クライ・マッチョのレビュー・感想・評価
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❇️何も起きないでと願い。そして感謝した映画。
クライマッチョ
🇺🇸1979年 テキサス州 🇲🇽メキシコ
過去にロデオキングと呼ばれた男。🐎
今はおじいちゃん👴。
過去の栄光で仕事をしていたが遅刻を繰り返し、クビになった。
一年後、仲間の恩を返す為、メキシコに暮らす仲間の息子を妻から奪ってくる仕事を任される。
少年と元ロデオおじいちゃんの信頼関係と生き様を描くストーリー。
❇️少年が本当の強さと優しさを知る旅。
🌀噛めば噛むほど味がある映画でした。
◉82C点。
★彡やっぱり良いね〜なんか良い。んんー良いね。イーストウッドの映画はスルメの様に味があるなぁ。良かったなぁ〜
🟢感想。
1️⃣メキシコの土地柄や人々の生活などが垣間見れて旅行気分になれた。
★彡メキシコの怖さと緩さのバランスが良かった。
2️⃣少年と粋なおじいちゃんのハラハラ二人旅が心配させる。
★彡何も無い事を祈る気持ちで観ていた。
3️⃣ニワトリ🐓の役割と重要感。
★彡ニワトリから見て学び、ニワトリを比喩に教えられる感じが切なくて素晴らしい。
🥲☺️🤔🐔🐎🐓🔥🍗🌮☕️🚙🚗🚓🏘️⛪️📞💵💮🆒
🈲ネタバレ保管記憶用
俺はルパン三世…あっ違った。
俺は、友人に昔の貸しを返す為、虐待された息子をメキシコから連れて帰る面倒な仕事を仕方なく引き受けた。
母親からネグレストされている13歳の息子を見つけ、半ば誘拐犯の様に息子をテキサスに連れて行くが、母親の通報で追ってが俺たちを邪魔するし、車は盗まれるし、警察にも追われる。老体の俺にはかなり辛い任務だね。
どうやら俺はこの男の子が気に入ってきたんだな。
盗んだ車も故障し、街でジャジャ馬を飼い慣らし、売れる馬にして金を稼いだ。
少年もセンスがあり、乗り方や飼育も覚えていった。
依頼主の思惑が見えてきた、どうも息子を取り戻し、息子を金の担保で考えている様だ。
こんな良い息子何考えてるんだか💢
この街にいると知り合った人達に迷惑がかかるので、俺たちは警察や追手をなんとかやり過ごし、国境へやってきた。
少年は俺に大事なマッチョをくれた。🐓
きっとテキサスでマッチョに頼らず、自分が強くなる!と意思の表明だろう。
俺はメキシコに戻り、匿ってくれた女の所に行く事を決意した。
この度はこれで終わりにする。🔚
二人と一羽のマッチョ
クリント・イーストウッド監督はどちらかといえば好きではない。しかし、人生を悔いるジイサンの終活系作品は好きだ。具体的には「グラン・トリノ」「運び屋」そして本作だ。
細かい形は違えど人生の終わりに何かをなそうとするという意味では同じような作品だ。
そしてこれら作品の中でイーストウッドが演じた役柄にはイーストウッド本人の影がチラつく。
イーストウッド本人から始まって本作を含めたいくつかの作品が一本に繋がった大作のようにも感じる。
お隣と異文化交流をし、クスリの運び屋をして、知人の息子をメキシコまでさらいに行く。未来を守り、過去を悔いて、そして今回は、未来に伝えようとした。
自分の持っているものを伝え残し育む。過去作に出てくるような悔いの残った男を新たに作らないために若者に人生を説く。
物語としては、むかしマッチョだった男と、マッチョになりたい男と、今まさにマッチョな男(ニワトリ)のロードムービーのような交流だ。
マイクとラファの関係性、距離感が近付いていく様子が丁寧で、お互いがお互いに歩み寄るパートがちゃんとあるのもいい。
それが次第に親子のように、食堂のマルタも巻き込んで家族のようになっていく様子は傑作の風格さえある。
暴れ馬をなだめるシーンではそれが最高潮に達する。どうやったのかと問うラファに対して「一緒にやったんだ」と返した瞬間はちょっと涙ぐんでしまった。
マッチョとは、一人で強く生きられることではなく、誰かと寄り添い支え合える者のことかもしれない。少なくともマイクはそう考えたように思える。盗みをしながら闘鶏場に一人で生きることでは決してないのだ。
昨今の作品は、イーストウッドの遺言のようにも感じて…
全く知らなかったクリント・イーストウッド
作品だったが、キネマ旬報でも評価が高く
(選定委員第4位/読者第9位)、
TV放映を機会に初鑑賞。
しかし、一流の監督らしからぬ
ディテールの甘さとつなぎの粗さを感じて
なかなか没入出来ず、
残念ながらイーストウッド監督作品としては
余り買えなかった。
まず、母親の人物像が極端過ぎて、
息子の葛藤に深みを与えていないし、
寒村の食堂女性経営者から
最終的に好意を受けるものの、
初めは反権力的思想からだとしても
それが愛情へ昇華する彼女の心持ちへの
演出を感じない。
更には、幾つかの場面で、何故か都合良く
警察側からは見つけられない設定や、
息子が車のオイル漏れを見つけるシーンの
下手な演出等々、
余りにも稚拙な前提と演出による展開が
連続する脇の甘い作品に思えた。
この作品、解説にあるような
“人生のやり直し”がテーマだとしても、
関係修復が充分では無い中で
父親に息子を届ける設定も疑問だし、
主人公と女性経営者との関係も
「マディソン郡の橋」のように、
その当事者の思索に
充分に焦点が当たっていないのでは
テーマの上滑りにしか感じない。
従って、キネマ旬報第4位選出も、多分に
イーストウッドのネームバリューの賜物
だったのかなあ、と思わざるを得ず、
一流の監督作品としては詰めの甘さを
感じるばかりの作品だった。
ただ、「グラン・トリノ」と同じように、
自らがその年齢でリアルタイムに感じた
人生の摑みを
若い世代に伝えようとの意図が
見え隠れしているようで、
昨今のイーストウッド作品は、
まるで彼の遺言のようにも感じている。
タイトルなし
最後の監督&主演作かと
お年寄りの姿勢でヨタヨタと歩く姿をみて、さすがに歳をとったなあと。でも、90歳を越えても、なお自分でも演じることができる原作を選んで監督、主演を務めたのだろうと。これが最後の監督・主演の映画になるのではと思った。彼の原点というべき「ローハイド」のカウボーイに回帰したかったのだろう。カウボーイ→西部劇→荒くれ者→刑事物をだどって、強い男「マッチョ」を演じ続けてきたイーストウッドが、晩年になって大切にしている信条を守るのが真のマッチョという境地に辿り着いたのではないか。見落とされがちな人たちの中にある人間としての素晴らしさに気づき、それらを守ろうとする姿が、ゆったりとしたロードムービーの中で描かれている。
90歳を越えて演じるにしても、できることは限られてしまう。彼の得意とするアクションシーンは、もう難しいだろう。荒馬を乗りこなすシーンも落馬したら大事だから代役だったろうし、敵と格闘したり銃撃するシーンもさすがにあの動作スピードでは厳しい。「運び屋」「クライマッチョ」ときて、それ以外にどんな映画があるだろうか。冒頭、友人とのダイアローグのシーンで、友人が仕事を流してくれて救ってくれたというセリフがあるが、この映画の話がもたらされた時のイーストウッドの本音ではなかろうか。
今回の作品には、自分の今までの生き方を振り返って、大切にしてきたエッセンスを詰め込みたかったのではないか。悪ガキというレッテルを貼られた友人の息子、女やもめで残された子供たちの面倒を見ているレストランの女主人、そういった人たちとの嘘のない触れ合いを通して、人として大切なものを守ろうとする姿を見せたかったのでは。そして、いつでも自分のタイプの女の人には傍にいてほしい。それがマッチョだと。
若い頃は、血気盛んで、暴力、理不尽、女、酒、反骨のエネルギーが有り余っていたけれど、それらの欲が全て枯れて、大切なものだけを守って生きていこうって。今までの作品からの流れを見て、そんなことを感じた。これが、最後の監督&主演作と自分は思う。
とても優しい作品
マッチョな心
クリント・イーストウッド監督
主演・製作のロードムービー
テキサスで孤独に暮らす
ロデオ界の元チャンピオンの
老人マイクは
恩がある元の雇い主から
メキシコで、前妻と暮らす息子を
連れて来て欲しいと頼まれ
13歳の息子ラフォを探しに
国境越えをする。
母親が原因で荒れた生活を
していたラフォは
闘鶏用のニワトリを
マッチョと名付け
ストリートで生活をしていた。
父親の事を伝え
国境を目指す二人だが
警察や追手に追われながら
ある街に辿り着く
未亡人のマルタという
女性のお店で休憩することになり
マルタの優しさに
居心地の良さを感じ
車が故障中という事もあって
牧場で野生馬の訓練を手伝う
マイクとラフォ
そんな流れで進行してゆく物語。
公開時91歳(現在は93歳)の
監督 主演だが
目の輝きが確認できたり
存在感がありました。
年老いた自分を 自然のままに
表現されていて素晴らしかったです。
ラフォ役の若手俳優さんも
しっかりとした演技で好演。
雰囲気の良い
ロマンスもあったりで
こういった作品も好きです。
主題歌?
カントリーミュージックも
渋さがあってステキでした。
「荒野の用心棒」
「夕陽のガンマン」等
西部劇が似合う俳優さんの
イメージがありますが
「ダーティ・ハリー」シリーズの
アクション物があったり
「マディソン郡の橋」では
ラブロマンスも
その他
マット・デイモンの「ヒアアフター」
トム・ハンクスの
「ハドソン川の奇跡」
「運び屋」他
後半は、監督としての
作品も沢山ありますね。
まだ、観ていない作品が
多くあるので 鑑賞したいです。
大したカウボーイとしての実力
最後の鶏の雄叫びはいいね
主人公を演じるには齢をとりすぎ
主人公はイーストウッドではなく、他の役者にさせた方が良かったのでは?
メキシコのギャングの元妻から息子を誘拐させる、という物騒な任務をさせるには齢をとりすぎで動きがスロー過ぎる。
(同様のことは、「アイリッシュマン」のデ・ニーロ、パチーノ、ペシの3人の主役にも感じたが、皆、好きな役者なので、彼らを見たい気持ち半分、作品の魅力が削がれている気持ちも半分)
例えば、「ミスティックリバー」の主演3人(ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコンなら60過ぎ)でも、本作の主役を演じることもできただろう。とかね。
最初は、「グラン・トリノ」みたいな映画かと思ったが、また違うな。
疑似親という以外にも、2人とも「居場所」が無く、それを探すロードムービー、というかな。
あとは、「少年の成長を描く物語」とすれば、父親、母親と対峙させる必要があると思うが、最後までそれは無し。
それは消化不良感が否めない。
まあ、良く言えば「観客の想像の余地を残す」とも言えるが。
好きな人は好きな作品だと思う。
さすがイーストウッド
馬とともに半生を過ごした人柄の魅力
<映画のことば>
「町中の連中が来た。俺はドリトル先生か。」
単に「牧童」と言ってしまうと身も蓋もありませんけれども。しかし、往時は「カウボーイ」といえば、「男の中の男」…最も男らしい職業であったことは、間違いがなさそうです。しかも、マイクには、ロデオ・スターとしての斯々たるキャリアもあった。
そういう過去の「栄光」を自分からは前に出そうとしないマイクの人柄が、頑なだったラフォの心を溶かし、マルタの心を惹きつけ、そして動物(マイクの半生を一緒に生きてきた馬)の扱いを通じて、本来はただ立ち寄っただけのベラクルスの町の人々(実は恐妻家だった保安官を含めて)の信頼を得たたことは、疑いがないと思います。
そして、その根源にあるのが、マイクの「本物の強さ」ということでしょうか。
歳をとって肉体的は衰えたとしても、それまでの馬との生活によって鍛えられた精神的な強さ(輝き)とでも形容すればよいのでしょうか、いぶし銀のように輝く、そういうマイクの人柄としての魅力が根底にあることも疑いのないところです。
マイクは決して強ぶっているわけではなく、それどころか警察の不当な臨検に遭ってクルマの装備をめちゃめちゃにされた時には(ちゃんと?)弱音を吐いているわけです。 ただのマッチョではなく『クライ(cry=泣く)マッチョ』になっている?
それでも、マイクの人柄そのものから滲み出てくる「マッチョさ加減」というものは、少しも減殺されていないというべきでしょう。
歳をとって、若い頃のように無理に強がることをしなくなったら、本当の強さが、自分の内側からにじみ出てきた…とでも形容すべきでしょうか。
年齢を重ねたクリント・イーストウッドの「老害」を説くレビュアー諸氏も少なくないようですが、評論子は反対に、さすがのクリント・イーストウッドも、老境に達して、初めて創ることのできた一本なのではないかと、思います。
むしろ、この年齢に達して、初めてこの作品が撮れたのだろうと思います。
評論子も、馬齢を重ねるごとに、疲れやすくなる、息は上がる、耳は遠くなる、目は霞む等々肉体的な衰えは覆うべくもないところですけれども。
それでも、マイクのような「いぶし銀」のような強さを、もし身に付けていられたとしたら、それは、とてもとても素晴らしいことだと思います。
俳優としての味のある演技だけでなく、ヒューマン・ドラマの名手としてのクリント・イーストウッドの神通力は、作品の製作本数を重ね、自身もが老境に達しても、未だに衰えを知らないと評することができると思います。
秀作であったと思います。本作も。名監督にして名優であるクリント・イーストウッドの手になる一本として。
<映画のことば>
「すべての答えを知っているような気になるが、老いとともに無知な自分を知る。気づいていたときには、手遅れなんだ。」
経験を積み重ねるごとに、いかに自分が経験不足であるかを赤裸々に思い知らされ、更なる研鑽が必要なことを思い知る―。
「実るほど/頭を垂れる/稲穂かな」
とは、よく言ったものです。
常に今の自分を是とすることなく研鑽・努力を怠らない…。
自分の「老い」を素直に受け入れながらも、尚その「老い」に抗いながら生きようとする姿は、観ていても素敵です。
何歳(いくつ)になっても、評論子も、そのようにありたいものです。
『運び屋』Version2
イーストウッドのグラビア?
強さとは何か。男性の方が見ていて心に刺さる映画かも?
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