「スジナシのようだが実は緻密なストーリー」夏時間 しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
スジナシのようだが実は緻密なストーリー
廊下の突き当たりに少女が立っている。
手前のドアが開き、父親が顔を見せる。
父親は娘に声をかけ、出かけるよう促す。
少女は部屋の明かりを消し、画面が暗くなる。
冒頭、なぜ、このシーンを長々と見せるのか?
それは時間の経過とともに明らかになる。
冒頭のシーンが描いていたのは、彼女たち一家の、いままでの暮らしとの別れだ。ここには、本作が描く父親の実家での暮らしとの線引きを明確にする意味があったのだ。
季節は夏。父と弟と主人公である17歳の少女オグジュの3人家族は、父の実家で暮らすことになる。
父の実家には、年老いた祖父(父の実父)が1人暮らしていた。やがて、そこに父の妹も加わる。家にも“家族”にも慣れない、ぎこちない暮らしが始まる。
本作は、この父の実家を舞台にした家族のドラマ。ゆえに、この映画では、家全体を捉えるショットが頻繁に登場する。
やがて明らかになってくる背景。
父親は離婚したということ。
父親は定職には就いておらず、とりあえずニセモノのスニーカーを道端で売っている。だが、それだけでは暮らしていけないことは、彼が、何かの資格試験を受けようとしていることからも分かる。
そして叔母は夫との離婚を望み、家を出てきていた。
だから、その家に集まっている人たちは、皆どこか、傷を負っている。祖父は夏の暑さにやられ、息子たちに助けられながら病院に通っている。
祖父は無口だ。彼を筆頭に、誰もわざわざ声高に語ることはないが、お互いが少しずつ優しさを分かち合っている。祖父の誕生日のシーンは感動的である。
邦題の通り、これはひと夏の物語。
子どもたちは夏休みだが、ここには海も山も遊園地も登場しない。
映画の中の時間は、淡々と、大きな起伏もなく流れているように見える。
だが、生きながらの別れ(離婚)と死別の匂いが少しずつ差し込まれる。
叔母の夫婦間のトラブル。母親と会うことを巡るオグジュと弟の喧嘩。
そして、祖父にはひたひたと老いによる身体の衰えが忍び寄る。
そしてラスト、ついにこの2つが交差する。
祖父が亡くなり、その葬式にオグジュたち姉弟の母親が現れるのだ。
祖父の死も、母との再会も唐突だ。
この2つが重なり、堰を切ったように溢れるオグジュの涙で本作はクライマックスを迎える。
ああ、こういう映画だったのか!
本作は、淡々と、家族との日常を描いているようでいて、このラストに向けて一つひとつシーンを積み上げてきたのである。巧緻な脚本に唸る。
頻繁に描かれる食べる、寝る、そうした日常の所作の繰り返しの中に、突然、差し挟まれる別れ。
だが、おそらく日常とは「こういうもの」だろう。僕たちの生活を揺さぶるような別れは、いつも突然やってくるし、そして、そんな大事件があっても、僕たちは食べて、寝る。
そう、本作は、いろいろ起こる事件も、ことさら大袈裟に捉えるでもなく、日常の中の出来事として描く。ゆえに、その眼差しには地に足が着いた“確かさ”があるし、暖かく、優しい。
ラストの食事のシーンで激しく泣き出すオグジュ、そして泣き疲れて彼女は寝てしまう。
親は離婚し、父親は無職、祖父は亡くなり、恋人ともうまくいかないし、おまけに一重まぶたも気に入らない。オグジュを巡る状況は、冷静に考えると、なかなか過酷だ。
でも、眠る彼女を捉えるカメラは優しい。彼女に対して「大丈夫だよ」と声をかけているかのような優しい目線に救われる。
この優しさにひたれるのなら、素敵な映画と思えるはずである。