「【この作品が、画期的で重要だと考えたことについて語りたいこと】」ドライブ・マイ・カー ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【この作品が、画期的で重要だと考えたことについて語りたいこと】
映画「トニー滝谷」が、村上春樹作品の短編の持つ雰囲気をよく伝えているとすると、この映画「ドライブ・マイ・カー」は、短編の余白を最大限利用して、物語に肉付けし展開して、更に、画期的な試みも施した、いろんな意味で非常に興味深い作品だった。
村上春樹春樹作品の本質に迫ろうとしたというより、村上春樹作品の短編を読んだ時の読者の感覚に迫ろうとした感じがするのだ。
ご存知の通り、村上春樹さんの小説の文章には、敢えて、この表現を使いたいのだが、”起伏”が少ない。抑揚とは異なるものだ。
だが、読む側は想像力を膨らませて、感情の揺らぎは確実に感じている。
それが、この作品のチェーホフの戯曲の稽古の感情を排した読み合わせと、その結果として、溢れ出る感情を載せた演者の演技として表されているのだ。
これは、ありきたりな予定調和とは異なるものだ。
そして、もう一つの画期的な試みは、チェーホフを取り上げ、チェーホフを演じる役者が多国籍で、演技もそれぞれの言語でなされることと、手話のものもいることだ。
多様性を肯定しているように思えるこの演出は、チェーホフ同様、村上春樹さんの作品が世界中で親しまれていることを示唆しているように思えるし、ノーベル賞の季節になると現れる、村上春樹さんは日本人をターゲットにしない作家だと揶揄するバカモノを皮肉るようでもある。
だが、重要なのは、僕達は、外国人の言葉を理解しなくても、彼等の感情の有無は分かるし、もし、そうであれば、起伏が少しでもあれば、人は、相手の気持ちを感じ取ることが出来るのではないかと言っているように思えることだ。
家福の、亡くなった妻・音に対する、何を考えていたのだろうかという疑問に、自ら皆に課したチェーホフの稽古をもってして、振り返ってみろと促しているようでもある。
途中、家福が、渡利みさきの運転について、加速・減速が感じられないほどスムーズな運転だと称える場面があるが、僕は、この場面、家福の気持ちが非常に込められているように感じられて、胸が熱くなると同時に、家福夫婦に欠けていたのは、これだったのではないかと思うようになった。
みさきのスムーズだが確実に速度が変わる運転のように、人知れず変化していた音の感情。
感情を排したカセットテープが夫婦生活であったのだ。
定期的なセックスもあり、愛情もあると信じていたが、何かが足りてなかった。
だから、音は、他に男を求めていたのではないか。
変わり目はいつだったのか。
家福の頭の中に様々な想いがよぎる。
だが、明確な答えはなく、あっても想像でしかない。
そして、短編小説の中では、客観的な存在であった渡利みさきにも、家福同様、思い悩む人間としてのストーリーが与えられている。
村上春樹さんの長編は、たまに旅だなと思うことがある。
だから、原作は都内のみの話だったのに、この映画では壮大な旅が用意されたのかとも考えたりした。
そして、最後に示唆されるのが、受け入れることだ。
これは、村上春樹作品の最も重要な部分でもある。
拒んでいた家福が受け入れるワーニャの役。
家福は、音のことも全て受け入れたのだ。
エンディングのソーニャが手話で語りかけるセリフは、戯曲「ワーニャ伯父さん」の最終幕の最後のセリフでもある。
僕達は、仮に、はっきりとした答えが無くても、受け入れて生きていくのだ。
そうするしかないのだ。
チェーホフは、その作品において、主人公という概念を取り払った劇作家として知られている。
考えてみると、映画も小説もそうだが、何を感じるかは、その人の経験に影響されるところが大きい。
つまり、誰もが、家福であり、音であり、みさきにもなりえるのだ。
僕は、チェーホフは、他には「桜の園」と「かもめ」しか知らないけれど、もし機会があったら、皆さんも観てみたらどうかと思う。
この「ドライブ・マイ・カー」は思考を要求する本当に印象に残る素晴らしい作品だった。
バツ経験者として#me too どうコメントされているのかとレビュー訪問です。
平坦な録音、平坦な運転、平坦な本読みが北海道の災害現場の登り口ではいきなりの左折~突然乱暴な段差乗り上げ~急加速の運転に変わった・・
あのみさきの“変化”に「みさきもマイカーの人生の運転手」だとハッとさせられたと同時に家福音も自分自身の人生の運転者として、岡田将生を呼んで同乗させたのだ。それもありなのだ―と僕は受け取りました。
ワンコさん
コメントへの返信有難うございます。
掴みどころがないようで、決してそうではない作品でした。
人は全てを語る訳ではないし、敢えて語らない事もありますよね。
ワンコさん
ワンコさんがレビューに書かれている「旅」のフレーズが、鑑賞後数日経った今朝ふいに繋がり、作品を通して伝えたかった事がやっと理解出来た気がしています(^^)
短編なのに、壮大な旅の要素を取り入れる。その観点を提示していただき、私の中で腑に落ちるところがありました。
『すべて受け入れる(正しく傷つくべきであったことに気がつく)。』
そのためには、一定の時間がかかるし、その時間軸も人それぞれでいい。世の中には何でもかんでスパっと切り替えてサクサク生きていける人がいるかもしれないけれど、不器用にじっくりと何かを受け入れながら生きていく。そういうことに肯定的な優しさに溢れた映画、とも言えると思いました。
今晩は
”ハッピーアワー”は気になっているのですが、見る媒体がなくって・・。
後は、物理的に難しいのですが、今週末公開の”DAU.退行”が観たいのですが・・。“DAU.ナターシャ”が凄く面白かったので。(世間的には散々だったようですが・・。パンフもしっかり買いました。)
けれど、上映時間6時間9分・・。
この状況下で、名古屋まで行かなきゃいけないし・・。煩悶の日々。無理かなあ。では。
おはようございます。
村上春樹の(一部の)エッセーのような、素敵なレビューですね。
”村上春樹さんは日本人をターゲットにしない作家だと揶揄するバカモノ”
って、結構いらっしゃるのですか‥。ウーム。
今作、私もとても面白く鑑賞しました。3時間があっという間でしたね。体感1時間55分でした。余韻が未だに残っています。このような映画と出会うために、映画館に通っている事を思いだしました。では。