ファーザーのレビュー・感想・評価
全77件中、21~40件目を表示
自分のためにもういちど観たい
父アンソニーと娘アンの心の機微が見事に描かれていた
肉親ならでは。。。の感情だろう
だって、近所の人がそうした状況にあると知ったときとは明らかに違うのが本音だとおもう
身内でさえ娘とその夫の姿に
よくあらわれている
自分で自分のことがわからなくっていく
恐怖、認めたくない気持ち
対する
よく知ったその人が少しずつ消えていってしまうような寂しさ、つらさ
老いは誰しもの人生の道の先にあるもので
どう受け入れられるかが鍵だと教える
どうしようもない変化に遭遇したとき
あわてるのは仕方ない
でも本作を観た経験は
もしかしたらクッションみたいな
なにかを
ふわっと自分の手元によこすのかもしれない
抗えないことに
そばにいる者がやさしく存在できれば
奇跡のような命のレールで出会った意味、
愛という感情がなしえるものを
ひとつ知ることになるのかもしれない
すべては永遠ではなく
のこされた限りある時間のなかのこと
家についたら一本の電話で
安らぎを与えたいと思った
もし、抜いたばかりの歯を
わたしの歯は一体どこにいっちゃったんだ?とか
今さっきの確認を
そんなのみたこともきいたこともないとか
とんちんかんに思えるやりとりがあっても
もらったクッションをかかえて一呼吸おき
まるごとゆっくり包めるような
できるだけそんな自分になりたいと思った作品
愛をもって
自分のためのクッションは必要だ
悲しい
認知症を描いた映画は結構あるけれど、ここまで本人に寄り添った視点のものは初めてじゃないだろうか。
人の顔と名前、自分が今いる場所、過去の記憶など、全て辻褄が合わないのに、周りはそれが当たり前のように接してくる。まるで1人だけサスペンス映画の中にいるような恐怖。
これだけ見ると同情して可哀想だなで終わるが、周りの立場に立つとそれだけでは済まない。病気のせいだとわかってはいても、心無い発言をされたり同じ話を何度しても覚えていなかったりと、イライラの毎日。アンは娘だからある程度思いやれるし、介護士たちは仕事だから受け流せるが、ポールは他人だからイライラを本人にぶつけてしまう。それでも覚えてないから余計イライラ。
私自身も認知症の家族と暮らしたことを思い出しながら観たが、そうだよなあイライラするんだよなあ。と共感した。
アンソニーは恐らく以前は非常に知的でチャーミングな人物だったんだろうと思うが、そんな彼も認知症になったらただの迷惑老人になってしまう。本人も悲しいし周りの人間も悲しい。ひたすら悲しい映画だった。
そして、始終クラシック音楽が流れ高級なフラットを舞台に美しく描かれている中に、アンがアンソニーの首を絞めようとする描写があったり、アンソニーがアンにお前の葬式が楽しみだ的な発言をしたりと結構エゲツない描写が入ったことで、綺麗事で終わらないリアルを感じて、それがすごく良かった。
悲しい、、、アンソニーの演技すごい
まさに祖母の半介護をする母と一緒に見ました
海外でも同じ事象が起こっていて共感しました
そしてアンソニーの認知症のうつろな感じがとてもうまく表現されていて、泣きたくなりました
時間軸飛んだり、言ったことを言ってなかったりどっちやねん!という構成が面白かったですね。まさに認知症体験映画
最後には母を求めるシーン、、、なける
私は正常なのに、世界は狂っている
この映画、アンソニーの心の中のつぶやきがないことが、成功の秘訣のように思います。「いったい、何が起こっているんだ」とアンソニーに言わせず、その言葉を見ている観客の心の中で呟かせる。
そう考えると、この映画はアンソニー目線で描いたというより、あの空間の中でアンソニーを見るもう一人の認知症患者の目線から描いた、と言えるのでしょう。もちろん、もう一人の認知症患者とは、観客のことです。
私は誰で何者なのか。認知症の不安は、存在の不安です。
私とは関係の産物で、タマネギの皮をはぐように取り去ると、残るものは何もない。そこにある根源的な恐怖に、立ち会わせる巧妙な仕掛けがこの映画です。
つまり私たちは、認知症の理解という域を超えて、世界や私の理解の仕方を理解するという体験を共有することになります。ん?そうした私の認識は、あなたの認識と同じなのか?認識の共有とは何なのか?
認知症患者は、迷宮に一人迷い込み、やがて二度ともどってこれなくなる。でも映画を見終えて、もどってこれたような気になっているあなたは、本当にもどってこれている?はて?
その先は
題名からしてお父さん目線で書かれているのかなと思った。時が進む度に人が変わってたり、名前が一緒なのに容姿が違ったり…これは認知症の人の感覚?と思った。
自分は1人で大丈夫と言うけど、娘を認識出来てなかったり亡くなっただろう下の娘のこともまだ旅行に出てると信じてたり。
なんか切なかったです。施設に入って記憶が少し曖昧になって娘ではなくママを呼んだり。あのままどんどん記憶が曖昧になっていくんだろうか。葉が落ちていくように…という例えがなんとも、もどかしいんだろなと想像した。切ない…。
心に響く映画。
とても衝撃的な作品。
現代では認知症が世界中で問題視されている中
患者側の主観で容赦ない演出は思わず目を
背けたくなるようなリアルさを表現している。
鑑賞中、何度も何度も取り残されたが、
その状態こそこの作品の最たる楽しみ方なの
だろう。アンソニーが見る世界を共有し、
認知症患者の苦悩を知ることができる。
真実は1つなのにまるで複数の世界を行き来
しているような気分にさせられた。
悪気は全くないのに、脈絡のないところから
突然飛んでくる心ない台詞には心を痛めた。
ラストに真実が明かされるが、繋がれば
とてもシンプルな一本線。
時々アンソニーの思い込みなども混ざるが。
避けられない運命の絶望感を感じながら、
自分のことかのように突き刺さる台詞と
初めて体験する世界、そしてアンソニー
ホプキンスの繊細で芸術的な演技に
圧倒され続けた97分でした。
民族の違い?
ボケはじめの頃ってそれを指摘されるとごまかしたりするから発覚が遅れると聞いたけど、この主人公はキレまくりますね。民族や国民性によって認知症の症状って違うのかな?それがこの映画を見て一番気になったところ。もちろんアンソニー・ホプキンスの演技は素晴らしい。女王陛下のお気に入りで気に入ったオリビア・コールマンも素晴らしい。でも想像してたのから一歩もはみ出ない映画って退屈しちゃうよね。最後に急に弱気になる?子供に戻る?のも安直で舞台なら分かりやすくて良いのかもしれないけど映画では物足りない。
人の記憶って
主人公の男性は、とても元気で何にも無く過ごしていた。だけど、自分で気づかないくらいに病気が進行していて健忘症になってしまっていた。
アンソニーホプキンスが演じる男性は、実際しているかのような演技で観てる方に何の違和感も与えない。
自分の記憶が分からなくなってしまう病気を外からみる作品は、多いなと思うけど。
自分がなっている作品って珍しいなと感じた。
実際に自分がなってしまうとこういう事になるのかもしれないと少し怖さもあった。
自分が思っているもの全てが違ってしまっているというのは、とても怖くて悲しいなと感じた。
身近な人やこういう人達に出会った時に少しだけ、今までとは違った視点から相手と接する事が出来る様になるかもしれない。
父の悲しみ
今年のアカデミー賞の主演男優賞発表の時に、そのサプライズは起きた。
『マ・レイニーのブラックボトム』の故チャドウィック・ボウズマンではなく、名前を読み上げられたのは本作のアンソニー・ホプキンス。
自分は作品も見ており、ボウズマンへの追悼も込め、受賞はまず間違いナシと思っていたから、びっくり仰天。
それはアカデミー側も同じで、異例の主演男優賞発表を大トリにして、感動の授賞式で終わろうと狙っていたようだが…、別の人物(しかも授賞式欠席)が受賞しちゃったもんだから、大慌て。まるで打ち切るかのように授賞式中継はフェードアウト…。
ある意味面白かったね、筋書きナシの“醜態”ドラマ。(筋書きナシはホプキンスの受賞に対しての称賛、醜態はアカデミーに対しての…)
以来ずっと気になって仕方ない、どちらが受賞すべきだったか。
やっと本作も見て、MY判定出来る!
英ロンドンで一人暮らしの81歳のアンソニー。認知症を患う。
娘アンは時折訪ねるも、父は介護人を拒否…いや、追い返し、アンを心配させる。
そんな父の認知症はさらに進行し…。
認知症の父と娘の物語。
認知症を題材にした作品は古今東西、腐るほどある。
邦画でも2019年に認知症の父とその家族を描いた『長い散歩』があり、邦画らしいユーモアとハートフルと感動仕立ての作品だったが、本作はまるで違う。
シリアスな父娘ドラマを軸に、サスペンス色やどんでん返しあり、衝撃作。
とにかく癖が強いアンソニー。
それ故介護人は次々嫌気が差し辞め、アンをも困らす。
それでいて、知的と自負。
周囲を翻弄させる様は、もしレクター博士が認知症になったらこんな感じ…?
認知症を扱った作品だと大抵、周囲の視点から描かれる事が多い。
父が私たちの事を忘れていく…。
悲しみ、苦しみ、恐れ。支え、その先にある家族の幸せ…。
が、本作は認知症を患うアンソニーの視点から描かれるのがミソ。
登場した時から見る側をも振り回すアンソニーの言動。それは単に認知症だからなのか、それとも何か別の…?
一人暮らしの筈のアンソニー。なのに、見知らぬ男が自宅に居る事に驚く。しかも、娘の夫を名乗る。何故なら、アンは離婚して5年経つ。
ちょうどその時、買い物に出ていたアンが帰って来る。…が、その娘の顔が別人。時々娘の顔が別人に見える事がある。
(↑これら最後のどんでん返しの伏線)
自分は正気なのに、戸惑い、恐怖…。
アンから恋人が居るパリに引っ越す事を伝えられる。
娘の夫から、ここはあなたの自宅じゃないと告げられる。
ここは私の“フラット(家)”だ!
主な舞台となるアンソニーの自宅アパートにも仕掛けが。
アンソニーにはもう一人娘が。気遣ってくれるが、お節介なアンとは違って、可愛い娘だというルーシー。が、そのルーシーは一切姿が無い。可愛いと思い込んでいるのは自分だけ…? それともまた何か別の事情が…?
アンソニーの認知症が進行していくと共に、現実と幻想の狭間が混濁。そして、時間すら曖昧になっていく。
見る側もアンソニーの視点に。一体、何が正しいのか分からなくなっていく…。
基の戯曲では“アンドレ”。
名前や年齢や誕生日など細かな設定まで、監督がホプキンスに当て書きして変更したという。
ホプキンスがそれに応え、徹底した役作りを…何としていない!
晩年の父を思い出しながら演じたから簡単だったとの事。
嘘でしょ、この演技が!?
役作りは行わず、シナリオの中に全てがあるとシナリオ熟読し、役に成りきるというホプキンス。
しかしそれは、この名優だからこそ出来る“役作り”だと思う。
でなければ無理だろう。『羊たちの沈黙』以上の至高の名演が。
父の事は本当に心配。
でも、自分の幸せも。
父に対し複雑な思いも抱える。
そんな娘の葛藤、苦悩…。
ホプキンスに引けを取らない難役を演じたオリヴィア・コールマンも巧い。
演技が特に絶賛された本作だが、演出や構成も素晴らしい。
先述もしたが、娘の夫を名乗る男と別人顔の娘。
姿を現さないルーシー。さらに、自宅アパートやアンも。
実は見ていて、何となく少しずつ察しは付いたが、それでも真実とどんでん返しが一つになった時の巧みさには唸った。
自らの戯曲を映画化し、本作で映画監督デビューとなったフランスの小説家/劇作家、フロリアン・ゼレール。また舞台の世界から確かな演出力を持った俊英が現れた。
ここからネタバレになるが…
画家だったルーシーは数年前に事故で死亡。
“男”と“女”は老人ホームの人物。
アンソニーが居るのは自宅アパートではなく、老人ホーム。
アンもすでに恋人と共にパリに住んでおり、時々帰ってきて様子を見に来る。
そう、全てはアンソニーの妄想。
認知症の体現の怖さがよく言われているが、私は別のものを感じた。
まるで、木から葉が全てこぼれ落ちていくかのよう。
喪失、悲しみ…。
子供のように泣きじゃくるアンソニーの姿に、言葉も出なかった。
見ながら、ふと思い出した。
私の亡くなった祖父も認知症とまではいかないが、ボケが酷くなった事があった。
まだ若年だった私はそれを気味が悪いと感じ、祖父を敬遠した時期があった。
もし、多少人生経験を積んだ今だったら…?
さて、MY判定。
確かにホプキンスは、寸分違わぬ受賞に相応しい名演であった。
でも、もう二度と受賞する事のない熱演で、これが最初で最後の…である事を思うと、ボウズマンに受賞して欲しかった。
やっぱりどうしてもの本音。
本作をどう「小説」で、描くのか?
本作を見る前から、「原作がある」ことは知っていた。
だから、映画を見ながら、
「原作はどうやってるんだ?」と気になった。
なぜなら、主人公(=観客)の「混乱」は、「視覚」からの混乱だから。
娘はだれ?
娘の夫はだれ?
自分の部屋は?
娘と同居してるの?
全て「視覚」だ。
上記が毎回変わり、主人公にも観客にも「真実」が分からない、
というか「真実はどうでも良い」のかもしれない。
この困難な題材をスタイリッシュでテンポよく描いた監督の手腕に称賛を。
これは現実?
認知症の父が見てる世界なのか、現実なのか。
とても複雑ではあるけれど、難しい設定をうまく表現できていたと思う。
ラストはやはり現実とはそういうものだと、納得しながらも悲しかった。
実はこの映画。
実はアンソニーは痴呆でなくて、周りの人間が悪だったら、と言う展開であって欲しかったが、最後まで病気だろう展開が続く。
娘に首を絞められて死んだあとの夢という設定はどうだろう。
自分を見失っていく、という、ある意味ホラー。
今年のアカデミー賞主演男優賞を、うっかり受賞してしまった、アンソニー・ホプキンス。
誰もがチャドウィック・ボーズマンが受賞し、追悼の厳かな気持ちで幕を閉じるであろうと予測していた授賞式、図らずも世界中の観客を唖然とさせてしまった形になった。
鑑賞中も、安定の名演技なんだし、ここはチャドウィックにあげても良かったんじゃ?って、途中まで思っていたけど、残り5分くらいのところで、やっぱりアンソニー・ホプキンスは偉大だ、と、泣きながら思った。
もちろん、ホラーじゃないんだけど、ハラハラするし、何が本当か分からない、自分も他人も信じられない状況、とても怖い。
本当に存在しているのか分からない人が突然現れて、いなくなる。
知ってるはずの人の顔が違う。
シュールなホラー映画みたいな、ゾッとする怖さがあった。
両親のことを考えて怖くなった。
さらに、自分。
私って、誰が面倒見てくれるんだろう?
いずれ旅に出るのに、時計は大切だから、見失っては探し、見つけては見失い、ずっと時計に執着していたのか、と、分かった時、号泣。
人は等しく、旅に出るのを避けられない。
そして、やっぱり母に会いたいんだなー。
介護に従事される方達って、本当に尊い。
頑固でお茶目
この数年少しずつ認知障害が出てきていて、5分おきに「お前太ったんじゃないの?」と聞いてきたり(ええ、太りましたとも)、今の自分や家族の年齢を聞いてビックリしたり、自分でも自覚していたようなことを口にしたりと、それでもまあしょうがないかと思える程度で済んでいたからかもしれないが、コロナのせいもあって1年以上会えないままこの春亡くなった父親がいたりすると、また違う感想があるのだろうか。願わくばアンソニーのような恐怖と孤独を感じずに済んでいれば良かったが…無理か。
終盤とうとう自分が誰か分からなくなり、子供にかえって母親を恋しがって泣くアンソニーの姿には、それがアンソニー・ホプキンズであるということも相まって、余計に動揺した。
まさかあの介護師が虐待してる裏設定とかないよね。
過去なのか記憶なのか幻想幻覚なのかそれらがごちゃ混ぜになっているのか判然としないが、それがまた居心地悪く感じさせアンソニーの不安を追体験した気になる。
老いを疑似体験
亡くなった祖母のことを思い出してつらかった。祖母も晩年は認知症の症状が重くて、家族のことも誰が誰だかわからなくなり、すぐに人に物を盗まれたと疑うようになった。
家族としては見ていてつらかったけど、この映画を観て認知症を患っている人側を疑似体験すると、祖母は祖母でとても寂しくて怖かっただろうなあと。日々わけがわからないことが次々と起きる。きっとものすごく混乱して、ストレスがかかって、誰にも理解してもらえずに孤独で…
だけどこの目線を少しでも体験できたことは、いろいろな立場の人に寄り添うことにつながるんじゃないかな
事実は一つかもしれないけど、少しでもその人の中の「本当」を信じてあげられるように。
何故アンソニー・ホプキンスが名優かが分かる映画
ここで映画のプロットを語ろうとは思わない。
何故ならそれは皆んながやっているだろうからだ。
故に自分はここで何故アンソニー・ホプキンスが名優なのかを語ろうと思う。
アンソニー・ホプキンスの凄さは彼は徹底的に演技を即物的に行おうとしている。
よくアンソニー・ホプキンスと比較されるのはダスティー・ホフマンなのだけど
彼はアンソニー・ホプキンスと真逆を行くスタイル。
それはつまりどう言うことかを言うと
ダスティー・ホフマンは演者として行間を大切にするタイプなのだ。
例えば彼は煙草を吸うシーンがあるとそこに仮に大人になってから30年の重みを出そうとする。
何故彼がそう言う姿になってしまったのかの行間を表そうとする。
ところがアンソニー・ホプキンスには一切それが無い。
役を演じきる事に彼は人一倍熱心なのに彼は行間で何かを語る事は一切しない。
タバコを吸うシーンがあっても彼はそこに何も描かない。
しかし何故か30年以上煙草を吸っていた重みが不思議に出るのである。
だから彼に「羊たちの沈黙」があまりに凄かったからと言って
ダスティー・ホフマンの様な役作りをしようとしたんですか?と聞くと
「そんな事は何もしないさ。私は仕事として役を演じただけであって、自分はレクター教授とは違う人物だ。自分はアンソニ〜ホプキンスだよ。」とそれを言った人物に素っ気なく言うだけなのだ。
下手すると映画の撮影時間もきっちり決まっていて
朝の9時に撮影所に来て何かを演じたら
17時には家に帰るみたい仕事をする人であるのだ。
非常に淡白と言うか仕事に対してあっさりしていて拍子抜けするくらい。
それなのにあの重厚な演技である。
何も行間には書かれていないはずなのに
その人物がどの様な人物かと言う事を誰よりも雄弁に語らせる。
今回の映画はシーンの時間や空間が交錯しまくるので最初一体何が何だかわけが分からなくなるが
その複雑な状況にある1人の老人を見事に演じきる。
性格に波があって非常に剽軽に戯けたかと思うと
次の瞬間突然猜疑心剥き出しになったりして波が激しい。
ドライな演技法なはずなのにこの結果、この演技。
それが実に素晴らしい。
見所はこの映画の最後のシーン。
アンソニーが自分が誰かさえも此処がどこかも分からないんだと子供の様に泣く。
それがまるで小さい子供が母親からはぐれたかのように泣きじゃくる。
そんな彼を抱きしめて服を着替えて公園にお散歩に行きましょうと誘う介護の女性。
彼女も仕事のうちでその様な対応をしているのだろうけど
まるでマリア様の姿をみている様で崇高に美しい。
素晴らしいシーン。
最後は如何にアンソニー・ホプキンスが素晴らしい名優かと言う事のみが残る。
アカデミー賞本命じゃないかと言うのも頷ける作品。
何故アンソニー・ホプキンスが名優なのかが分かる映画
ここで映画のプロットを語ろうとは思わない。
何故ならそれは皆んながやっているだろうからだ。
故に自分はここで何故アンソニー・ホプキンスが名優なのかを語ろうと思う。
アンソニー・ホプキンスの凄さは彼は徹底的に演技を即物的に行おうとしている。
よくアンソニー・ホプキンスと比較されるのはダスティー・ホフマンなのだけど
彼はアンソニー・ホプキンスと真逆を行くスタイル。
それはつまりどう言うことかを言うと
ダスティー・ホフマンは演者として行間を大切にするタイプなのだ。
例えば彼は煙草を吸うシーンがあるとそこに仮に大人になってから30年の重みを出そうとする。
何故彼がそう言う姿になってしまったのかの行間を表そうとする。
ところがアンソニー・ホプキンスには一切それが無い。
役を演じきる事に彼は人一倍熱心なのに彼は行間で何かを語る事は一切しない。
タバコを吸うシーンがあっても彼はそこに何も描かない。
しかし何故か30年以上煙草を吸っていた重みが不思議に出るのである。
だから彼に「羊たちの沈黙」があまりに凄かったからと言って
ダスティー・ホフマンの様な役作りをしようとしたんですか?と聞くと
「私は役を演じただけであって、自分はレクター教授とは違う人物だ。自分はアンソニ〜ホプキンスだよ。」とそれを言った人物に素っ気なく言うだけなのだ。
下手すると映画の撮影時間もきっちり決まっていて
朝の9時に撮影所に来て何かを演じたら
17時には家に帰るみたい仕事をする人であるのだ。
非常に淡白と言うか仕事に対してあっさりしていて拍子抜けするくらい。
それなのにあの重厚な演技である。
何も行間には書かれていないはずなのに
その人物がどの様な人物かと言う事を誰よりも雄弁に語らせる。
今回の映画はシーンの時間や空間が交錯しまくるので最初一体何が何だかわけが分からなくなるが
その複雑な状況にある1人の老人を見事に演じきる。
性格に波があって非常に剽軽に戯けたかと思うと
次の瞬間突然猜疑心剥き出しになったりして波が激しい。
ドライな演技法なはずなのにこの結果、この演技。
それが実に素晴らしい。
見所はこの映画の最後のシーン。
アンソニー・ホプキンスが自分が誰かさえも
此処がどこかも分からないんだと子供の様に泣く。
それがまるで小さい子供が母親からはぐれたかのように泣きじゃくる。
そんな彼を抱きしめて服を着替えて公園にお散歩に行きましょうと誘う介護の女性。
彼女も仕事のうちでその様な対応をしているのだろうけど
まるでマリア様の姿をみている様で崇高に美しい。
素晴らしいシーン。
最後は如何にアンソニー・ホプキンスが素晴らしい名優かと言う事のみが残る。
アカデミー賞本命じゃないかと言うのも頷ける作品。
ホプキンスを見るだけの価値
ストーリーは
ロンドン。エンジニアだった81歳の父親が、寡夫となり、可愛がっていた末の娘を交通事故で亡くしてから急に老け込んで、認識障害を起こしている。近所には上の娘が夫と共に住んでいるが、仕事が忙しくて父親の世話をすることはできない。しかし父親の日常生活に支障が出てくるようになると仕方なく、娘は父親を自分のアパートに引き取ることになる。父親は、物忘れが激しくなり、怒りっぽくなって、自分が置き忘れた腕時計を探すたびに、娘や息子の夫を泥棒扱いしたり、時も場所も思い違いが多くなり、家政婦に来てもらっても、衝突ばかり繰り返す。夫はたまらず出て行き、離婚することになった。娘は介護に疲れ、手のかかる父親を絞め殺したい衝動も起こるが、家庭思いだった父親との思い出は消しがたい。離婚後、娘は良きパートナーと出会い、ロンドンからパリに移る決意をする。父親はついに老人ホームに入居する。そんな悲しい選択をするまでに4年もかかったのだった。
というストーリー。
認識障害の老人役をアンソニー ホプキンスが演じた。素晴らしい役者。当然ながらアカデミー主演男優賞。映画音楽に、オペラが多用されている。まずマリア カラスが歌う「椿姫」を聴きながらホプキンスが料理をする場面で映画が始まる。次は、アルフレッド クラウスの唄う「真珠とり」のアリアだ。これをバックに、頭が混乱して苦しむ父親の姿が映し出される。繰り返しオペラが使われていていることで品の良い映画に仕上がっている。
最近では、CIVIDで自宅隔離を余儀なくさせられている世界中の人々のために、ホプキンスは、FBとYOUTUBEで、短いヴィデオを発信している。彼のテーマは、いつも「ピアノ」と「ねこ」だ。彼のピアノはプロ並みとよく言われていることだが、ねこを膝に乗せたまま、ノクターンやソナタを弾く彼の姿は、本当に心がなごむ。リラックスにもってこいだ。
映画に目新しいことは何もない。
父親が老人性痴呆状態になって娘が世話をしなければならない。夫より父親を選択した娘は夫に捨てられる。女が年寄りの面倒をみなければならなくなって、どれほどの家庭が壊れなければならないのか?
映画では結論は、娘が老人の認識障害は老人のせいではなく病気なのだという事実を認めて、施設で専門医によって処置されなければならないとして、老人ホームに入れて、パリに旅立っていく。妥当な判断で、それは今の現状で、どこでも誰にでも起きていることなのだ。
老人認識障害の初めは、物忘れから始まる。このごろ人の名前が思い出せなくて、、と中年になると自覚し始めるが、古い記憶より新しい記憶から忘れっぽくなってくる。徐々に悪化して、時と場所が混乱してきて、人の名前だけでなく自分のアイデンテイテイもわからなくなる。時、場所、名前で、混同が起こると、人との会話がとんちんかんになり、笑われたり、怒られたり、周りの態度が変化することで、怒りや逃避や悲嘆にくれるなど、情感にも支障が出る。症状の現れ方は、その人の生きてきたライフパターンによって千差万別だ。
脳に障害が起こるのは脳卒中、脳出血、癌、交通事故などの外傷が原因でも起こるが、アルツハイマー病のように脳神経のレセプターに変化が起きる。認識障害は一つの原因で起こるのではなくこれらすべてアルツハイマー、脳梗塞、躁鬱病、精神分裂病などすべてが併発していると考えた方が良い。家庭で世話しきれなくなった老人は、派遣看護体制で世話し、それができなくなれば施設で世話をする。癌ならば施設に入り完全治癒と退院帰宅もあるが、認識障害の場合は改善することはないので入所したら死亡まで退所することはない。家族は認識障害を病気と理解したうえで、年を取って人が変わってしまった、と嘆かず、ひんぱんに面会するなど、死ぬまでできるだけサポートすることだ。
国は医療と教育には責任がある。幼稚園から大学卒業までに、国が費やす17-18年間分の教育費にたいして、老人は障害がでてから長い人では老人ホームで10年も20年も生きる。自分で何もできなくなった老人の命は国が守ってやらなければならない。老人にかかる費用は若者への教育費や医療費をはるかに上回る。世界が戦わなければならないのは、資源でも、オイルでもミサイルでもない。国の財源を根こそぎ奪い取る「AGE」という人類永遠の敵なのだ。
「AGE」について、多くの人が関心を持つ切っ掛けになるのなら、この映画は良い映画だったと言うことができる。
私が痴呆になった。
参った。最後に父親のアンソニーが、自分はだれ?と本当に何も分からなくなっている様子がよくできている。泣けた!! お母さんを恋しがっているが多分娘と混同しているのかなと思ったけど、痴呆で子供の頃に帰るから母親が恋しくなったと思う。最後のアンソニーの言葉はいいねえ。自分を木に例えて、葉を失って枝も失って雨と風の中を立っている。何も保護してくれるものや人はいない。でも看護婦のキャサリンがその代わりになる。
それ以上に、私が認知症になったような気がして、何が何だか、何が本当何か、頭の中がグルグル回って、混乱した。特にフラットと言ってる部屋がどれもが似ているようであり混乱した。まるで、アンソニーの戸惑っている気持ちを表しているように、私戸惑った。でもキャサリンの最後の説明で私は全てが納得したから認知症ではないなあと思った。
個人的なことだが、父も痴呆になった。その父のいつも話していたことがある。それは、裕福の生活をしていた子供の頃の話ではない。大正生まれの父はボーイソプラノでコンサートホールで歌を歌っていた。この思い出は痴呆になってから全然話さなかった。教員時代の思い出も話さなかった。今でもよく覚えているが、生徒たちが、私のうちに遊びに来ているのを。多分、生徒に慕われた先生だったと思う。でも、痴呆になってからこの話もしなかった。いつも良くした話は戦争のこと。太平洋戦争でビルマに郵便配達兵としていき、マンダレ川を渡った話だ。広くで深くて流れがあり、海のようで、イカダに物資を積んで渡るんだが、戦友がこの流れに巻き込まれ命を失った話をいつもする。痴呆になる以前からこの話をしていたように思うが。戦争で戦友が死んだり、捕虜の話など一切なく、マンダレ川の話で戦友をなくした話。父は教員時代、護憲運動に参加していた。父が護憲と書いてあるバッジを持ってきて、『大事だ!』と言って、私に渡してくれた。
父を思い出す。父の日ありがとう!
P.S.ゴージャスなフランスのフロライン監督の手腕はすごいなっと思った。アンソニーの見解で物事を見せているのには驚いた。舞台のも見てみたい。フロライン監督はアンソニーとオリビアを起用するのが夢だったと。
混乱は枠におさまりきらず映画のうちの全てを撓めてくる
時間やカメラワークに急かされないのに緊迫感は途切れず、思考は終始揺さぶられ組み立て直しを強いられる。銀幕のアンソニーを他所でいくらか知っているがゆえに、さらに効果的に迫ってくる。私たちの知るアンソニーは、眼光鋭く頭脳明晰。見過ごされている真実を、今のこの場から鷲づかみにえぐり出してみせる。確かにそういうアンソニーも一面で健在なのだ。だから彼の見ている世界にすんなり引き込まれる。そして彼と混乱を共有してしまう。なんという配役の妙。
しかしアンソニーの世界は……と囚われていたら、なんと監督は観客の背後をとって技をかけてきてたのだ。アンソニーの世界だけで七転八倒しているところに、輪をかけての混淆へと。あの首を絞めるシーンは? 思い違いの覆しのさらに覆し! 劇中劇のような二重構成で混乱世界を混乱模様に描いて、もはや混乱は枠におさまりきらず映画のうちの全てを撓めてくる。音飛びするCD再生のように劇は乱れ、それが劇が作ってもいる。なんという構成の妙。
アンソニーの世界、そしてそれを傍観していた観客の世界も、すべてが混乱の極みに達したところで、難しいトリックを説明する必要もなくラストを迎える。すべては一個人の病なのだ。これだけスリリングでサスペンスフルな展開をひろげておいて、なんらネタ明かしをしなくてよいなんて、これまたなんという筋立ての妙。
樹の葉が光を享け命を全うする。人もまた然り。記憶の葉、一葉一葉でもって日常を無事に暮らせていることに気づかされる。筋立てとしては徹底的にひっくり返され続けたけれど、ラストはしっくり落ち着けた。
すばらしい作品。さすがのアンソニー・ホプキンス。それとアン役のオリビア・コールマンの醸しだしている味。将来のリメイク版は残念ながらオリジナルを越せないと、彼女でもって既に決まってしまった。
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