「奇抜なシチュエーションで描かれる社会の縮図」プラットフォーム 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
奇抜なシチュエーションで描かれる社会の縮図
巨大な構造物の中に閉じ込められ、他人の食べ残しを食べて生きる事を余儀なくされるシチュエーション・スリラー。
主人公ゴレンが目覚めると、そこは“第48層”という中央に長方形の“穴”が開いたコンクリート製の無機質な部屋。同室に居るのは、トリマガシと名乗る施設の構造に詳しい老人の2人きり。部屋は上から下まで何層にも続いており、食事は上の階層からやって来るプラットフォームという台座に乗った、上の階層の人々の食べ残しのみ。
この極限の状況下で生活する中で、ゴレンは次第にこの世界の仕組みに順応していく。
シチュエーション・スリラーと言えば、『CUBE』を連想する人は多いだろう。だが本作は、理不尽さや不条理さはそのままに、より風刺的に人間社会の持つ病理を可視化して見せてくる。
❶可視化された世界の構造
この巨大な構造物は、元職員であるイモギリによると垂直自主管理センター(VSC)と呼ばれているらしい。建物が地上にあるのか地下にあるのかは分からないし、最下層(あの暗闇)は果たして第何層だったのか、食事を運んでくるプラットフォームの浮遊する原理など、様々な事が謎のままだ。
だが、シチュエーション・スリラー作品において、こういった荒唐無稽な構造物の理屈は重要ではない。
大事なのは、これは正に、我々の生きる世界の縮図だという事だ。この世に生を受けた瞬間、何処のどういった家庭に産まれ落ちたかによって、どの“階層”に居るかが決まる。最初から上層に居る者、下層に居る者。そこから上がる者もいるし、下がる者、あるいは更に勢いよく転落する者もいる。それは、冒頭の「3種類の人間がいる。上にいる者、下にいる者、転落する者」という台詞にも象徴されている。
プラットフォームに乗せられた豪華な食事の数々は、それ自体が飢えを凌ぐ為の栄養であると同時に、様々な利権の象徴にも思える。だからこそ、上の層の者達ほど最初に手を付けて自由に貪り食らう事が出来るのだ。
この食事の数々が、例え食べ残しですら「美味しそう」に見えるのが素晴らしい。観ていて無性に空腹感を覚えるのだ。そして思ってしまう「寄越せ」と。
この世界に翻弄され、順応し、洗脳されゆく登場人物達。そんな彼らの誰もが、我々の持つ様々な要素の代弁者なのだ。
❷ゴレン
ゴレンは、この過酷な世界に“認定証”を求めて自らやって来た。その認定証が外の世界でどれほどの効力を持つものかは分からないが、少なくともゴレンは、脱出後の世界でそれによって優位な生活を送れるようになる事を夢見て、欲を持ってやって来た。しかし、これ程までに過酷な環境で生活する事は知らされておらず、全てが彼の想定外であった。
規定により持ち込む事を許された唯一の私物は『ドン・キホーテ』の本。また、最初は世界の構造に疑問を持ち、上の層の者達に「食べ物を残してくれるよう」語り掛ける世間知らずさと、「皆が必要な分だけ食べれば、皆に食事が行き渡る」という公平さや優しさも持ち合わせている。
ゴレンが他の収監者達と違うのは、彼だけが唯一“本”を持ち込んだ事だ。本とは即ち“知性や理性”の象徴に他ならない。これまでの収監者が持ち込んだナイフや銃といった“暴力”の象徴とは正反対の物だ。
次第にこの世界のシステムに順応し、一度は仲間であったトリマガシに復讐を果たし、彼の肉を食らって生き延びる。しかし、構造物の真相に触れ、絶望して自殺してしまったイモギリや、神を信じ地獄からの脱出を試みるバハラトとの出会いによって、再びこの世界のシステムへの反逆を決意する。
ゴレンとバハラトは、途中で出会ったバハラトの師である賢者に「料理を作る“第0層”の人間達に、手付かずの料理を一つ送り返して伝言を伝えろ」と提案される。次第に凶暴化していく下層の収監者達と命懸けの戦いを繰り広げながら、送り返す料理のパンナコッタを死守する。
しかし、“第333層”に居た幼い少女を救う為、彼らはこれまで命懸けで守り抜いて来たパンナコッタを与えてしまう。だが、彼らの表情はまるで彼らこそが救われたかのような笑顔だった。
翌日、戦いの傷によりバハラトは失血死してしまう。残されたゴレンと少女は、最下層を目指して更に下へと下って行く。やがて、無限に広がる闇の中で、ようやくプラットフォームは停止する。トリマガシの幻影に促され、ゴレンは少女だけをプラットフォームに残し、伝言として上へ運ばれていく様を眺めて姿を消す(恐らく死)。
彼の行いは、特別な者だけが行える救世主的なものだろうか?いや、彼も一度は世界のシステムに順応した。生き残る為にトリマガシの遺体の肉を食べ、下層の者達へ言う事を聞かせる為に暴力だって用いた。ゴレンという主人公は我々観客と同じ普通の人間のはずだ。
だからこそ、我々にだって皆に平等に食事が行き渡るように戦う事も、幼い少女に食事を与える優しさを示す事も出来るはずだ。
また、ゴレンは自分を生き残らせる為に(あくまで自身が作り出した幻影が語る利己的な解釈)飛び降りではなく、首吊りを選択したイモギリの肉を食う事は最後までせず、自らが持ち込んだ本のページを破いて食してまで、欲望に理性で抗ってみせた。欲望を理性で制し、再び人間性を取り戻した瞬間だろう。
我々はどうだろうか?欲望を理性でどこまで抑えて、人間性を捨てずにいられるだろうか。
❸トリマガシ
この世界で1年近くも生活しているベテランの収監者。上層の生活も下層の生活も経験している彼は、時に人を食わねば生き残れない過酷な現実も理解している。システムに順応し、必要に応じた行動を取る姿は、我々と最も近い存在と言えるかもしれない。
彼は、下の層へと下っていく食事に唾を吐きかける。「何故、そんな事をする?」と問いかけるゴレンに「上の層の者達もしているはずだ」として、さも当然の事であるかのように非道な行いをする。しかし、実際に上の層の者達が食事に唾を吐きかけているかは示されていない。彼のやっている事は、あくまで「されているだろう」という被害妄想からくる仮想敵への復讐に過ぎないのだ。
彼は最初、第48層でゴレンと出会って食事した際、運良くワインが残っていたのを「禁酒主義者が多くて助かった」と考える。「もし上層の人々が残してくれていたのだとしたら?」とは考えもしない。
自分の中で膨れ上がった“見えない敵への悪意”を、彼は振り撒いている。それはまるで、現代のネット社会を見ているかのようだ。「誰が敵なのか?」「何の為の復讐か?」目的を見失い(そもそも、最初から見えていない)ながらも、「そうしなければ生きられない」という姿を彷彿とさせる。
❹ミハル
数日が経過し、次第にシステムに順応し始めたゴレンの前に、ミハルという“息子を探して”プラットフォームで下層へ下る女性が現れる。ゴレンは、作中唯一彼女の身を案じて、彼女に手を差し伸べる。
しかし、イモギリは「規定により16歳以下の人間は収監されない事」、「彼女に息子など居ない事」、「外の世界で女優を目指していたから演技している事」から、殺人目的の異常者だと切り捨てる。
果たして、彼女は本当に単なる異常者だったのだろうか?私には、彼女こそが、この構造物が示す世界のシステムの被害者の象徴に思えた。彼女が持ち込んだ物はウクレレ。楽器は音楽を奏でる為に存在するのであって、武器=暴力を持ち込んだ事にはならない。
彼女は度々、他の収監者の男性達に暴行を加えられそうになり、それらを返り討ちにしている。実は、彼女は自分に手を差し伸べてくれたゴレンを救う際以外には、一度も自ら進んで暴力を振るいに行った事はない(イモギリの持ち込んだラムセス2世を食べようとした事を除いて)。恐らく、他の収監者達の方が先に彼女を慰み者にしようと、欲望という悪意をぶつけたのだ。そう考えると、彼女の“息子を探す”という偽の目的にも意味が生じてくる。彼女は女優を目指していた。だから、「そういうキャラクター」を演じる事によって精神を保っていたのだろう。
収監者を食べる事を厭わないのも、あの世界のシステムに人間性を破壊されてしまったから。そう考えると、彼女を悪く思う事が出来ない。
❺イモギリ
かつてVSCの職員として多くの人々を送り込んできた。ゴレンの面接を行ったのも彼女である。しかし、職員である彼女ですら、最下層がどれ程の深層にあるのかを正しく聞かされておらず、「最下層は200層」「食事は個人個人が適切な量だけ摂取すれば足りる」という情報を信じ、末期癌で死ぬ前にシステムを改善しようとやって来た。
しかし、実際には“第202層”に送られた事で、想像を遥かに超えた地獄があると知り、またシステムの改善も不可能だと絶望して自殺してしまう。
この、「下には下がある」という絶望に、私は堪らなく共感出来てしまう。「今が人生のドン底。後は上がるだけ」と自分に言い聞かせながら日々を過ごしつつも、その先に更なる“下”がある事を知り、ある日その位置に立ってしまう。そんな終わりの見えない事に対する絶望感は、首を括ってしまうのも無理は無いと思えてしまうのだ。
それでも、ゴレンの見た幻影が語った彼女の言葉を信じるなら、彼女が飛び降りではなく首吊りを選択したのは、自分の肉を食べさせてゴレンを生き延びさせる為。聖書の引用も飛び出すあのシーンは、彼女が最後まで利己的ではなく利他的な思考の持ち主だった事を示している。だからこそ、ゴレンは彼女の肉を食らう事を拒んだのだろう。
❻世界を救うには
この世界のシステムを変える上で、“管理者”に訴えても無駄だと言う。賢者曰く「良心を持っていない」から。
この管理者とは神の隠喩なのだろうか?度々示される「神を信じるか?」という問いや、他の入居者の地肉を食べる事を、聖書のイエスの肉体をパンと葡萄酒に例えた事に準えて引用する様がそう思わせる。
しかし、我々がいくら神に祈ろうと、神は答えてはくれない。この“格差”は人間が生み出したものに他ならないのだから、それを解決するのは神ではなく人間達自身であるべきなのだ。
ゴレンは少女を救う為に伝言であるパンナコッタを差し出した。それは、紛れもなく利他的な行為。今まで自分も「生き残る為に」と行ってきた利己的な行為とは正反対の行いだ。ゴレンは知性と理性を持って誰かの為に行動する優しさを示した。
ラスト、ゴレンはトリマガシの幻影が言う「きっと伝わるさ」という言葉を受けて、彼と共に姿を消す。それは、役割を終えて次世代に未来を託す行為だろう。あるいは、あの少女そのものが「未来」の象徴だったのかもしれない。彼はそんな未来に「優しさ」という「希望」を託した。それこそが唯一、暗く先の見えない未来を照らす光なのかもしれない。
この「きっと伝わるさ」という台詞は、同時に監督からの我々観客へのメッセージでもあるだろう。我々は、目の前にある食事を「当然の権利」として貪り食らうか、未来の為に腹を空かせた誰かに差し出せるか?
監督が作品に託した思いを、私はちゃんと受け取る事が出来ただろうか?そう考えながら、エンドロールを見つめていた。