ファーザーのレビュー・感想・評価
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下馬評一蹴の受賞も納得のホプキンス
怖い映画だ。作品サイトには「切ないけれどおかしく、いらだたしいのにいとおしい」とか、感動作とか絆とか書いてある。それらの表現が全く当てはまらないとまでは言わないが、この言葉の連なりから連想されるイメージより、遥かに救いがなくて重い話だ。 いわゆるホラーとは怖さの質が違う。大抵のホラー映画の中で起こる恐怖イベントは、現実にはまず起こらないことだ。一方、この映画で認知症が進行するアンソニーの主観で描かれる出来事の数々は、そこそこの確率で私たち誰もに起こりうる内容だ。自分の親や、更に時が経てば自分自身にも。そして、今のところ確実な予防策も、完治するような治療法もない。現実と地続きの恐怖だ。 記憶のジグソーパズルが、見えない手によってばらばらに壊されてゆく。最初俯瞰で見ていた観客も、見取り図なしに提示されるパズルのピースを追ううちいつの間にか、アンソニーと同じフィールドに立たされる。断片的に、これは事実だろうと推測される場面も出てくるが、見ているうちにそれさえ何だか頼りなく思えてくる。 若さと縁遠くなり、親が老境に入ったぐらいの人間の不安感には特に効く話で、とても外国の他人事とは思えない。今後の人生の予告映像を見せられているようで、恐ろしくて仕方なかった。 世界に無数の当事者がいるこの疾病の、患者や家族が晒される心理を伝えることは、難しいと同時に重要なことだ。知っておくべき現実を、ご都合主義的展開無しに丹念に描く様は好感が持てた。怖さばかり先に書いてしまったが、観るべきものを観たという高い満足感を得られる作品だ。 主人公は、アンソニー・ホプキンスと同じファーストネーム、同じ生年月日という設定だ。同年齢の人間が演じるというリアリティに加え、役者としてホプキンスが纏ってきた様々な役のイメージが私の脳内で残り香のように漂って、主人公アンソニーの不安定な精神の変化に説得力を与えているように見えた。 もちろんそれは私の色眼鏡で、ホプキンス自身は以前の仕事など関係なく、この役を全霊で生きている。終盤の彼は特に圧巻だ。 あんな圧倒的な演技をしておいて、アカデミー賞授賞式にはリモートでさえ姿を現さず中継中のコメントもなし。そこはまあコロナ禍でやむなくそうなったのかも知れない。しかし、結果的に下馬評を覆して受賞、ボーズマン待ちだった会場と日本の某有料配信局のスタジオは鳩が豆鉄砲を食らったようになった。それを見て、ホプキンスに失礼だと思う一方、本当の主役が姿を現さないなんてかっこいいななんて思ったりもした。そして、競り合ったボーズマンの熱演が素晴らしかったからこそ、本作の公開が一層待ち遠しかった。 ホプキンスの演技は、そうして高まった期待を上回るものだった。外野の期待するストーリーに忖度せず彼の演技を評価したアカデミー賞に、心中拍手を贈りたい。
施設の介護士に聖母をみた
「葉が一枚づつなくなっていくようだ。」 自分が見えているもの、認識してていることが、どうやら真実はそうではないみたいだ。 正気の時がどんどん少なくなり、妄想と記憶が錯綜する状態が支配する。今にもまったく認知できなくなって消えてしまうかもしれない。 「自分を失う恐怖」が克明に描かれる。 完全に呆けるのでなく、まだかろうじて自分を客観視できるという状態は、恐怖である。 これが長く生きるようになった人間に対する罰なのだとしたら、あまりに酷である。 アンソニー・ホプキンスの演技は演技を超えている。 老人の男の偏屈、虚勢、恐怖、慟哭を、過剰な演技的なもの一切なしに自然なままに演じている。 認知症はそれを支える家族にとっても残酷である。献身的に介護する娘に対する酷い仕打ちには泣きそうになる。旦那がああ言いたくなるのも分かる。 (妄想じゃないよね?この場面。) 最後の施設の介護士の対応に救われる。 目をそらさず、バカにせず、誠実に向き合い、最後は抱擁する。 なんと慈愛に満ちた仕事なのだろうか。
アンソニー・ホプキンス級の名優は変形する。
もうアカデミー主演男優賞も当然でしょうよと納得するしかない、アンソニー・ホプキンスの素晴らしさ。いけ好かなくて、威圧的な年寄りが、恥ずかしげもなく若い娘の前ではしゃいで見せたり、クソな言動を繰り返したり、まあ、自分の父親だったら絶対に見たくなような姿を、延々と娘の前で晒し続ける。なんとイタくて哀しい姿か。そして、それこそが老いであるとでも言わんばかりの容赦ない演出にもう釘付けである。
認知症側の主観から描くというトリッキーな形式も、映画として非常に上手くいっていてとても面白いが、やはりアンソニー・ホプキンスの演技に一番圧倒される。これ、まだ観てない人に言うと怒られそうなんですが、終盤で『千と千尋』の坊みたいになるシーンがあるじゃないですか。顔がまっかになって、身体全体が大きく膨らんだ大きな赤ん坊みたいにあって、まさに坊みたいに見えるんだけど、その後すぐに元のサイズの老人に戻る。
これって目の錯覚かもですけど、ホプキンス級の名優になると身体の大きさまで自在に変えられるのかと思いましたよ。そういえば『沈黙 -サイレンス-』でイッセー尾形が急速に身体しぼんで小さくなるという驚異的な演技をやってたけど、もうイッセー尾形やホプキンスのレベルになると、人智を超えてくるのだなと目を瞠りました。
人の知覚の不確かさ
認知症を患った家族を面倒みる人の話ではあるのだが、本作は認知症にかかった側の視点を重要視している。認知症を題材にした大抵の作品は、介護側の苦労に焦点を当てる。本作にも当然そこは描かれるのだが、それ以上に認知症を患う状態を観客と共有することに主眼を置いている。 人は五感で世界を認識する。個人にとって、個人の感覚が刺激されて得られた情報こそが世界だ。他者にはどう見えているか、どう聞こえているかはわからない。アンソニー・ホプキンス演じる認知症の父は、正しく世界を認知できなくなっている。しかし、本作を観ていて不安になるのは、自分が認知している世界は、他者の認知と本当に同じものかどうかを揺さぶられる点だ。自分の知覚した世界は、自分にしかわからない。多分、他者も同じように見えているだろうという不確かな前提の上にコミュニケーションは成り立っている。 本作は、老いの話ではあるが、それ以上に人間の知覚と記憶という、極めて不確かで個人的なものを洞察する物語だ。人の知覚レベルでは、絶対に正しいことも、絶対に確かなものもない。
老いがもたらす上質なる密室心理劇
面白い、としか言いようがない。老いや記憶をめぐる映画は数多く存在するが、この緻密さ、大胆さにはゾクゾクさせられる。英国映画界の大御所が織りなす本作を私なりに形容するなら、それは老後社会や介護問題を扱った作品という以上に、完璧なまでに彩られた「密室心理サスペンス」。ホプキンス演じる主人公は、文字通りの密室で暮らす一方、彼の記憶の状態も迷路から出られなくなることばかり。介護を経験した人ならば誰もが思い当たるこういった場面を、上質な心理劇へと昇華してみせる筆致に舌を巻く。そして何よりも輝かしいのは主人公のキャラクターだ。自信と威厳たっぷりで、言葉の端々にウィットを散りばめ、時にはそれが相手を見下す態度へ変化していく彼。そんな姿がこれほど嵌るのは、私たちの頭に過去のホプキンスの役柄が無数に刻まれているからに違いない。それを受ける名優たちの柔軟な演技もまた素晴らしい。何度でも噛みしめたくなる傑作だ。
見る前に、ある程度の予備知識があった方が楽しめると思われる「認知症」をテーマにした舞台の映画化作品。
本作は第93回アカデミー賞において、作品賞、主演男優賞、助演女優賞、脚色賞など計6部門にノミネートされ、主演男優賞(アンソニー・ホプキンス)と脚色賞を受賞しています。 本作が特殊なのは、フランスの演劇界で最高賞とされるモリエール賞の作品賞受賞作を、原作者フロリアン・ゼレールが自らメガホンをとり、「映画監督デビュー作」となっています。 そして、題材が「舞台」では映えそうな「認知症」という、これから世界的にも大きな社会問題となっていく、難しい人間模様にスポットを当てています。 本作の凄さは、「認知症」という悲しい課題に対して、主人公の【アンソニー】(アンソニー・ホプキンス)が、それぞれのパートを全力で自然に演じ切っているのです。 そして、脚本は、あくまで【アンソニー】目線なので、「時系列」や「事実関係」がかなり曖昧になっていきます。 そのため、私達は「何が本当に起こっているのか」を冷静に見極める必要性が出てくるのです。 つまり、この映画を「アカデミー賞受賞作」ということだけで見ると、特殊な作りに「アレ?」となってしまう可能性が低くないのです。 そこで、映画を見る際に最低限、押さえておきたいことは、冒頭のオープニングで、まず「アンソニー・ホプキンス」という名前がバーンと出てきます。そして「オリビア・コールマン」。通常の映画のオープニングではメインの2人くらいなのですが、その後にも4人続き、計6人の俳優陣の名前が出ます。 実は、この映画の登場人物は、この6人だけ、と言っても言い過ぎではないのです。(エンドロールでは、少ししか出ない2人も追加され計8人になっています) さらには、主人公の【アンソニー】(アンソニー・ホプキンス)とアンソニーの娘の【アン】(オリビア・コールマン)以外の4人については、1人が複数の役柄を演じたりもしているのです。 そのため、人間模様を正確に見極めるために、この6人を出来るだけ覚えておきましょう。 まず、主演の「アンソニー・ホプキンス」は、本作で「羊たちの沈黙」(1992年)以来、2度目のアカデミー主演男優賞を受賞して、「主演男優賞の最高齢の受賞記録」を「83歳」に塗り替えました。 そして助演女優の「オリビア・コールマン」ですが、「女王陛下のお気に入り」で、ぶっ飛んだ女王陛下を演じて、第91回アカデミー賞で主演女優賞を受賞しています。私はあの役柄で初めて認知したので、本作での素の演技の方が新鮮でした。 他には、男性2人と女性2人が出てきますが、この男女2人は区別がつきやすいと思います。参考までに【ローラ】役の「イモージェン・プーツ」は、最近公開された「ビバリウム」でヒロイン役を演じています。 あとは、最初に訳が出てきますが【アンソニー】がずっと使う「フラット」=「家」という言葉は覚えておきましょう。 これらの最小限の知識があれば混乱が防ぎやすく、感情移入などがしやすくなり本来の作品の深さを味わえると思います。
今年のオスカーウィナーは怪物的で魔力に満ちている
ロンドンで独居生活を送る81歳の主人公、アンソニーに認知症の症状が現れ始める。家の様子が異なって見えたり、娘と他人の区別がつかなくなったり。。。それらは、アンソニーの知覚と視覚を主体として映像にしたものであり、他の映画がよく用いる、年老いた夫や妻、父や母が近頃妙なことを言い始めた、というような他者の目線ではない。そんな状況を客観視した映像、つまり現実の描写も多用されるから、観客はアンソニーと共に混乱を来していく。そこが、この映画の凄いところで、認知症の恐怖が決して他人事ではなくなるのだ。そうして明らかになるのは、自己崩壊を目の当たりにする本人こそが、側で見守る誰よりも切実で孤独だということだ。アンソニーの視覚に合わせて変えられる部屋のインテリアや、娘を演じるオリヴィア・コールマンと瓜二つのオリヴィア・ウィリアムズのキャスティング、そして、世界中で上演された自らの舞台劇を映画に置き換えた監督、フローリアン・ゼレール、ゼレールと共に脚色を担当したクリストファー・ハンプトンの筆力もさることながら、自分と同名の主人公に老いの真実を注入するアンソニー・ホプキンスの、観客諸共絶望の闇に連れ込むような怪演ぶりには圧倒される。今年のオスカーウィナーはそう、名演と言うより怪物的。ハンニバル・レクターは83歳にして依然、魔力に満ち満ちているのだった。
認知の衰えを主観と客観の交錯により描く哀しき傑作
認知症を患った主人公または主要人物を描く映画は珍しくないが、当人の意識の状態をどう表現するかという点において、本作は実に画期的で巧妙だ。「ファーザー」という題が端的に示すように、年老いた父アンソニー(アンソニー・ホプキンス)とその娘アン(オリビア・コールマン)の関係が物語の軸となる。父の認知症による言動を健常者であるアンの視点から客観的に描くならありきたりだが、観始めて早々にそうではないと気づく。アンやその夫や新しい介護人が途中から別人のように見えるし、今と昔を行き来しているようでもある(住居の内装や絵などの変化、アンとパートナーの状態の違いから)。 認知力と記憶力の衰えにより、家族など身近な人の顔も認識できなくなる、今日の日付や曜日といった時間感覚もあいまいになるといった症状は、多くの人が知る悲しい現実だ。フランス語の舞台劇「Le Pere」を書き、その英語版映画化である本作で監督デビューを果たしたフロリアン・ゼレールは、認知症患者の内なる混乱と不安を観客に体験させる狙いで視覚的なギミックを駆使した。健常者が見る夢の中でも、昔過ごした場所に戻っていたり、とっくに成人したわが子がまだ子供のままだったりということはよくあるが、アンソニーはまだらになった記憶で構築される夢と現実を境目なく行き来している状態であり、そんなアンソニーの主観世界と苦悩するアンの客観世界が混然一体となった映像を私たちは目にすることになる。ある種の精神疾患を観客に体感させるという点で、クリストファー・ノーラン監督が前向性健忘の主人公を描くため時間軸に逆行して構成した「メメント」に通じる創意工夫だと称えたい。 アンソニー・ホプキンスとオリビア・コールマンの名演は言うまでもないが、真に迫るがゆえに、老いと死を避けられない哀しみが一層深く胸に突き刺さる。
辛い
記憶の病は、本人も、その周りの人も本当に辛いだろうな。 分からなくなってしまって、ひどい言葉を浴びせられることもある。 ずっと混乱の中にいる。 どうしたらいいのか分からない。 観ている間、ずっと辛かった。 とても良作だけど、本当に辛くて、でもそれが現実なんだろうなと思います。 混乱して、何が何だか分からなくて。 大切な人が見ている世界がこんな世界だったら。 そこから救う術はなくて、毎日状態が変わるその人にどう接していけばいいのか。 どうすれば幸せなのか。 追記: あれから、介護は大切な人との別れに向かっていくための時間だと考えるようになりました。 介護士は利用者の方の手足になることが仕事。家族の介護は距離が近い分どうしてもそういうわけにはいきません。 私は両親の介護をしたいです。 お別れの時間がないのは、耐えられるかわかりません。 だけどやっぱり健康寿命がずっと続けば本人にとっても1番いいし、両親が幸せでいてくれたら、こどもの私は幸せです。
予備軍には相当・・・
恐ろしいですね。摩訶不思議な展開は途中サイコスリラーでも観ているような感覚に陥りましたが、決して単なる空想上のフィクションなんかやおまへん。こんなことって近いうちに身内にも、そして自分自身にもかなりの確率で降りかかる現象なんですよね。 あらすじ読んで重そうやから観るのやめようかと思いましたが勇気出して観てよかったです。私も親や自分に何らかの備えをしておかなって気に改めてさせてくれました。ある意味、教育的啓発映画ですね。
ポスターに騙された
ポスターだけみると娘と父の心温まるハートフルストーリー。出演者も良さそうやし観てみるかと気楽な気持ちで観たのが間違い…とてつもなく重い。
アンソニーホプキンスがアカデミー賞をとったのも納得。これは恐怖やよね。どこからが現実でどこからが妄想なのか判断がつかない。認知症の人が見えている世界って本当に不安だし恐ろしいなと。家族でも限界まできてしまうのだから、赤の他人はもっと理解するのが難しいよね。最後のママと泣き叫ぶシーンはあまりにも切なくて涙してしまった。胸が痛い。将来的に他人事でないところがさらに重い。
これが現実
始めのうち、事実と妄想を見分けようとしましたが、途中からその観点は間違っていることに気づかされます。 正常な人間には、起きていることが相互に矛盾したり時間を逆走したり、夢を見ているように感じますが、認知症の人間にとっては目の前に起きている(と信じている)瞬間瞬間がすべて事実である、という視点で描かれています。 身近に認知症の人がいれば、全く理解できるはずですが、裏返せば認知症に無縁の若い人にはわかりづらいかもしれません。 ホプキンス先輩の神業は勿論、一本の映画として構成も主題も超一流です。
めっちゃ泣いた。意味が分からんけどこれが認知症の世界。
どんどん認知症が進んでいく人の世界を軸に書いている。 (自分の世界では)誰もフォローはしてくれない。 認知症が止まらない。 見ているほうは時系列どうなってんだ?と思うが、これが認知症の人がリアルに体感している世界なのか。 毎日、意味が分からない。 たまっていく不安。 まわりのひとの反応が余計に不安をあおる。 明るく振舞おうと頑張るが、むなしい。 もう、不安が積もり積もって、さらに精神が崩壊してしまいそう、そんな映画。 何度か泣いてしまった。 辛い。親が、自分が、この世界に入ってしまったら、精神は持つのだろうか。 怖い。自分は誰かに頼ってもいいのだろうか。 すごい映画だと思う、でももう1回見る勇気はない。怖い。
誰にでも訪れる老後
認知症を患った老人の視点で物語が進行する。
老人の脳内では過去も現在も場所も全てがぐちゃぐちゃに再構築されている。
最後のシーンのみが老人がたった今身を置いている現実であるのだが…
救いがない。
我々若者からみた認知症の老人は、何度も物忘れをかまし、ボケて、ふざけているかの様に見えるかもしれない。しかし、それは物忘れのように単純な問題ではなく、自分の存在すら揺るがす様な過去の記憶の崩壊が起こっている。
自分の名前さえわからなくなり、不安を吐露し涙を流すアンソニー。
「葉が落ちていく様だ」
葉が落ち、枝が落ち、豊かさを失い、幹のような肉体しか残らない。
その寂しさと不安はどれほどのものだろう。
アンソニー・ホプキンスのすばらしい演技は、演技と感じさせないリアリティがあったし、やはりよく知った顔の、怒らせたらヤバい人(過去作の劇中イメージ)がセーターを一人で着れないような弱々しい老人になっていることに、劇中とは分かっていても寂しさを覚えた。
高知能偏屈老人が似合うくせに、子供のように直情的に泣く姿には胸が打たれて私も泣いてしまった。
本作は映画でなければ出来ない表現、言い換えるなら映画に出来るフル表現方法を活用して撮られているのだな、と。小説や漫画では決して同じ気持ちにはならなかった。
素晴らしい映画だった。
この一言に尽きる。
認知症なりかけの高齢者を立派な認知症に追い詰めるまでのクソ映画
高齢者が不安に苛まれだんだんと狂っていくまでの過程を描いた映画。アルツハイマー型と脳血管性の混合型だろうか。救いがない上に周囲の人間が認知症に対する理解がなく恐らく薬もあっていない。認知症患者に憶えてないの?を連発し、嫌そうな顔をするヘルパーと娘。娘には確かに愛はある。が、自分も歳だからか勉強不足であり全く成果が出ていない。そして内容も介護というよりかは見守り。そもそも記憶力の悪化と認知症は別の問題だ。記憶力が悪くなるだけであれば日常生活を送る上でそう問題はない。最後は娘の手によって施設送り。なお実際の老人ホームは特養だろうと高級どころだろうとこの映画のように綺麗でも広くもないので注意。2人の認知症患者を介護していた自分としては胸糞悪い映画
認知証の介護は大変です(経験者は語る)
2021.6.2
結局、緊急事態宣言中の五月は映画を1本も見なかった。昨年もそうだったが、映画を観るのも習慣性があるから、しばらく観ない日が続くと映画を観に行く気力が中々起きない。ましてや、東京の映画館は休業要請でやっていないから、川を超えて他県まで遠征するのはさらにハードルが高い。
緊急事態宣言は延長されたが、映画館の休業要請が緩和されて、今日、キノシネマ立川高島屋S.C.でやっと「ファーザー」を観た。
凄い。映像だからああいった編集が出来るが、舞台では一体どう表現しているのだろう?監督は原作舞台の演出家で、映画初監督作品。
クレジットされているキャストは8人、ほぼ6人で話は進む(ここいらが舞台劇だな)。
私の93歳の母は認知症なので、映画の中には認知症あるあるが一杯ある。
オリビア・コールマンは、「女王陛下のお気に入り」で女王陛下を演じてアカデミー賞主演女優賞を受賞。嫌味な女王が、受賞式の時にとてもチャーミングな女性で登場してビックリした。今度の娘役は更に良い!アンソニー・ホプキンスは絶品だった。もう一度、観るか。
カメラは、ずっとアンソニーの視点では無い(それではホプキンス映らなくなるよ)。
アンソニーと映画を観ている観客を巻き込んでの作劇で、フラット内の微妙な違いを見落としているかも知れないから、もう一度観ようかと。少なくとも「テネット」よりも、もう一度観る価値はあると思う。
◎「ファーザー」2回目鑑賞 2021.7.1キノシネマ立川高島屋S.C.
最初にアンを窓越しに見送る所で、もうアンソニーの部屋が違う(カーテンも家具も違う)。台所のタイルの模様が変わる。台所に置いてあった(アンソニーがスイッチを入れる)ラジオはラストの施設のアンソニーの部屋の窓際に置いてある。妹の書いた絵の横に置いてあるものも変わる。いつも料理がチキンなのはアンソニーが好きだからだろう。
以下、認知症介護経験者は語る(長文につき、認知症に興味が無い方はスルーして下さい)。
「ファーザー」と認知証の理解の参考に。映画のネタバレを含みます。
12月で94歳になる私の母は、認知症である。3年前から介護施設に入っている。約10年前に発症した頃は認知証だと言うことが判らなかった。物忘れ以外は普通だったから。
最初に気が付いたのは自分で決めた父の退院の日を全く覚えていなかった事。病院に行ったら明日退院だと言うので焦った!1度目の脳梗塞は軽く、父は右脚を軽く引きずる位の後遺症だったため、頭はハッキリしていたので「退院の日を決めたのはお前じゃないか」と怒っていた。(アンソニーも時計の場所等、色々な事を忘れまくり)
次は料理が出来なくなった事。脳梗塞で入院して退院して来た父に買い物に行くと千代田寿司やトンカツ弁当や唐揚弁当等を買って来るようになり、料理をしなくなった(出来なくなっていた。週3日、実家へ通って介護をしていたので、気付くのが遅かった)。父は油っこい物が好きなので食べていたが、野菜等が少なく再度脳梗塞を発症する事になる。
父は3度目の脳梗塞で車椅子生活になって施設に入り、母は一人暮らしになり益々認知症が進む。出来ていた事が出来なくなる(映画でもアンソニーがかぶりのセーターを着られなくなるシーン有り、アンが着せてあげる)。
料理を手伝うと言う母に妻が簡単に出来るとキュウリの塩もみを頼んだら、母は大量の塩を入れてしまって食べられなかった。
母は、隣の駐車場料金徴収を代行し毎月十数万円を駐車場のオーナーの口座に銀行から振込んでいたが、1年以上振込みをせず(銀行には振込みに行っていたが振込みをせず(出来ず)帰って来ていたようだ)150万円超が未振込で、父の葬儀に来た隣地の地主に指摘され私が立替えて振込んだ。母は「1万や2万の金じゃないんだから、忘れる訳ないだろ」(本人は振込んだつもり)と言っていたが、タンスから封筒に入った万札が続々と発見され、私が立替えた150万円は回収する事が出来た。
私の実家は1階が駐車場で階段を上がった所に玄関があるが、母の頭の中ではいつからか裏にも階段がある事になっていて、「お前はあっちの階段から上がったのかい?」「は?」「あっちにも階段があるだろ」(そんなものは無いんだな、これが)「何処に階段があるの?」「こっちにあるだろ。あれ、無いね」翌日には、また、あっちに階段がある事になっている。
映画では、アンソニーが窓から外の様子を伺うシーンがあるが、母は家の前に立ち道行く人(特に子供)を見ていた。見ているだけなら良いのだが、そのうち歩き出して徘徊してしまう事がある。家の前から右に曲がり、4回右に曲がれば家の前に戻って来るが、何処かで右に曲がらず(後を付けた事があるので判った)真直ぐ進んで700m程先まで行って迷子になった事もある。いつも同じ場所で迷子になる訳ではないので、徘徊した時に探して連れ戻すのが大変である。
母は買い物に行く時に財布に万札を入れて行く。千何百何十何円が小銭で払えないので万札を出してお釣りを貰うのだ(そう言えば、この間TVで最近の子供はキャッシュレスで「お釣り」を知らないと言う事をやっていた)。千円札、一万円札を出しては小銭でお釣りをもらうので、財布が小銭でいっぱいになる。(認知症あるある)
映画でもアンソニーの食事が鳥料理ばかりだったが、認知症になると同じ物を毎日買う。昨日買った事を忘れて今日もまた買う。そして明日も。(認知症あるある)冷蔵庫にロースハムとらっきょうが17袋入っていた事があった。
そのうちに財布を持たず(忘れて)に買い物に行くようになった。買い物をして会計する際に財布が無い事に気付く。金を取って来るからと取り置きを頼んで家に帰って来るが、取り置きを頼んだ事を忘れてしまう。「先程のお取り置きはどうしますか?」と言う電話が店から掛かってきて、こっちが焦る。
買い物に行って帰ってこないから、迎えに行くと路上で会った時に「お前、お金持ってないかい?」と聞かれた。「何を買うの?」「何だっけ?」どこかの店で財布を持っていなくて取り置きを頼んだようだが、何処で何を買ったのかさえ覚えていないのでは対応のしようが無い。
近所のスーパーマーケットのサミットへ財布を持たずに買い物に行き、会計で財布を探しまくり、警察を呼ばれてパトカーで送られて帰って来たことがある。家に着くなり「オシッコ」とトイレに駆込み、警官が帰ってトイレから出てきて「何処からパトカーに乗って来たの?」に「パトカー!?私はパトカーなんて乗らないよ」数分前なのに覚えていなかった。
結局、夜(に限らない)の徘徊等がひどくなり、(3分と目を離すとどこかへ行ってしまうので)介護施設に入ってもらう事になる。
母が介護施設に入ってから面会に行くと「あら、あんた来たの?」私はいつからか「あんた」である。もう久しく名前で呼ばれていない。私の母は、今も元気だが認知症である。
アイデンティティの崩壊
アンソニー・ホプキンスの演技がただただ凄いので、見る価値ありです。 ただメンタルやられました。 認知症のアンソニーからみた世界では、 ちぐはぐで噛み合わないことばかり起こるわけのわからない状況が続きます。ホラーです。 釘付けになる作品ですが、救いがないようにも思えて、しばらく辛い気持ちを引きずりました。 しかし、マーク・ゲイティスのあのミステリアスな感じ、唯一無二だなあ…笑
言葉が思い浮かばない
認知症の頑固な父とそれに悩まされる娘のストーリーだと思い見始めるが、実際は認知症側の目線で製作されたストーリー
日時の整理がついていない点、思い込みが激しい点、細かな所だけ過剰に気にしてしまう点、認知症の大変さをリアルに感じた。
またアンソニーホプキンスの圧倒的演技力にも魅了された。細部まで拘って役作りされているんだなぁとつくづく、、
1番心に残ったシーン
→個人的には最後の子供の頃の気持ちに戻ってしまいつつも今置かれいる自分の状況を理解しながら涙してしまうシーンはかなり引き込まれてしまった。
舞台みたい
出演者が少なく、ほぼ室内のせいか舞台演技を観ているような感覚に。
娘と会話していたかと思うと突然男性が椅子にいてびっり。(ホラーかと思った)
パリに引っ越すのよ、と言っていた娘が言う。
「何言ってるのよ、パパ。私達ずっとロンドンよ」
自分のフラットと思っていたのに、そこは娘達のフラットだった。
実の娘の死についても覚えていない。
などなど。
老いるってこういうことなのか、と深く考えさせられた。
娘婿がいつまでイライラさせるんだ?と、体罰を受ける妄想。
もう何が何だかわけがわからない。
誰が本物なのか。
誰の言葉を信じていいのか。
しかし、悲しいかな腕時計が気になって仕方がない父の言葉は全て信じてはいけなかったのである。
本当に悲しい。
時に嫌味を言ったり、冗談を言ったり、怯えた表情をしたり。
アンソニーのもはや演技に見えない名演技。
個性派女優アンの表情も素晴らしかった。
派手な演出ないのに引き込まれ、あっという間の100分だった。
映画と言う表現方式をこれほど理解している監督はそういない。
これはホラーでありSFであり、何よりも映画そのものである。🎦惑星ソラリスを想起し、🎦エクソシストよりも恐ろしく、🎦羊たちの沈黙を見た後の戦慄と🎦こわれゆく女のような理不尽と不条理に包まれた傑作。
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