「無力感に気が遠くなる」ホロコーストの罪人 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
無力感に気が遠くなる
観ていて辛い作品である。第二次大戦時のユダヤ人の受難を扱った作品は何本も観たが、本作品はどういう訳か、登場人物の誰にも感情移入できなかった。
ユダヤ人家族の描き方に問題があると思う。描かれたブラウデ家は家族第一主義であり、ユダヤ主義である。家族を大事にしているかという説教があり、食事の前の長ったらしい祈りの儀式を後生大事に守ろうとする。愛情よりも形式なのだ。これではこの家族に好意を持つ人はいないだろう。
しかしユダヤ人でない嫁を受け入れた点を考えても、実際のブラウデ夫妻は映画が表現するようなスクエアな人格ではないと思う。製作者の意図は不明だが、少なくともユダヤ人に対して好意的な描き方ではない。ブラウデ家の人々に感情移入できなかった理由の多くはそこにある。もしかしたらノルウェー人にはいまでもユダヤ人に対する差別意識が残っているのではないか。
何をもってユダヤ人とするのか、いくつか議論があるようだが、少なくとも日本人や中国人がユダヤ教を信じて儀式を完全に行なったとしても、ユダヤ人とは呼ばれにくい気がする。ヒトラーがユダヤ人と呼んだ定義は不明だが、アジア人や黒人は見た目だけでユダヤ人ではないと判断されただろう。白人でも、日頃からヘブライ語を話しているならともかく、ノルウェーに住んでノルウェー語を話す人間をユダヤ人と判断できるのはどうしてなのか。
このあたりが日本人にはなかなか理解し難いところである。在日の朝鮮人や中国人がいても、日本語を流暢に操れば日本人と区別がつかないし、戦後の日本人には朝鮮人や中国人を差別する意識は殆どないだろう。無宗教の日本人には食事前に祈るような厄介な風習もないから、差別にも繋がりにくい。そもそも隣人や同僚を中国人や朝鮮人ではないかと疑ったりすることがない。在日三世の人たちは日本語しか話せない人も多い。
ところが戦前の国家主義や国粋主義を引きずっている精神性の人間の中には、石原慎太郎のように「三国人」といった発言をする者もいる。2000年4月のことだ。ニュースでその発言を聞いたときは腰を抜かしそうになった。ヒトラーが「ユダヤ人」と言ったのと同じだからである。ドイツで同様の発言を政治家がしたら、政治生命を失うどころか、逮捕すらされかねない。石原は戦後55年を経ても尚、民主主義に首肯しなかった政治家である。不寛容さにかけてはタリバンにも引けを取らない。
にもかかわらず石原はその後の都知事選で3回も圧勝している。当方はこの結果を見て、東京都の有権者に絶望してしまった。ヒトラーと同じ精神性の政治家に都知事を4期も務めさせたのだ。このことの恐ろしさに気づいている有権者もそれなりにいるかも知れないが、圧倒的多数は気づいていない。同じ精神性の小池百合子が何度も都知事選で圧勝するのがその証拠だ。そして同じような精神性の政治家はたくさんいる。つまりそういう政治家を当選させる有権者が膨大に存在するということだ。無力感に気が遠くなる。
チャールズを演じた俳優がマット・デイモンみたいでなかなかいい。ブラウデ家がまともな描き方をされていたら、この人に感情移入して、本作品を観るのにもう少し気持ちがこもったと思う。
ただ、連行されて強制労働させられ、裸にされてガス室に送られるのがユダヤ人だけではなく、そのうち日本人もそういう運命になるのではないかという悪い予感はした。パラリンピックの学徒動員を見て、その日はそう遠くないのではないかと思った。