クライ・マッチョのレビュー・感想・評価
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クリント・イーストウッドのファンが観るべき映画かな?
正直言えば期待してたほどの内容ではありませんでした。内容的には元の雇い主からメキシコにいる彼の息子を国境まで連れてくるだけの単なるロードムービーという感じでした。
ただこういう淡々とした緩い内容の映画が好きという人も一定数いると思いますので好みの問題だと思います。
ラストの展開は「あれっ?そっちに戻るの?」って感じでした。
しかし何がすごいって言えば、クリント・イーストウッド氏が91歳で現役バリバリの俳優・監督であること。また次の新作が観れればいいかなと思います。
イーストウッド仕様に120%カスタマイズされた、ファンとキャリアに捧げる私的「ご褒美」映画。
良くも悪くも、クリント・イーストウッドを観るための映画だよね。
齢九十一にしてなお、スクリーン上で動き、しゃべり、演技する彼を観る、このうえない幸せ。
それだけで、なんかほっこりした気持ちになれる。
そんな映画だし、そういう客向けの映画。
しかも、実年齢に則した「相応の老人役」じゃない。
初老の役者がやってもおかしくないような「プチヒーロー」を、「年齢不詳の得体の知れない何か――クリント・イーストウッド」として、そしらぬ顔で演じ上げているのだ。
その意味で、あまり類例のないタイプの「変な」映画でもある。
だって、素に戻って考えてほしい。
こんな、きちんと歩けているのが不思議なくらいの老人に、
メキシコから子供を連れ帰るよう依頼する人間なんか、
そもそもこの世にいるはずないんだから(笑)。
なんか、クリント・イーストウッドだから、許されてるというか。
『許されざる者』ってより、『許されちゃう者』だよね。
これまでのキャリアに対する尊敬とか、イメージとか、
まだ生きて活動していること自体の奇跡性とかもひっくるめての、
映画の外も内もない交ぜになった奇妙な映画体験だった。
例えていえば、人間国宝の老女形を見て、「そこにはもう得も言われぬような艶と色気があって、女性の業みたいなもの演じさせると、さすがは●●屋さん」とか言うじゃないですか。
歌舞伎ファンからしたら、まさにそういう風に観る「訓練」が成されてるから、ちゃんとそう観えるんだろうけど、部外者から言わせたら「いや、こて塗りの立ってるのもやっとの老人見て、色気感じろって言われてもなあ」ってなりかねないし、それはそれでしょうがない。
それに近い感じ。
先に言っておくと、僕はかなりのクリント・イーストウッド・ファンだと思う。
僕にとって生涯最高の映画は『続・夕陽のガンマン』でこれからもあり続けるだろうし、
これまでの人生で何度『ダーティハリー』シリーズを観てきたか、それこそ数えきれないくらいだ。
この人は30年前に『許されざる者』を撮り、約20年前には『スペース・カウボーイ』を撮って、とっくにもう「敗れざる老残」をテーマにした映画を作り済みなわけだが、ほぼ実年齢で演じた当時の役柄には本当に説得力があったし、その系列において『グラン・トリノ』(2008)はガチ泣きさせられた真の傑作だった。
口先だけのリベラルを心底小馬鹿にしたような映画も多いし(なんでリベラル層まで真顔でこの監督の映画を褒めるのかよく分からない、マゾなのか??)、初監督作の『恐怖のメロディ』以降連綿と描かれる根の深い「女性憎悪」もこの人の闇の部分だと思うが(時にフェミニスト映画みたいな言い方する人いるけどあいつらマジでバカなのか??)、僕は本質的にクリント・イーストウッドが大好きだし、彼の作った映画もまた大好きである。
でも、今回のは映画としてはどうなんだろう?
少なくとも「この原作を映画化する」ための最適手がとられているようには、どうしても思えないけど。
当然ながら、もっと若い人間が主演をやるべき映画だし、もっとアクションがあっていい映画だし、肝心のロデオシーンがあからさまな吹き替え、みたいなダサいことはしてはいけない映画だろう。
何より、敵が手を出してもよさそうなところで、あえて何もしないで帰っていく、見逃すみたいなシーンが多すぎる。なんか、出演者がみんなで、クリント・イーストウッドをそっとおもんぱかってるみたいな……。
実は、店頭に原作がすでに並んでいたので映画を観る前に買って、すでに読みだしているのだが(これが、もうすげえ面白いんですよ)、まあまあ原作を徹底的に改変してるんだよね。「クリント・イーストウッドが出られるように、それに合わせて」。罪のないほほえましいのだと、原作ではマルタは「子連れの未亡人」だが、クリント・イーストウッドの年齢に合わせて、映画では「子供のおばあちゃん」になってるとか(笑)。
でも、たとえば原作では、少年の心をマイクがつかむシーンって、例の村で持ち金盗まれてから、「野生の馬をマイクが捕まえて、乗りこなして、慣らして、売りさばいて」お金を作るのを間近で見て、ロデオスターとしての彼の技量にハートを撃ち抜かれるんだけど、おそらくなら「今のクリントには難しい」って理由で、「気性の荒い馬を馴らす」だけのシーンに下位変換されちゃってる(しかもそこだけダブル)。
あれって、ストリートに生きる少年の心をつかむことと、野生化した馬を捕まえて馴化することは当然、物語のうえで相似形を成してるわけだし、原作を尊重するなら、絶対いじったり変えたりしちゃいけないシーンだと思うんだが。
全体に、原作はもっとシビアで、もっと主人公は追い詰められてて、もっと不幸な過去があって、少年はもっと懐疑的で、警察の追跡はもっと暴力的だ。そして、あえてここでは触れないが、ラストもぜんぜん違う。
こぢんまりとしたドメスティック・アクションであることには変わりないが、フィクションとしての濃度も、重さも、たぶん原作のほうが格段に上だろう。
それを、120%クリント・イーストウッド専用機として、徹底的にカスタマイズし、フルモデルチェンジしたのが、映画版の『クライ・マッチョ』だ、と言っていい。
半分は、身体的な条件に合わせて、負担の少ない脚本に変えることで。
半分は、ヒーローとしてのクリント・イーストウッド像に主人公を近づけることで。
前者は、映画として正直あまり褒められたことではない気がするし、後者は昔ペキンパーの『ゲッタウェイ』でスティーヴ・マックウィーンがゴネて、ラストがハッピーエンドになった話を思い出させる。でも今回は、監督が主演なんだから、まさに何でもありだよね(笑)。
結果として、映画版の『クライ・マッチョ』は、どこかのんびりした、幸せなテイストを身にまとったロード・ムーヴィーに仕上がっている。ラストの改変も、その延長上にあるものだ。
お話だけで考えると、「なにそれ、そんな終わり方ありかよ??」みたいな珍エンディングにも思えるけど(実際僕は映画館で爆笑した)、前半をあれだけ毒抜きして「ぬるい話」にした以上、ラストだけシビアにしてもノリがおかしくなる。そのあたりは、さすがクリント・イーストウッド、ちゃんとわかっている。
今回、偏った政治性はほとんどないし、女性観もドン・シーゲルやセルジオ・レオーネの頃に逆行したかのような「包んでくれる存在」「子どもと男を慈しむ存在」に限定されていて(敵役のメキシコ女はその逆の存在としてダメ人間認定される)、観ていて(今までのクリント・イーストウッド映画で引っかかったような部分での)不快だったり挑発的だったりする要素は、ほとんどない。
すべては、人生の最後に観る、スパイスは効いているが温かで幸せなほっこりした夢。
人生で演じてきた幾多の「ロデオスター風キャラ」をモチーフにとった、同人誌のような「最後のあいさつ」。
これはそういうふうに作られた映画だし、そういうふうに観る映画だ。
そもそも、90歳の人間がやるような話ではない時点で、「ありえない話」を「ありえない話」として楽しむように観客はおのずから誘導されるし、それを監督・主演も理解したうえで、「みんなも一緒にクリントと楽しもうぜ!」ってノリでふるまってくる。
「ロデオは吹き替えだけど、年齢が年齢だから、許してチョ!」
「部屋への侵入も、過程はすっ飛ばすけどわかってくれるよね!」
「殴り合いは徹底的にモンタージュでごまかすから、そっちの技を見てくれ!」
「代わりにマジで馬に乗ってみたから、そこはぜひ注目してくれ!」
「ラブもやるけど、あったかい目で応援してくれよな!」
みたいな。
で、こっちはアクションやロデオは適当に見逃すかわりに、実際にあの年齢でクリントが矍鑠と歩き回り、独力で車のソファーを持ち上げ、車のなかにぶち込むだけで喝采をあげるわけだ。
「すげえぜ! あの齢であんなアクション、独力でやってのけたぞ!」って。
クリント・イーストウッドは、大スターだ。
生ける伝説だ。いや、イキガミ様といってもいい。
なんで、まあ基本的には、もう何をやってもよいわけだ。
神様が受肉して地上に降臨して、また「演技」を見せてくれる……しかも、『運び屋』の年齢設定からはるかに若返った謎設定で、「動ける初老」みたいな役を楽しそうにやっている。
それで十分、といえば十分なんだと思う。
役者としてはもう引退したかと思っていたレジェンドがくれたサーヴィス特典。
それが長篇一本分もあるなんて、すごいご褒美感だ。
でもまあ、この映画を諸手をあげて傑作とか言っちゃうのは、たぶん違う気がする。
映画としては、原作に対して不誠実な部分や、まっとうでない理由で捻じ曲げられた部分が多くて、あまり褒められた出来ではない、いや正確に言うと、こういう「個人にカスタマイズすることを是とする」のは「お遊び」の範疇以外で表立って認めるのにはおおいに抵抗がある、というのが僕の個人的な感想だ。
あくまで、ファンと、自分と、自身の長いキャリアに捧げる個人的な映画として、「お互いの共犯性」のなかでひっそり愉しむ「小品」。そういう位置づけでなら、十分に楽しめる映画だと思う。
イーストウッドが繰り返し問う贖罪に加えて、自身の若かりし頃の栄光を省みるかのような台詞が胸に沁みます
舞台は1980年、かつてロデオスターだったマイクが元雇い主で古い友人ハワードに頼まれて、元妻とメキシコに暮らしている彼の息子ラフォを連れ帰るという話。原作も1975年に発刊された古い小説、昨年鑑賞した『すべてが変わった日』や『マークスマン』といった作品に通底する贖罪を巡るドラマであり、それはクリント・イーストウッドが自身の主演作で延々問うているもの。ラフォとマイクの対話、旅の途中で出会った人達との交流の中で育まれる信頼と友情、男らしさについて語るマイクの言葉が胸に沁みます。年老いた者から若者へバトンを渡す話ですが、若者からそのお返しに渡されたものがタイトルの意味と被っていてエンドロールの入口でまたひとしきり泣けました。
出来れば『マークスマン』と併せて鑑賞していただきたい作品です。
♪いいないいな人間っていいな
最初はまどろっこしい程ゆっくりと時間が流れていきます。
後になるとそれがいい。
いい人の周りにいい人が集う。
こう有りたいって思わせてくれる作品です。
もう優しいクリントイーストウッド満載です。
それはそれで素敵なんですけど山田康雄が声をあてた頃のイーストウッドをちょっと観てみたい…出来ない相談だよねー(悲)
賛否両論ありそうな作品
イーストウッドか、レディ・ガガか?
迷ったが、こちらを先に鑑賞
イーストウッドらしい作品だった
大事件が起こるわけでも、劇的な変化があるわけでもない
しかし、小さなメッセージがいくつも組み込まれていた
優しい目線
監督デビュー50周年、監督作品40作目の本作を試写会で見ました。とても穏やかで優しいロードムービーでした。刺激を求める人には向かないかもしれませんし、これまでのイーストウッドの作品をイメージして見ると肩透かしかもですが、人に対する優しい目線はいつものイーストウッド作品です。個人的には、メキシコの雰囲気がとても良かったです。メキシコ繋がりでディズニー映画のリメンバーミーを思い出しました。
さすがクリント・イーストウッド。年老いたりとはいえ、少年との友情あ...
さすがクリント・イーストウッド。年老いたりとはいえ、少年との友情あり、西部劇の魅力もあり、女生との恋愛もバッチリです。メキシコからテキサスへのロードムービーにもなっていますが、いろんな意味で楽しめる作品になっていました。
イーストウッドはまたいいことをした。
好きなところをいくつか書く。まずマイク(クリントイーストウッド)はラフォ(エドゥアルド・ミネット)に選択するチョイスを与える。ということは父親が誰かどんな人か、それに彼も騙されていたことなど包み隠さず話し、テキサスにいる父親の元にいくかどうかラフォに決めろという。ラフォにとってみるとテーブルの上に出された父親の良し悪しがわかり、それをどう選択するか自分で決める。決めた結果、その責任は自分で取ることになるという過程の映画。
クリントイーストウッドの映画はこのように公平性に焦点を持っていっていると思う。
それに二人で野宿をしている時に、メキシコで母親と暮らしていたラフォの体の傷跡をみて過去を聞くが、マイクもロディオスターで一世を風靡したが、家族を失った自分の心の過去の傷をラフォに話す。ラフォを子供扱いせず自分と同等で公平な付き合い方をする。好きだなあ。
本人マイクも今と前は違っていて、マイクの過去の問題点の償いで、今のマイクがあるように作品を導いていると思う。まあ、そういう脚本が好きなのかもしれない。
これとは別にイーストウッドの映画にはジェフベゾスタイプの金持ちは主人公になって出てこない。リベラルな教育のある人間の存在も少ない。 一般人が、かえって、過去に影のある人が、生きる使命を持って、自他ともに変わっていく。 そこが好き。 それに、この映画は『運び屋』や『グラントリノ』と同じようじゃないかと思っていたら、脚本家は三作ともニックシェンクなんだ。やっぱり!
あとは、個人的な批判だが、イーストウッドが主演を演じなければならない理由がわからない。大御所だから彼の采配にとやかく言っても始まらないが、腰を痛めているカーボーイといっても、無理が見える。特に発音と体の動きが緩慢。ただ言えることは彼の下で直接指導を受け巣立っていける人が映画界に増える。それに、個人的にイーストウッドが主役なら、人間性を追求する映画なので安心して鑑賞できる。
全311件中、301~311件目を表示