戦火のランナーのレビュー・感想・評価
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『逃げるための手段』であったもの
映画ではあまり取り上げられていないですが、渡米時に走りを誉められたグオル選手の心境。すごく複雑だったんじゃないでしょうか。
我々平和な国に住む人間にとって、走るという行動は『時間に間に合うように急ぐ』あるいは『誰かと(タイム等を)競う』等の状況が多いかと思われます。
ただしグオル選手の場合は文字通り『自分の命を守るために逃げる』という目的のために、速く走らざるを得ない状況にありました。
渡米時は英語もままならない状態だったとのことですので、なおさら文化の違いにショックを受けられたことも多かったのではと推測します。
死地からの脱出を促してくれた両親の存在。
自分のことを理解してくれるチームメイトの存在。
才能を見出してくれたコーチの存在。
彼らがいなければ、走ることをポジティブに捉えている今のグオル選手はいないような気がするのです。
【考えて欲しいこと】
アフリカは、当初、ヨーロッパ主要国やアメリカが、奴隷貿易から始まり、象牙、金などを搾取する対象だった。
それが、19世紀半ば、ヨーロッパ各国が民族や宗教、そして部族の分布などを全く無視するかたちで植民地化を実施する。
これが、今でも続く内戦の大きな要因になっている。
1960年、シャルル・ド・ゴールのフランスがアフリカの13カ国の植民地の独立を認め、他にも数カ国が植民地支配から脱却し、この年はアフリカの年と呼ばれ、希望さえ感じられるが、植民地化された際の線引きが国境であり続けたため、実は潜在的な内戦の火種が残ったままになった。
そして、そこにソ連社会主義が加わり、内戦を複雑化させることになる。
アフリカの内戦は、大きく三つに分類される。
このスーダンのような宗教対立、
ルワンダであったフツ族・ツチ族のような部族対立(ただし、大量虐殺されたのはツチ族)、
アンゴラのような代理紛争だ。
そこに、現在は、昔は鉱物が中心だったところに、油田が各地で発見され、その利権をめぐる争いが事態を複雑化させ、宗教の原理主義思想は事態を悪化させるばかりだ。
映画にもあるように、油田が発見されると、人はそれを外国に売って豊かになり、手間のかかる農業を放棄する傾向が強くなる。
資源を売却して得られた金で食べ物を買えば、それで十分だと考えるからだ。
しかし、富は再分配されず、一部の支配層に集中し、格差は絶望的なほどに固定化されるのだ。
中には相対的に肥沃な大地に国があるため、農業国として自立してやっていけるであろう国もあるし、ルワンダは内戦が落ち着いてから、フランスや日本も農業支援に入り、元々コーヒーノキ栽培に適した場所であったのだが、最高品質で高価だがヨーロッパや日本でも人気のあるコーヒー豆の産地になっている。
もし、環境問題で石油の需要が著しく落ち込んで、産油国に富があまり流れ込まなくなっても、こうした国はやっていけるのだと思う。
(※ 話は逸れるが、ルワンダでコーヒー農業支援を行なっているフランス人が、今、先進国では、とにかく健康志向で無農薬が良いと考える風潮が強まっているけれど、健康には害はなく、もちろん土壌などへの環境汚染もなく、持続可能で、かつ、働き手の負担を大きく軽減する農薬の利用方法やレベルがあって、それを見つけ指導するのも農業支援であり、特定の価値観を一方的に押し付けるのは控えて欲しいと話しているのを聞いたことがある。僕もその通りだと思う。そして、間違いなく、ルワンダのコーヒーは美味しい。)
しかし、グオルが帰国した独立後の南スーダンの風景を見ると、土地は荒れて、手入れなどされているようには見えない。
何十年も続いた内戦で、土地は荒れ果てて、残された人だけでは回復できないくらいまで事態は悪化しているのだ。
日本でもそうだが、一旦放棄された耕作地を元に戻すのは非常に労力も時間もお金もかかるのだ。
そして、主導権を巡る争い。
南スーダンは依然として最貧国のままだ。
以下のURLが示す通り、国連はこの国のために寄付を募り続けている。
興味のある方は、ご覧ください。
(映画.comのレビューにはURLの貼り付けが出来ないので。南スーダン 国連 寄付 で検索してみてください)
この物語は、胸を打つ。
しかし、解決策を示すことは出来ていない。
グオルが仮に東京オリンピックに出場出来てもだ。
この作品の直前に観たデニス・ホーとは異なるアイデンティティが、グオルにはある。
本当の闘いは(武器を手にした争いがという意味ではありません)、グオルが走るのをいつの日か止めて、祖国が少しでも豊かになり、更に、民主的で争いのない国になるように具体的に活動し始めた時からなのではないかと思う。
グオルはアメリカの大学を優秀な成績で卒業したが、祖国の人々のシンボルのような存在として走り続けているのだと思う。
それは、非常に意義のあることだ。
しかし、もし可能なら、こうした人物を国連が採用し、フィールドワークなのか、実務なのか、スポークスマンなのかは別としても、祖国の最貧国からの脱出のために働く機会を与えて欲しいと思う。
グオルが中心で問題の本質や解決策に踏み込めていないので不満は残るが、これを観て、寄付をしてみようかと考えたり、アフリカの独立に想いを馳せたり、アフリカの民主主義とは何か、貧困と搾取とはどのような問題なのかを考える機会になれば良いなと願い、高いスコアをつけました。
難民ランナーのドキュメンタリー
息子と再会した母親が、地面にのたうち回って感情を表していた。
それは、生きて再会できた喜び以上に抱えている想像を絶する大きな負の記憶、感情、言葉では言い表せない感情の表れ。観ていて苦しく切なくなる。
上手く立ち回れば組織会の委員や指導者として金稼ぎも出来ただろうに、あくまでも南スーダンという国の灯火であろうとする主人公、彼は死ぬまで走り続けるのだろう。
あたりまえ‥。
「あたりまえ」って、なんだろう?
今、「あたりまえ」だった、かつての世界が揺らいでいる。
今まで、「あたりまえ」だったものが、「あたりまえ」ではなくなっている。
グオルという青年には、オリンピック選手として、代表する国家がなかった。
正確に言えば、あったのだが、新しい国で、オリンピック委員会がないため、国を代表することができなかった。
この物語は、難民として逃れた青年が、苦難の末にメダルを取るといったサクセスストーリーではない。
常に特例としてオリンピックに出場し、完走することを目標とした、ひとりの青年の物語である。
合理的なトレーニングなくして、メダルが取れるほど、現代のスポーツ競技は甘くない。
オリンピックというものが、政治というものを避けることも難しい。
政治的な力学と、人々の欲望が渦巻き、お金がなければ、競技を続けることも出来ない。
貧しい国であれば、あるほど、お金をめぐる争いが起こってしまう。
彼は、オリンピックを目指す中で、完走することすら、できなかった。
しかし、彼は言う、「ここに来て、走れたことに感謝する」と。
私達の住む世界も、もう、なんとなく元の「あたりまえ」の世界に戻ることはないだろう。
グオルには、国家がなかった。それは我々と関係ない、まったく違った世界の話なのだろうか?
今まで「あたりまえ」だった、家庭や、会社や、国家が無くなる…。
そこにリアリティを感じない限り、それは「あたりまえ」ではなくなってしまうのかもしれない。
彼は「国のために走りたい」と言った。
「あたりまえ」ではないグオルを通して、考えざるを得ない自分がいた。
そう、すべては「あたりまえ」ではなく、「奇跡」かもしれないのだ。
建国間もない南スーダン せっかく独立したのに 紛争が続く… 不運も...
建国間もない南スーダン
せっかく独立したのに
紛争が続く…
不運もあって
参加標準記録を突破できなかったグオルに
特別資格を与えたIOC
これは良い判断
グオルのrunが
母国の人達に
希望を与えてくれますように
グオルにとっての走る意味
ドキュメンタリー映画ではあるがグオルのこれまでの生涯が描かれた作品。通常の映画作品と遜色ないグオルの物語が描かれておりとても魅力ある作品であった。
南スーダンで生まれ、生まれた時から常に戦争下で育てってきた。グオルの村も攻撃を受け子供は見つかり次第奪われてしまう現状から8歳の時に親と離れて暮らす事となる。離れるといってもどこか身寄りがあるわけではない。8歳で独り立ちを強いられる環境である。この辺りをアニメーションで彼の過去が描かれている。
それから叔母などと合流し高校生の歳になってアメリカへ難民として移住。アメリカの高校に入学し彼の人生が大きく変わる。ここで出会った先生たちに長期離ランナーの資質を見抜かれサポートされここからランナーとして生きる事となる。
ロンドンでは国なき者として個人参加で五輪出場を果たす。
そしてリオでは南スーダンの参加がIOCに認められ南スーダン国代表として五輪出場は果たす。
生まれてアメリカに渡るまでは殺される事から逃げ生き延びる為に走り続けた。
渡米後の当初は死んだ兄弟達、そして離れ離れになった両親のために走り続けた。そしてロンドン五輪出場を果たし両親とも再開した。
そして次なるリオまでは国のため、次世代の若者そして世界中の難民の為に夢と希望、そして目標を持てるよう走り続けた。
この作品を通してグオルが背負う、そして彼が走る強い意味が時が経つにつれて大きくなりその都度プレッシャーとも戦いながら走る姿が非常に魅力的に描かれている。グオルとはもちろん大きく異なる環境にいる僕だが作中で何度も勇気を貰い心打たれる事あった。
五輪開催、そして五輪の存在意義がこのコロナ禍で色々と議論される事が増える事となったがグオルの姿を見ると改めて五輪の素晴らしさを再認識させられる。
国が無いとは言わせない
スポーツがテーマであるが、それだけでなく、同時期上映の映画「デニス・ホー」と並んで、「国」についてもとても重く考えさせられた映画だった。
終映後のトークによれば、南スーダンは「すさまじい国」だそうだ。
2011年にやっとアラブ系民族から分離できたと思ったら、今度は共通の敵を失った南部の部族間で、権力と富を巡る闘争が繰り広げられる。2013年と2016年は大規模な内戦になったようだ。
卑しく愚かな人間たちが権力を握り、品格を失った今の日本と比べても、ケタが違うカオス状態である。
そんな分裂したカオスな国に対しても、グオルを含め、南スーダンの人たちは愛国を訴える。強制されたものではない、自発的な心からの叫びだ。
彼らの目に映っているのは、醜い権力者ではなく、人口1200万人のうちの3分の1が(国内)避難民または(国外)難民になっているという、一般の人々だ。
グオルは神に感謝し、子どもたちの未来のために、自らの使命を果たそうとする。省みて、自分が情けない。
64の部族があるそうだが、部族間の違いは権力闘争の口実にされているだけで、一般の人々にとっては、決して超えられない壁ではないに違いない。
映画は、再現アニメを交えながら、グオル8歳の1993年から始まって、2001年の難民としてのアメリカ移住と陸上競技、2012年のロンドン五輪の“無国籍”での出場、2016年のブラジル五輪出場を巡る顛末に至るまでが描かれる。
生きていたことが奇跡のような幼少期、そして感動的な20年ぶりの両親との再会シーンもある。
「国が無いとは言わせない」という女性の発言のシーンでは、不覚にも落涙した。
(どうでもいいことだが、)グオルの家族がみな、絵に描いたような“八頭身”であることにも驚いた。
かつては逃げるために走った男が、「祖国の誕生」という未曾有の経験を経て、国のために走るようになるまで、描かれるべきことが分かりやすく描かれた、引き締まったドキュメンタリーだった。
次の世代に残す
スーダンの内戦の映像はニュースでしか知ることがなく、日本にいるとなんと平和なのだろうと思ってしまう
。
紛争が続く中、苦境の中トップランナーになったグオルの走る理由に胸を打たれます。
希望を次の世代に…
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