AGANAI 地下鉄サリン事件と私
劇場公開日:2021年3月20日
解説
地下鉄サリン事件の被害者である映画監督さかはらあつしが、宗教団体Aleph(アレフ)として今なお活動を続けるオウム真理教の広報部長に迫ったドキュメンタリー。1995年3月20日、オウム真理教の幹部たちが東京都心を走る地下鉄3路線の5車両に猛毒のサリンを一斉散布した地下鉄サリン事件。当時通勤途中で被害にあい、PTSDと神経への後遺症を抱えるさかはら監督は考え抜いた末、事件やオウム真理教と向き合うことを決意。事件から約20年の時を経て、オウム真理教の後続団体であるAlephの広報部長・荒木浩と対峙する。所縁の地を訪ねる旅の中で、さかはら監督は荒木と対話を繰り返し、友人を諭すように接しながら彼の心の内に迫ろうとする。
2020年製作/114分/G/日本
配給:Good People
スタッフ・キャスト
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これはすごい作品だ。地下鉄サリン事件被害者である監督が、アレフの広報、荒木氏と自分たちのルーツである故郷に向けて2人旅をするのだが、そこには加害者と被害者の対立軸を置いては語り得ない関係性が生まれている。
さかはら監督は、まるで友人のようにフランクに荒木氏に接する。荒木氏の方は距離感を測りかねているように見える。しかし、監督は時折鋭く事件とその清算について言及する。荒木氏の心はいまだなにかに捕われているように見える。彼の心を閉じ込めている何かを監督は開けようと試みる。
川で石を投げて水切りで遊ぶシーンは名シーンだ。大人が2人、水切りで喜んでいる。あのシーンでは確かに2人は友人に見える。このシーンの荒木氏はとても無邪気な笑顔を見せている。ずっとガードの硬そうな申告な顔をしている彼も、この時だけは無防備に見える。あの一瞬をカメラに収めたことが本作を傑作にしていると思う。
2021年8月9日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
ー 当たり前であるが、テロ集団だったオウム真理教を擁護する気は微塵もない。麻原を始め、テロの関わった多くの者が極刑、もしくは無期懲役に処された事は、当たり前だと思っている。
だが、この作品を観て、再確認したのは、麻原の呪縛にかかり、人生を棒に振ろうとしている人間がまだまだ居るという事である。ー
◆感想
・地下鉄サリン事件に巻き込まれたさかはら監督が、Alepfの広報部長に連絡を取り、今作で描かれているように、交流を深めて行く姿。
本来であれば、自分の人生を狂わせた教団と同じ教えを、事件後20年経っても説いている教団の広報部長荒木に対して、罵声を浴びせてもおかしくないのに・・。
ー さかはら監督と荒木の関係性は、友人の様にも見える。ー
・荒木の人間性の描き方の見事さ。
彼は、さかはら監督に対して、丁寧語を使いながら、一緒に河原で石切をして子供の様に遊ぶ姿。そして、自分を可愛がってくれた祖母が住んでいた小さな町の駅に停車した列車の中から、涙を流しながら祖母が住んでいた方向を見る姿。
更に彼は、さかはら監督の”お願い”に驚くほど、容易に従う。
京都大学で学んでいた彼が、麻原と出会い、影響を受けた事を話す姿。
さかはら監督の”明日、ご両親に会って下さい”と言うお願いにも、逡巡しつつ従う。
そして、さかはら監督の年老いた両親を紹介され、喫茶店で二人に”大変申し訳ありません・・”と頭を下げる姿。
ー 荒木は、非常に真面目な人間である事が、序盤からすぐに分かる。そして、人から影響を受けやすい性質の危うさもキチンと描かれている。ー
・ラスト、荒木はさかはら監督に付き添われ地下鉄サリン事件で犠牲になった方々に、霞が関駅に設けられた祭壇に花を添え、祈る。
だが、追いかける報道陣が出すマイクに、荒木は謝罪の言葉を述べない・・。彼が、さかはら監督の年老いた両親に詫びたのは、さかはら監督との繋がりがあったからだと言う事が分かる。
<オウム真理教のテロにより、亡くなった無辜の方々、今でも後遺症に苦しむ方々は多数いる。だが、この作品ではオウム真理教の信者の中にも犠牲者は多数いるという事を雄弁に語っている。
最も、恐ろしいのは、事件から20数年が経ち、麻原達が起こした事件が風化し、冒頭描かれているように、若き子羊たちが毎月10-20名、入信しているという事実である。
あのような、事件は二度と起こしてはならない・・。>
<2021年8月9日 刈谷日劇にて鑑賞>
ネタバレ! クリックして本文を読む
まず双方(特に監督の方)が滑舌が悪く全体的な字幕が欲しいです。
チラシで気になり観に行きましたが、一度だけ見た予告で感じた嫌な予感が的中しました。
個人的にドキュメンタリーという作品は何かを否定的に捉えたくても撮り手(監督は)出来うる限りフラットであるべき、もしくは完全に私的なものであるならば終始一貫してその視点で撮るべきと思うのですが、この作品は被害者という立場から加害者(と決めつけた相手)を一方的に叩いているように感じるので見ていて本当に気分が悪いです。
こういう言い方をすると被害者叩きと言われそうですが、発言権という点では被害者は圧倒的に加害者よりも優位にあり、その立場に甘んじていると感じました。
相手は現在はアレフ広報担当とはいえ事件当時は出家して本格的に団体と関わりだしてから10ヶ月だったと本編内でも語られるのですが、つまり今回話をしている相手は一連の事件には関与していない(捕まっても無ければ事情聴取すらされたか分かりません。本編の感じだと本当にいち信徒だっただけという感じです)テロを起こした人物の経典を未だに信仰している、というだけの人物です。
個人的にはこの人が本人の自発的な感情の発露以外で謝罪することに何の意味も無いと思いますし、もっと言えばこの人個人(広報担当としてではなく)には謝罪や罪悪感を強要される立場にはないのではと思います。
「自分はあなた(の所属する団体)に酷い目に合わされたので、あなたにどんな態度を取るのも自由だ」というような雰囲気が発言の端々から感じられるのです。
他の方も上げられていますが、わざわざ監督自身の両親まで呼び出して3:1で囲んで「(僕に)何かいうことがあるんじゃないんですか」と謝罪の言葉を強要したり、メトロで献花させ(これも監督・広報担当どちらがやる(しろ)と言い出した事なのかは不明)マスコミに自分がしたような質問をさせた挙句に「はっきり謝ったらどう」というような上からの物言いでまたもや謝罪の強要をするなど、監督自身が被害者であるという悪い面が前面に押し出され、私情・私的な恨みの感情が強すぎて本当に見てて気分が悪かったです。
私などには想像すら及ばない苦しみに遭われた事は理解しますが、映画として切り取られた時作品の質を落としてしまうものでした。
特にマスコミに囲ませてる場面では、その前のシーンで自分の結婚相手が人に見られるの嫌?だから友達呼べなかった、晒し者になるのが嫌だったというような事を言っていた(字幕がなく滑舌も悪いので聞き間違いかもわかりませんが)のに、それを相手にやっているのは単に嫌がらせか復讐でしかなく無い?と思ってしまいました。
それをやるならば実行犯である人物に対してであり、それが叶わないため代わりに自分の手の届く範囲で殴りやすい相手を殴りに行ったという印象で見終えました。
2021年5月23日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館
反対の側にいる人間と対峙する。
ある立場は被害者、反対の側は加害者という。
ドキュメンタリーとしては危ない橋を渡る。
監督としては、練った企画で、互いの故郷、大学を巡る旅、ロードムービーだ。
ここに出ている荒木さんは、サリン事件の直前に出家している。サリン事件に関わったわけではない。しかし、彼の教祖が何も語っていないからサリン事件に向き合えない。
最後の方に彼が被害者と会ったことが今までなかったと言っていた。
昭和天皇が戦争責任を語らない、取らない、から、自分の責任にも向き合えない帝国軍人?みたいだ。
藁にもすがる思いで、信仰にすがる荒木さん。
いつか、固く握った何かをlet it go できるように。
映画を観ながら、亡くなった人、傷ついた人、すがっている人を思い、祈りたくなった。