、さかはら監督の年老いた両親を紹介され、喫茶店で二人に”大変申し訳ありません・・”と頭を下げる姿。
ー 荒木は、非常に真面目な人間である事が、序盤からすぐに分かる。そして、人から影響を受けやすい性質の危うさもキチンと描かれている。ー
・ラスト、荒木はさかはら監督に付き添われ地下鉄サリン事件で犠牲になった方々に、霞が関駅に設けられた祭壇に花を添え、祈る。
だが、追いかける報道陣が出すマイクに、荒木は謝罪の言葉を述べない・・。彼が、さかはら監督の年老いた両親に詫びたのは、さかはら監督との繋がりがあったからだと言う事が分かる。
<オウム真理教のテロにより、亡くなった無辜の方々、今でも後遺症に苦しむ方々は多数いる。だが、この作品ではオウム真理教の信者の中にも犠牲者は多数いるという事を雄弁に語っている。
最も、恐ろしいのは、事件から20数年が経ち、麻原達が起こした事件が風化し、冒頭描かれているように、若き子羊たちが毎月10-20名、入信しているという事実である。
あのような、事件は二度と起こしてはならない・・。>
<2021年8月9日 刈谷日劇にて鑑賞>
ある立場に立ちつつ
反対の側にいる人間と対峙する。
ある立場は被害者、反対の側は加害者という。
ドキュメンタリーとしては危ない橋を渡る。
監督としては、練った企画で、互いの故郷、大学を巡る旅、ロードムービーだ。
ここに出ている荒木さんは、サリン事件の直前に出家している。サリン事件に関わったわけではない。しかし、彼の教祖が何も語っていないからサリン事件に向き合えない。
最後の方に彼が被害者と会ったことが今までなかったと言っていた。
昭和天皇が戦争責任を語らない、取らない、から、自分の責任にも向き合えない帝国軍人?みたいだ。
藁にもすがる思いで、信仰にすがる荒木さん。
いつか、固く握った何かをlet it go できるように。
映画を観ながら、亡くなった人、傷ついた人、すがっている人を思い、祈りたくなった。
揺れ動く表情に行き着くまで
関係性がわからない2人の間に交わされる会話やりとりには、なんの隔たりも感じない。
退屈な程の雑談は目的地に近づくにつれて、被害者であり監督のさかはら氏の言葉によって、ゆっくりと鋭く心の深いところまで開かれて行く様に見えた。
それでもなお揺れ動く表情を浮かべる荒木氏、このシーンに行き着くまでの2人の背景を想像すると途方にくれてしまった。
信仰もしくは洗脳と言うべきかわからないが、まだまだ終わってないんだなと思わせるラスト。
さて監督はこれからどう挑むのか?
事件を風化させない為には貴重な映画だとは思うが・・・
えもいわれぬもやもや感が残った。終始、荒木氏は質問に対して無言、もしくは小声で決して的を射た返答をしているとは到底見えなかった。
オウムとはなんぞや?
この疑問は私の中で解けぬまま観終えた。
ただ、荒木氏の無言のシーンには観客一人一人が台詞を入れて想像する楽しさはこの作品にあるかもしれません。
逆に反社会勢力の存在理由が理解できてしまう映画
地下鉄サリン事件の被害者でもある坂原監督とオウムの荒木さんのドキュメンタリー。
荒木さんへの集団リンチにより、逆にオウムへの引きこもりを促進させる映画のように見えて少し後味が悪かった。
*
「贖い」、「謝罪」を求められる辛い撮影になるのを分かっていながら撮影を受けた荒木さんの無邪気さ、真面目さ。
一方で、監督の「贖い」要求ありきの姿勢、( 特に京大周辺エピソードでの)彼の信仰をバカにする発言の連発…真摯に向かい合っていないと感じてしまった。
監督は家族に関する発言を執拗にしており、監督と荒木さんの親に会えばきっと「こっちの世界」に戻ると信じていたのだろうと思う。
けれどもそれは不発だった。
監督は口を割らぬ犯罪者に警察がするように、時にやさしく、時に厳しく接するが、オウムを否定させることも明確な謝罪をさせることも結局はできなかった。
どうしてなのか…それをもっと深く追求してほしかったと感じた。
監督はその理由に「マインド・コントロール」以外の答えにたどり着けなかったのではないか。
監督が空海の話を出して「オウムを相対化できていないだろ」みたいなことを荒木さんに問い詰めるシーンがあったけれども、監督自身が通常世界を相対化できていないからオウムを馬鹿にした発言を荒木さんの前で繰り返せたのだろうと思う。
本当は、「5時間あれば説明できる」みたいな荒木さんの弱い抵抗を拾い上げて、5時間傾聴するようなことが必要だったのではないか。
(オウムは若き荒木の悩みととことん向き合っただろう)
*
どうして、荒木さんがこんなに世間から叩かれているオウムを去れないのか?
この映画から見えるところで考えてみた。
荒木さんがオウムに行ったトリガーは
・ 兄の病から学ぶ諸行無常さを普通の人の感覚で受け入れられない
・ 子供の物欲消滅体験
・ 麻原彰晃と対峙して食や性といった欲求が消えた非日常体験
あたりか。
要は、普通の人が大切にしているものを同じように感じられない、価値観が違う。
価値観の違いすぎる人と一緒に生きるのは苦痛である。
(我々は「オウムがどこかで活動している」という事実だけで苦痛なように)
それで、荒木さんは出家したのだと思う。
だから、オウムをやめさせたかったら、彼が苦痛でないと感じる、彼を受け入れる別の場所が必要なのだ。
だが、この映画を通して監督やマスコミが荒木さんに教えたのは、「やはり、通常の世界では自分を受け入れない」だった。
30年間信じてきたものや付き合ってきた人たちを否定するというのは本当に難しいことだ。
それができるとしたら、捨てたものを満たす何かが必要だろう。
しかし、この映画では、あの手この手で彼に Noを突き付けるが、その代替は与えない(あえて言えば両親からの承認?)。
それでは変わらなくて当然だろうと思った。
*
元反社会グループの一員だったら、雑な扱いをしてもよい。
もしそれを当然と感じてしまう人が多いのだとしたら、それがオウムのような逃げ場所の価値を作ってしまう力になる。
そのことに監督も観ている我々も気付かなければならないと思った。
*
と言いつつ、もし自分や大切にしている人が事件の被害者だったと想像したら、「お前ら被害者の顔が見えていないから冷静でいられるんだろ!ほら、向き合えよ!」となってしまう気持ちは分かる…。
二人の思い、そして観る者の思いが交錯する
オウム真理教による一連の事件については色々思うところがある。この映画は見なければならない、と心に決めていた。時間がが合わずその思いがなかなか果たせなかったが、ようやく機会を得た。
映画はさかはら監督とオウム真理教(現アレフ)の荒木広報部長の、二人で旅をしながらの対話でほぼ全編が構成されている。
監督は地下鉄サリン事件の被害者であり、荒木広報部長は直接手を下したわけではないにせよ加害者側の立場の人間だ。しかしいかなる過程を経てかは分からないものの、映画の冒頭では既に二人の間に何らかの信頼関係が築かれているのが見て取れる。いっそ友達同士と言っていいような気さくなやり取り。生い立ちからオウムに入信、出家するまでの半生を浮き彫りにしつつ、時に監督は荒木氏の思いに深く切り込んでいく。そうして、荒木氏の中に今だ麻原に対する信頼が揺るぎなく存在していること、一方で過去の事件に対する複雑な心境を抱いていることなどを抉り出す。
偏見混じりを承知で言うが、荒木氏はあの教団の要職についていながら、実に内省的で誠実な人物に見える。それに対して阪原監督は、被害者の立場をもってイニシアチブを取りながら言葉を突きつけていく。監督は恨みをぶつける相手を探しているが、荒木氏にとってもそれが誰であるか明確ではない。勢い、どちらにも答えは見えず、ともすれば虚しいだけのやり取りが続く。
これは同時代を生き、被害者か加害者かにかかわらず何らかの形で事件に巻き込まれていたかもしれない私達にとっても知りたい答えでもある。もちろん全てを麻原や一部の教団幹部のせいにしてしまうのが一番簡単だし、現実的にもそれでほぼ間違いはないはずだ。そして監督は、荒木氏にもそれを認めさせ、教団に対する味方を改めさせたいようにも見える。実際そういった言葉を投げつけてもいる。
映画は事件から20年後の日、荒木氏が被害者に献花をし、監督に伴われ会見を行ったあと、その場を去るタクシーの車内での二人の会話で唐突に終わる。その3年後、麻原をはじめ教団幹部の死刑が執行された旨のテロップが流れる。麻原は結局事件にき何ら決定的なことを告げぬまま死んだ。被害者はもちろん、荒木氏ほか教団に残された人たちの思いは踏み躙られたままだ。
痩せよう、と思ったり…
※星取りは苦手。何か書きたいと思わせた時点で★5つ!
「だから、やったの俺じゃないし!」
なんだよね…
それは覆らない。
それをわかってる阪原氏。
一体どうしたいのか…モヤモヤした。
サリン被害者である
阪原監督の苦しみを共有する時間。
荒木氏と水切りで遊んだり、
缶ペンケースのエピソードの後に、
ユニクロへ繋いだり…
なごむ時間と、荒木氏をぎゅーっと締め上げる時間のテレコ。つら…
95年は、1月に阪神大震災が起き、
3月にサリン事件があり、
わたしは就職で京都へ行った
そして、映画内の二人はほぼ同い年
その頃の自分を思い返した
何もない自分だった…
四条の辺で何度かオウムの人たちが
白い装束で踊っているのを見かけたことがある
私もあちら側に行くことはあったのだろうか…?
全くそうは思えない。
人間って不思議、とかまとめちゃいけないけど、率直な気持ち。
日に一度のシンプルなオウム食。
シュッとした荒木氏と、
よう肥えた監督の顎あたりを見て、
ひとまず食べすぎには注意しよう、と思った。
心の不思議
人間の心って怖いなと思うことが折に触れあるけれど、
オウム事件はそのことを思い知らされた代表的な出来事だったと思う。
最後のシーンで、監督は荒木さんに、
なぜ謝らないと迫るが、荒木さんは謝ることができない。
実際、彼は事件そのものには関わっていないので、
内心、なんで謝らなくちゃなんないのと思うのか。
それとも、謝ることでオウムの非を認めることになるので出来ないのか。
荒木さんは、充分に誠実な人のように見えるので、
とっととオウムを辞めればいいのにと思うが、
そうはいかない心の呪縛。
彼の心の中では何が起きているのか?
私には、引きこもりの人のように見えた。
心の中ではこのままじゃダメだと分かっている。
でも今さら怖くて辞められない。
もう社会に出て行くことができない。
自分の心の中に潜って、外の世界を遮断することしか、
やり方が思いつかない。
でも彼は家に引きこもるのではなくて、
宗教に引きこもる。
家にも居場所がなかったのか?
優秀な息子は家族に甘えられなかったのか?
いつか荒木さんの心の呪縛が解けて、
自分の足で社会に出てきてくれることを、
願っています。
唯一無二のドキュメンタリー
被害者と加害者(グループに属する人)が2人で旅をする中で語り合うという、ロードムービー的なドキュメンタリー。こんな映画観たことがない。当然他の誰にも撮れない。
2人の対話は真摯に向き合ってのものであるけれど、決して引き出せない言葉や大きな断絶がある。答えに窮した場面でものを言うのが表情で、人間の顔というのはこんなにも雄弁なのか!と思いながら鑑賞しました。
無力な現実を描いたロードムービー
ノンフィクションだが、“ロードムービー”である。
東京のアレフ道場、監督と荒木氏の故郷、京都大学、そして霞ヶ関駅。
いろいろな土地を巡って、その地でしか語ることのできないテーマが、監督の投げかけに対する荒木氏の回答の形式で話されていく。
荒木氏の過去の人生、出家とは何か、そして思想談義までいろいろ出てくるが、特に興味を惹いたのは、荒木氏の“入信”の下りである。
予想通りというか、そこにあるのは理性的・第三者的判断ではなく、荒木氏本人だけが持ちうるある種の合理性である。「これしかない」、「これでうまくいく」ということ。
荒木氏も、サリン事件の後であれば「たぶん入信していない」と言うし、もし麻原彰晃自身が一度でも殺害指示を裁判で証言していたなら、アレフ信者を止めたのかもしれない。
そこに深い“闇”がある。
“被害者”である監督は、「自分は関係ない。これが自分の人生だ」という荒木氏の“本音”を許さない。
しかし、アレフの教義に殺人が書かれているならともかく、監督に荒木氏の信心を責める権利はない。
荒木氏の“複合的視点”の欠如や、病気の時に家族を頼った“出家”の不徹底を批判する資格もない。
本作品が優れているのは、それらの点もすべて織り込み済みで描いているところである。
荒木氏を責めることだけが目的なのではなく、被害者ですら荒木氏のような存在には無力であるという現実を描く。
被害者として直接映像に参画するだけでなく、被害者という立場を離れて俯瞰的に捉えており、複合的な視点から作られている。
傑作ドキュメンタリーである。
北風と太陽
この映画を観た後に第一印象で思い浮かんだ言葉。
アレフ(オウム)という絶対悪の組織の広報である公の荒木氏に対して責める監督の冷たい風の様な問いかけと
マインドコントロールにかけられた被害者としての私の荒木氏に対する太陽のような温かい問いかけ。
アレフを無くすこと(旅人の服を脱がす)この目的のために手段を変えて追及する監督の闘い。まだまだ闘いは続く。
荒木さんによるプロパガンダ?
当方は無宗教である。神は信じる人の心の中には存在するのかもしれないが、当方の心のなかに神は存在しない。だからといって宗教を否定することもないし、信者を侮ることもない。憲法にある通り、信教の自由は守られなければならない。オウム真理教や創価学会といったカルト宗教も例外ではない。
しかしと、さかはら監督は言う。地下鉄サリン事件を起こしてもなお、オウム真理教と麻原彰晃を信じるのかと、現役の信者でありオウム真理教の広報部長であった荒木浩さんに迫る。痩せて弱々しい荒木さんは、見かけとは裏腹の芯の強さを見せて、それでも信じると断固として信仰を曲げない。
さかはら監督は、なんとしても荒木さんに謝らせたいようで、何かにつけて謝罪しろと言う。荒木さんは不本意であることをあからさまに示しつつも、何度かに一度は謝罪する。太って強気なさかはら監督が痩躯の荒木さんに謝罪しろと迫るのは、クレーマーが謝罪に来た企業の人に土下座しろと迫るのに似ている。
荒木さんには山ほどの反論がある筈だ。当方が先ず浮かんだのは、十字軍である。キリスト教の聖地奪回の大義名分の基に略奪と破壊と虐殺を繰り返した。それでなくてもキリスト教は宗派の違いによる戦争でたくさんの犠牲者を出している。それらの犠牲者に対してさかはら監督は、現在のキリスト教徒に謝罪しろというのだろうか。バチカンに行ってローマ法王に謝罪を求めるのか。
次に浮かんだのは日中戦争である。関東軍は南京大虐殺をはじめ、多くの無辜の中国人を虐殺し物資を奪い女子供を強カンし家に火を放った。当時の日本人はマスコミの大本営発表にも踊らされ戦争に熱狂していた。頑張れニッポンだったのである。結果として中国から東南アジアの広い地域に数多の犠牲者を出した。それらの犠牲者に対して、当時の日本人全員に謝罪させるのか。
原子爆弾の被害者は広島、長崎の被爆者とビキニ環礁での被曝者である。何十万人も死んだ。加害者は米軍だ。米軍の誰に謝らせるのか。または当時のアメリカ国民全員に謝罪させるのか。広島、長崎は戦争の当事国だったからまだしも、ビキニ環礁の水爆実験の被害者はまったく無辜の人々である。誰が誰に謝罪して、誰が誰に責任を取るのか。
アメリカの同時多発テロ事件を起こしたアルカイダはイスラム原理主義者である。さかはら監督はイスラム教徒に対して、テロ事件の犠牲者に謝罪しろというのだろうか。ジョージ・ブッシュは人気取りのためにテロとの戦いを標榜し、軍需産業の後押しもあって、ありもしない大量破壊兵器を隠し持っているとしてイラク戦争を始めた。小泉純一郎は「ブッシュ大統領があると言ったらあるんだ」と根拠のない主張でアメリカを支持し、イギリスのブレアは自国の軍隊を参加させた。イラク戦争の犠牲者は数十万人と言われ、民間人も多く含まれている。ブッシュも小泉もブレアも人殺しである。さかはら監督は小泉をイラクに連れて行って謝罪させればいい。
しかし荒木さんはさかはら監督にひと言の反論もしない。出てくる言葉は非常に内省的で、自分がどのようにして麻原彰晃を信じ、オウム真理教に救いを求めるようになったかを切々と語る。京都大学で直接麻原彰晃と対峙した後で食欲と性欲を感じなくなってしまった話や弟の病気の話をする。特に弟の病気については、自分の精神性について家族と決定的な隔たりを覚える。それは存在と関係性についての認識そのものの危機であったが、さかはら監督には通じない。家族を大事にしろと説教し、両親に会いに行けと強要する。この人は荒木さんの話を聞いていなかったか、理解しようとしなかったか、あるいは理解できなかったのだ。さかはら監督の言葉に「京都大学まで出て」という意味の言葉があった。権威主義の現れである。
ここで改めて申し上げるが、当方は無宗教である。オウム真理教も荒木さんたちの会も支持することはない。しかしさかはら監督の態度には違和感を覚えざるを得ない。
非常に考えにくいことだが、本作品は荒木さんによるプロパガンダかもしれない。映画を観れば分かる通り、荒木さんとさかはら監督の関係性は被害者代表と加害者代表のようでありながら、部下と上司のようでもある。荒木さんが部下でさかはら監督が上司だ。部下は上司に逆らえないし、反論も出来ない。さかはら監督が悪役で荒木さんが脅されているみたいに見えるのだ。あるいは権威主義で家族第一主義の単細胞の政治家と思慮深い沈思黙考型の官僚のようにも見える。
取材の申込みから撮影に至るまで1年間かかったとのことだから、荒木さんの準備は相当なものであったのではないか。さかはら監督は知ってか知らずか、怒りの感情にまかせて謝罪しろと迫り、期せずして悪役を演じてしまった。単純に謝罪を要求するさかはら監督に対して、エピソードトークから信仰の本質に迫る話をする荒木さんの立ち位置は、一連のオウム事件とは無関係の、信心深いひとりの信者といったところだ。それを見事に演じきってみせたように感じた。しかし本当のところは定かではない。多分永遠に分からないだろう。
危険な映画
荒木さんの静かな、ゆっくり言葉を選んで話す態度。監督の、被害者なので仕方ないかも知れない、ときに鋭くなりすぎるトーンと言葉。荒木さんを撮ろうと他者を押しのける報道陣。これだけを単純な視点に映すと、荒木さんは善、監督と報道陣は悪、になりかねない。しかもサリン事件から20年以上経って、当時の衝撃を肌で知らない人たちも大人になっていて、その大人がこの単純な視点で見たら?と、心配になってしまった。
当時も大人だった、あの衝撃を肌で感じた私にはおもしろすぎる映画だったが、映画の中でアレフの信者も増えてると言ってたし...
「A」その後
被害者である監督自身がアレフの広報である荒木氏にインタヴューをしながら、彼の人生を育んだ土地を訪れて、一人の人間に肉薄しつつも、オウムというカルト教団の存在を再確認するドキュメンタリー映画。監督の質問は柔らかな導入部から次第に先鋭になり、最後には急所を突いて、相手の矛盾を露にしてしまう。素晴らしいインタヴュアーであり、映像作家でもある。広く世間に見てもらって、絶対に風化させてはいけないテロリズムである。そして、まだそのカルトな萌芽は消えていないどころか、少しずつ信者が増えている現実も捉えてもらいたい。一度洗脳されたら、死ぬまでその呪縛から逃れられないのか?この作品はそれを真っ向から私たちに突き付ける。
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