劇場公開日 2021年11月27日

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水俣曼荼羅のレビュー・感想・評価

全16件を表示

0.5残念ながら、国が起こした事件を過去の話にしてしまっている。

2024年6月26日
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マサシ

4.5☆☆☆☆★ 〝 奥崎謙三はもうこの世には居ない 〟 それは上映終了...

2024年3月21日
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☆☆☆☆★

〝 奥崎謙三はもうこの世には居ない 〟

それは上映終了後の舞台挨拶で、監督自身の口から発せられた言葉。

映像作家として次に何を撮るか。つい求めてしまうのは、更なる強烈なキャラクターを追い求める日々。
しかし、もうこの世に奥崎と並ぶほどの《怪物》など存在しない。

作品を観る前に、上映終了後に予定されている舞台挨拶ではありましたが。実は一切知らず、劇場に到着して始めて知った。
その予定時間は何と90分もの長い時間。
家には多少の介護を必要とする家族が居る。

「どうしようか?作品だけ観て帰ろうか?」

取り敢えずは長い長い作品を前にして、先ずはトイレへ入って【大】をしておこう。
そしてその時に無い知恵で考えた。

質問の時間もおそらくはあるだろう…と。

我が拙い映画フアン歴に於いて、監督の作品歴から考えが浮かぶとしたならば、果たして何があるのだろう?
その時にトイレで思い浮かべたのは、奥崎であり井上光靖とゆう巨大なる《怪物》であった。
現在の監督にはそんな《存在》が果たしているのだろうか?…と。

だが、上映終了後にいきなり監督の口から真っ先に発せられた言葉は。そんな《怪物》を追い求め、しかし最早それは叶わない、、、とゆう映像作家としての悩みであり。同時に、自らに課せられた(のであろう…とゆう)更なる高みに至る道への【宿命】で有ったのかも?との思いを抱きながらの(監督の独壇場と言える)トークショーだった。

第 1 部 水俣は続いていた。本当の水俣。

ある程度の高齢の人にとって《水俣》とゆう言葉は重い。
私も若い頃には連日の様に、ニュースで騒がれていたのを思い出す。
若さゆえの大いなる勘違いを許して頂ける…と思いつつ申せば、、、
《水俣=熊本》に対する偏見は、私の中でも少なからず持っていたと思う。

〝 水俣は怖いところ 〟

そんな、当時は大きな報道をされていた水俣ではあるが。やがて時間の経過と共に少しづつニュース報道の表舞台からは遠ざかる。

「もう水俣の問題は解決したのだろう」

少なからずはそんな気になってはいた。
実際にも以前のニュースで、和解に向けての話し合いが持たれている…との報道はされていた筈だ。(作品の中でも出てくる)
しかしながら。本当の水俣を巡っての訴訟問題は、未だに解決の糸口を見出せないままにいたのだ。
当時は環境大臣であった小池百合子の答弁を筆頭として。この作品中には、多くの官僚であり県知事等が繰り返し、更に繰り返し。またまた更に繰り返し…と言った、苦しい答弁に終始する。

そんな映像の数々を見せられながら、学術的な見地から【リアルな水俣病】を世界に知らせたい!とゆう浴野教授が現れて、我々観客に本当の水俣病とは何か?…を教えてくれる。
そしてその際に、驚くべき事に〝 水俣病発症の1人目 〟と言われている患者さんの【本物の脳】のホルマリン漬けをスライスし、メチル水銀が脳の中でどの様に脳の細胞組織を蝕んでいくのか?…を、現実に見せてくれるのだ!
その、脳の組織がスカスカになってしまっている【本物の脳】
その怖さたるや筆舌に尽くしがたい。

第 2 部 長い長い戦いの果て、、、戸惑い。

上映終了後の舞台挨拶で監督本人の口から出た苦悩。

「水俣は終わったモノだと思っていた」

今この問題を扱う意味は?

名ドキュメンタリー監督である、故土本監督の名作群が存在するだけに、、、
過去の【闘争】と言えた時代の水俣と比べてしまうと、現在の水俣の置かれた熱気の無さとの違い。でも水俣の土地に立ち、水俣の人達の暮らしを見るにつけ、この問題はまだまだ続いている事実。
決して忘れてはならない、、、でも!

この第2部にこそ、そんな監督自身の心のジレンマの戦いが詰まっていた。

舞台挨拶での言葉。「人間が描きたかった」

言い方は適切とは言えないかも知れないのですが、監督自身は《水俣病を巡る裁判》では後から来た人。
もう既に長い期間に渡って【闘争】を続けている人達から見たら〝 他人様 〟

だからこそ、監督が描く人間ドキュメンタリーとして自分が「この人!」と思う人を追いかけ始める。
そこで白羽の矢が当たるのが第2部では生駒さんであり、第3部ではしのぶさんになる。

この第2部では。監督を〝 他人様 〟としてでは無く、〝 友人 〟として迎え入れてくれた生駒さんの物語と並行して、延々と続いていた【闘争】に陰りが見え始めた水俣の人達の【闘争疲れ】の問題もはっきりと浮き彫りとなって行く。

「魂を売り渡したんとちゃうか?」

そんな監督の思いを、第3者の下世話な意見として感じたのは、「俺撮り始めたばっかりなんだよなあ〜!」との思いと同時に。「何故にもっと全身全霊で戦わない!」…と言った意味合いも込められていたのだろう?と思われる。
そんな監督の口惜しさに対して、「お金よりも手帳なんです」と答える南さんの意見は、多くの患者さんの偽らざる気持ちだったとも思える。

第 3 部 泣き笑いの果てに、、、憤り。

第2部の生駒さんに続き。この第3部ではしのぶさんの恋愛模様と並行に、溝口裁判とゆう1人で【闘争】を続けている人と、その支援者達との熊本県及び国との戦いの記録が主に描かれる。

ここでの監督の興味は、明らかにしのぶさんへと向かっている。
勿論、溝口さんの裁判は水俣問題を語る上では欠かせない。
しかしながら。(あくまでも私個人の作品を観た感覚として)監督は、この長年に渡って繰り広げられている裁判に於いては、中心には入って行くのを躊躇っている風に見受けられた。
どうやらこの件に関して言えば、〝 記録 〟する事に徹しようとの思いなのかも?…と。

一方で、作品の中ではもう1人の患者さんである川上さんに関して言えば、監督自身は(映像として残そうとゆう)積極的な姿勢を隠さない。
これは、溝口裁判が過去に自分が居ない時からの【闘争】であるのに対して。川上さんに関しては《現在進行形》でも有り、今の自分に関われる水俣に関する【闘争】でもあるからなのだろう。それは故土本監督が描いて来た水俣問題に、やっと自分が立ち会えている。故土本監督の意志を継げているのかも知れない?と言った監督の想いの意味も込められていたのではないだろうか。

私個人の意見として、ドキュメンタリー映画には予めの着地点が大事だと思っている。
しかしながら、この水俣問題は未だに解決する糸口すら見出せずにいるのが現実。いや寧ろ益々闇の中へと進んでいる。
その辺りでの、作品として世に出す為の着地点が見つかっていない点が。ドキュメンタリー映画として極めて歪な作品として世に出さなくてはならなかった問題は残ってしまったのではないだろうか。
作品全てを観終わった私は率直にそう思った。

すると、長時間に渡る舞台挨拶の中で。奥崎謙三の話から入り。随所に作品には訳有って組み込めなかった ※ 1 オフレコの話を交え、「そろそろ終わり!」と言った頃。監督の口から出た言葉は、、、

「故土本監督は先発ピッチャーで私は中継ぎピッチャー。この水俣問題は解決していないだけに後に続く人に託したい。元々解決していない問題を映画にしたって6時間では描ききれませんよ!」…と。
(正確では無く、この様な意味合いの言葉だった)

映画『水俣曼荼羅』は、6時間12分とゆう長丁場な作品ではあるものの。必ずや劇場へ足を運んだ観客は、その面白さに驚きを隠せない筈だし。ある人は怒りを、またある人には笑いを、そしてまたある人には作品の先として今後に起こるであろう、更なる問題点に想いを馳せる作品だと思える。

映画『アメリカン・ユートピア』では、脳の模型を持ったデビット・バーンが脳の中では分断が絶えず起こり。その人にとって必要なモノは繋がり、不必要なモノは捨てられて行く…と語る。
しかし、時を経て必要となったモノは再度繋がるのだ…と。

映画『水俣曼荼羅』の第1部の終盤。
浴野教授は自身の研究所内での監督との対談でこう語る。

メチル水銀を基準として有機水銀をつくっておられる方が、毛髪水銀が300ppmになったと。さあ、生きているこの人の脳をPETで見てみますと、ここがやられて、そして奥のほうがやられて、そしてここが赤くなってましたと。視覚野とか聴覚野は、見て聞いたときに相手の話していることがよくわからないということが起こると。
そうすると、これは将来的に、もしずっとメチル水銀が世界中でふえていくと、人と人とのコミュニケーションが非常に難しくなると。話をすることが難しくなって討論ができなくなって、討論の後の、もちろんまとめることもできなくなる。民主主義は成り立たなくなる。そういうことはどうしたって、戦争にすぐ行くわけ。もう相手のことがわからなくなって行く、理解できなくなっていく、理解できなくなってくるということが起こるので、やはり、水銀は規制していかなきゃ。
(水俣曼荼羅製作ノート75ページから)

裁判当時に環境大臣だった小池百合子を筆頭として、映画中に登場する熊本県知事であり多くの官僚達。
決して彼等の脳内にはメチル水銀の症状がある訳ではない。
しかしながら、彼等の答弁には一貫してコミュニケーションが不足しており。討論が成り立ってはいない。相手のことを思いやる気持ちが全く欠落していると言える。

奥崎謙三はもう確かに居ない。
奥崎に匹敵する程の《怪物》もまた。
だが監督自身は気付いているのだろうと(私個人としては)思っている。
そんな奥崎の様な《怪物》を生み出したのは【昭和】とゆう数多くの《バケモノ》を生み出した時代だったのだ!

おそらく監督は、今後もそれらの《バケモノ》を追いかけて行くことだろう。
何故ならば、今の日本の政治が極めて異常な状況に向かっており。しかし、一部には危険信号を受け取る人が居る中で。ほとんどの人は我関せずと、一切の関心を示さない空気感が蔓延しているからに他ならない。

監督は以前に石綿問題に取り組んだ。
石綿は目に見えない粒子が胸に刺さり静かに肺を蝕んで行く。
現状の日本は果たしてどうだろうか?
討論が成り立たなくなってしまっている政治の時代は、今の日本に現実として蔓延ってしまってはいないだろうか?
胸を蝕む石綿は、やがては対象者の命を奪い取る。
但し、幸いにも日本国民全ての命までを奪い去るには至らないだろう。
しかしながらも、政治の世界で討論することがなくなってしまったのならば、、、

そこで第1部での浴野教授と監督との対談から発せられる言葉の意味が、第3部での石牟礼氏の言葉へと帰結するのだ!

人は許せないから〝 怨 〟の気持ちを持つ。

煩悩を打ち消し〝 赦し 〟の想い抱いた先に到達するのが〝 悶え神 〟となり加勢する。

2021年 12月26日 キネマ旬報シアター/スクリーン3(上映終了後に約90分の舞台挨拶有り)

※ 1 このオフレコ話には幾つかのエピソードがありますが、本当に興味深い話ばかりでした。
おそらく、いずれは監督本人の口から世間に向けてのメッセージがあるかも知れません。
ですので、それまでの間は。水俣の住民の方々を想い、悩んだ上で作品中には入れなかった監督の気持ちを汲んでの書き込みを極力して行こうと思います。

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松井の天井直撃ホームラン

5.0原監督による解説と新しい学び

2024年1月20日
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知的

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てつ

4.520230722 原一男監督特集初日の水俣曼荼羅@シネマテーク

2023年7月22日
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鑑賞方法:映画館

水俣曼荼羅。
ドキュメンタリー映画である。
それも、原一男監督の。
そんじょそこらの映画なはずはない、小津安二郎に匹敵する本物の作品である。
しかしだ。
ものには限度ってもんがある。
6時間耐久レースの、普通の映画3本分という超大作の長尺作品。
朝うちを出て、今池まで行き、開始1時間前に着いて、オープンまで並んで当日券の整理券待ちして、昼前の11時から映画がはじまると、2時間おきに途中2回の休憩を挟んでも、見終わると夕方の17時だよ。
休憩といっても長蛇となるトイレで終わり。
スマホ見たり、食べてる暇もない。
人って、あまりに忙しいと、食べるかトイレかの2択の欲望しかなくなるってことがわかった。

それでも観たかったのは、公開当時に見逃してるからというのもある。
まず、タイミング的にコロナ禍でありながら、2021年10月にシネコンで洋画の『MINAMATA』を観た。
海外ではまったく知られてなかった水俣病を、初めて世界に知らしめた点で大きな価値があった。
ちょうどその流れで、翌年の1月にミニシアターで『水俣曼荼羅』を観るつもりが、そのときの上映スケジュールではこちらの都合がつかず泣く泣くあきらめたという苦い思い出がある。
次の上映チャンスなどあるかないかもわからず、ない可能性の方が高いし、あったとしてもやはり半日以上の丸一日そのために予定を空けるタイミングは永久に来ないだろうとあきらめてたもんだから。
名古屋シネマテークの最後の企画、原一男監督特集の初日にふさわしい記念すべき一日にしたかった。
だから長時間の上映中ぜったい寝ないように前の晩は早く寝て、仕事ならあり得ないくらい朝ちゃんと起きて、行く前から気合い入れて、わたしとしては本気モードの命がけで観に行ったのだった。
それくらいたいに映画好きを自認したいし、映画人生のピークだった学生時代に通いはじめたこのシネマテークが、最後の企画を一週間上映して平日金曜には閉館してしまうから、わたしにとって本当に最後のシネマテークとなるかもしれない一日なのだ。
それくらい気合いが入って当たり前で、何のことはない。

学生時代、その頃はまだ映画2本立てが当たり前で、寝ちゃうこともあるけど4〜5時間は平気だったし、何なら宿代わりに朝まで同じ映画を2度見3度見できたし。
映画祭ブームで朝から晩まで観てたこともあるけどそのときはプログラムの中から好きな時間だけ観ただけだから、最初っから最後までちゃんと連続6時間観たのは、やっぱり人生初だ。
それを覚悟はしてたものの、退屈せず、身体が痛くなったり、寝てしまったり、面白くなく飽きてしまって観るのも苦痛になることなく。
なんと最後の最後まで観る価値ありの連続で、あっという間に終わった。
時計も見てないから、6時間なんてたいしたことないじゃんとなった。
それが自分でも驚き。
それくらい中身の濃い、密度も高く、完成度の高い、いい作品だったという証拠です。

完成度って、それドキュメンタリーじゃないじゃんと思われるかもしれないけど、何も作らず、ただ撮影するだけがドキュメンタリーだと思ったら大間違い。
作る側の意図に合わせるやらせは作為があるけど、原一男監督の作るという部分は、より真実の姿を浮き彫りにするためのきっかけ作りとしての誘導にすぎない。
批判する人はそこを勘違いしてるっていっつも思う。
わたしもドキュメンタリーにはやってはいけない加工と、どうしてもやらなければならない加工の仕方があると思ってる。
何にもしないのがドキュメンタリーなら、防犯カメラに映り込んだ意図も作為も何もない、ただの素っ気ない映像のみとなってしまう。
どんなに素のままを撮っても、カットしてつないで編集すればテレビだろうと映画だろうと作者の意図する都合のいい映像としていかようにも仕上げることができる。
ドキュメンタリーといえどテレビ局や商業映画の場合、完成のゴールが決まった状態で撮影がスタートし、そうなるような絵のみ撮るか、そうではなかった場合でもカットして編集してそうなるようなウルトラCのテクニックで真逆なことをしてるのに、あたかも真実であるかのように信じ込ませてる映像がほとんどだ。
そうじゃない。
もうそういう胡散臭い、有名で素晴らしい映画には辟易してる。

わたしが原一男監督を大好きなのは、不器用そうに見えて粘り強い繊細な感性を持ち合わせてるから。
一切の妥協なく、被写体へのリスペクトがあり、完成後の上映がどうなるか、観客が観るに耐え得るかまで意識して、慎重かつ丁寧に撮影してることまで伝わってくる。
例えばカメラの回ってるときだけ笑顔でも、家に帰れば暗い顔してるかもしれない。
それを撮るには、撮影する側の人格が重要で、相手に信頼させ、心を開いて、すべてを許してもらえるところまで介入しないと。
たとえ偶然にもいい絵が撮れたとしてもそれはシーンのひとつであり、そこから先の突っ込んだ展開に持っていかなけりゃ誰でも撮れる。
シーンをつなぎ合わせ、この水俣での真実を伝えたいと思う大きなスパンのシーケンスとして描くなら、それが撮れるまで1年でも2年でも待ち、あるとき導かれるように訪れる瞬間を見逃さず、ようやくそのシーンを相手から引き出すことに成功する。
そんなこんなで完成するまで監督人生のほとんどを費やし、20年という歳月をかけてたったの6時間に納めたのだから天才としか言えず、回したカメラの時間からして6時間じゃ短すぎるって話。

だから、あえて映画レビューとしての感想をわたしは書かない。
っていうか、書けない。
もちろん水俣病が題材の映画で、水俣病患者や被害者、寄り添う医者とその家族、さらにはその支援者、また敵対するチッソと国や県や司法という腐りきった政治色の強い巨悪の根源と、いろんな立場の人物が描写されつつ、そうした長い年月の出来事の時間軸を説明するため、度重なる裁判の判決による一喜一憂の浮き沈みをしつつも、結果的な不当判決や勝訴が重要ではないことがわかってくる。
写してるのは人の心だ。
人の哀感という描写がなければ、こうした公害ドキュメンタリーほど見てて息苦しく、失礼ながらも退屈すぎてつまらないものは無い。
それはいつもわたしたちが火事の対岸にいて、裁判で判決のニュースを見ることしかなく、実感も何も到底当事者の心など計り知れないからだ。
しかし、原一男監督はそれを見事に相手側からさらけ出させ、そこまで見せてもええんかいって批判や猛反発くらいそうなところまで掘り下げる。
きれい事で誤魔化さず、それっくらいの無茶しないと、本当にあるべき姿など見えてこない。
実はドキュメンタリー映画で泣いたのは、今回が初めてなんだ。
登場人物の魂まで透けて見えるくらい、あの笑顔、あの苦しみ、人生の深み、その迫力、どん底の中で、泥の中から咲く蓮の花のように美しい、やっぱり人間ってすごいなと思う。

この映画のレビューに、水俣病に関するいろんな視点論点で語る人も多いかと思いますが、わたしはそこを一切端折ります。
水俣病に関してはいろんな資料があるし、そんなことは調べればいくらでも知ることができます。
ただ美しいお涙ちょうだいの感動ドラマで誤魔化すことなく、普段は裏側に隠してる、心の奥にしまい込んでしまった当の本人ですら意識してない心の奥底にある大切なものを、一途な監督の心を開かせる術を持ってして、スクリーンに映し出してくれるのだ。
これは被写体となった水俣病患者にとっても、映画として実名で顔をさらけ出してまで撮影してもらった甲斐があるってもんだと思う。
迷惑だったら拒否したり拒絶できるのに、どんどん撮影は進んでいくのだから、撮る側、撮られる側の信頼関係がよほど深いということまで伝わってくる。
いや、この水俣病という公害の根がそれだけ深く複雑で難解だからこそ、原一男監督はなんとかしてそこにメスを入れたんだと思う。
だから、タイトルが曼荼羅。
水俣という混沌とした宇宙に漂うわたしたちに、宇宙の秩序として曼荼羅の世界を描いてくれたような気がします。
上映後のトークでは、嬉しい知らせとして、水俣曼荼羅パート2の計画まで話してくれました。
それでも、水俣問題は切り取られたひとつでなくすべてとつながってて、今の日本の状況そのものだし、家族という単位の変化、すべての犠牲が子供たちに向けられてる中で、ドキュメンタリー映画の質もどんどん低下し、今座ってるこの映画館もまさに閉館する直前であり、絶望の淵に落とされながらも希望ともいえる猛烈な批判と新たな野望をきくことができた。
ね、長い長いといっても、めちゃめちゃ充実した時間を監督と共に時空を共有できた、ありがたい一日となったのでした。

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fuhgetsu

4.0水俣病ではなくチッソ病

2022年12月7日
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鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

水俣病の現状を、過去を振り返りながら6時間以上の長編で描いていく。
有機水銀が脳に与えるダメージについてはよく分かったが、政治の世界では分かるわけにはいかないのだろう。
50年以上にわたる経緯から、恨まないでと言っても無理がある。
国が国民の生命と財産を守ることは、当たり前だと思っていたが、そんなことは通らないことも覚悟しなければ。

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いやよセブン

4.0水俣曼荼羅を見て感じたこと

2022年7月21日
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鑑賞方法:映画館

悲しい

怖い

興奮

1 水俣病の現状と患者認定を巡る争いを描いたドキュメンタリー。

2  水俣病の原因と原因企業は1960年代に既に明らかになっている。今回の映画で扱っているのは、ここ15年の動き。患者認定を巡り、国・熊本県と相対する住民・医師など支援者たちとのせめぎ合いや生身としての患者の人間性が捉えられている。

3 水俣病の病像を扱うパートの中で、非主流派の医師二人が患者の麻痺の部位を丁寧に調べ、国の患者認定基準の根拠であった病気のメカニズムをひっくり返した。住民が原告となった裁判でその論拠が採用され住民の逆転勝訴となり確定。それでも、国は患者認定基準を見直さず、熊本県は国が決めたからとして、基準をそのまま運用し、申請者を次々と落としている。そして一部の人だけが裁判に訴える。映画を通じて、支援者たちの覚悟の強さと行政側の無責任体質や権威主義が見えてくる。

4 その一方で、時の経過とともに、劇症患者の減少や被害者を保障救済する制度が外形的に整備され、水俣病に対する社会的関心の薄れや地元住民の被害者意識の低下も見られる。このまま推移すれば、患者の高齢化により患者数は減少をたどり、近い将来には水俣病は過去の出来事となってしまう。熊本県は水銀で汚染されたヘドロを浚渫し、湾内に設けたポケットに閉じ込めたから安全だとするが、施設や資材の耐久性からは万全とは言えず、継続的な環境モニタリング調査は不可欠であろう。

5 本作は、ほとんどが原一男が追っかけ取材した膨大な記録から編集した労作である。そこには闘いの記録のみならず、原がシンパシーと人間力を持って住民側と接し信頼関係を築いたことで、患者たちから無防備で生身の姿を引き出した。その一方、情報量が多く、時代経過が分かりにくかったように覚えた。

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コショワイ

4.0現在進行形の未解決問題

2022年5月30日
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悲しい

知的

難しい

原一男監督が15年の撮影と5年の編集で計20年の歳月をかけ、3部構成で計6時間12分もある、水俣病に関するドキュメンタリー作品

水俣病についてはジョニーデップが写真家役で出たMINAMATAを観た時も、知らないことが多いなぁ、と思ったが、この作品を観て、さらに多くの未知の事実を知れた。

・補償問題はいまだ根本的解決には遠い状況が続いている
・患者認定制度の基準としてきた「末梢神経説」が否定され、「脳の中枢神経説」が新たに採用された
・国も県も最高裁の判決を無視して依然として患者切り捨ての方針を続けている

など、現在進行形なんだと改めて知れた。
小児性水俣病患者・生駒さんの大変さ、90歳過ぎても新たな裁判闘争に懸ける川上さんの気力、胎児性水俣病患者・坂本しのぶさんの恋する乙女心、など見所満載のドキュメンタリーだった。
3部作で途中2回の休憩含め6時間半もあり、長いんだけど、引き込まれてそれほど長さを感じなかった。
観賞後原一男監督と島野千尋プロデューサーが登壇されトークショーがあり、広島の被爆者との共通点などを質疑応答出来て良かった。
長い作品なので、観る勇気が必要だけど、ぜひ多くの人に現在進行形なんだという事を観て知ってもらいたい作品です。

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りあの

2.0行政マンは冷酷な外道か?

2022年2月15日
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当たり前の事しか言えず吊し上げられる行政マンは冷酷な外道か?
凡庸な普通人だろう彼ら側の内情と職業人としての生き様は撮れなかったのか。
彼らの背後から恐々様子を窺う国民という私達。
被害者団の切実だけを撮る忖度呪縛など無いと思いたい。
両極を同量撮るべき事態と思うが。

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きねまっきい

5.0 素晴らしかった。時間もかかっているが、対象の持っている圧倒的な厚...

2022年1月27日
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 素晴らしかった。時間もかかっているが、対象の持っている圧倒的な厚みに、映画は決して引けを取らず、素晴らしかった。6時間もあっという間だった。
 わたし的には、浴野の学者としての生き方が素晴らしいと思った。そして、御用学者たちの酷さを思った。
 脳にまつわる特異な欠陥については、ちゃんと調査をすれば、医学的にもすばらしいものでもあることがわかる。放射能と同様、目に見えないところで人に与えている影響を思う。
 みちさんには、去年、水俣でお会いしているだけ、その激しい若い情熱に打たれた。官僚の、上告については謝らないというメモを発見して奪うシーンは圧巻。
 実子ちゃんは、スミスにとっても重要な少女だった。年をとっても、あの表情の面影がある。原監督は笑顔を取りたかったようだけれど、ラストシーンで、そうでない顔を取ってしまったことには、出来事性がある気もする。
 アル中だと言って酔っぱらった二宮先生が、患者はうまいものがわからず、セックスもこすってる感覚しかない、文化が奪われると叫んで泣くシーンは胸を打つ。それがない障害者は人間じゃないのかとは言いづらいので、難しいけれど、奪われる人にとっては大事なことだ。そして、日本はこういうことを評価できない国。
 原さんは古いジェンダー体質。恋多き女と言っても、あのように踏み込むのは、男性にとってもハラスメントっぽい。しのぶちゃんもコクられたと歌で言ってるのに、その証言は扱っていない。原さんは、振られ続ける人生、と自分のカテゴリーの中で彼女を見ており、失礼だ。
 温泉での夫婦のシーンも、ちょっとした二人のやり取りに愛が感じられるとはいえ、初夜についての原監督の決めつけは、ちょっと不愉快な感がある。
 しのぶちゃんが自立したいけど、母親が難色を示す点での介入はよい。CP撮っただけある。
 整理しきれないような不調和な材料が生のままのように放り込まれていて、それもすれすれ編集の一環なのだろう。
 みちさんのお父さんも出ていた。

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えみり

3.5タイトルなし

2022年1月23日
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生駒さんが「嫌」と言えたところがよかった。/現代において科学が行政や世間にどうアピールするか、という点では『ドント・ルック・アップ』にも通ずる視点が含まれていると思った。/しかし石牟礼道子、厄介な人である。ミッドサマーかよ。/終映後トークショー、原監督の話だけ聞きたかったなー、って。

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ouosou

4.0奥崎さんを憑依させた弁護士先生が素晴らしい!

2022年1月3日
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このような深刻な内容を扱っているドキュメンタリーとは言え、原一男監督の手にかかれば一大叙事詩、一大エンターテイメントとなっており、長さは問題にならないです。20年も取材しているのだから、むしろこの長さは普通。

エンターテイメントが花開くのは、県や環境庁と水俣病関係の方々の会見バトルシーン。

最初は少しソフトに話されていても次第に痺れを切らし瞬間的に怒る人たち、これはまさに奥崎謙三氏を観ているに等しかった。みなさんに奥崎謙三が憑依したと勝手に思いました。

とくにスキンヘッドの弁護士の先生は、怒り方が素晴らしく、奥崎謙三にしか見えない。いわゆる会社とかでパワハラの時に見せるあれですよ。バカヤロウ!この野郎!旧日本軍の上官たちが見せたあれが日本の津々浦々に連綿と受け継がれているのを見ました笑。

それで、その会見、まず一番真面目そうな下の人から順番に公開処刑。わからないならわからないって言えと弁護士先生に奥崎モードで言われて、一言わかりません、とは答えれずにモニャモニャわけわかんないこと言っちゃって観てる側もヤバい、と思ったら、そうかぁわかんねえんだな、と意外にもスルー。下の人には優しい?よしわかった次!ときたら今度はその上の上司が黙ってる。黙ってるのには、キレて、わかんねえならわかんねえって言えよ!そうしたら許してやる、って黙る作戦はダメでした笑。

でも権力側は役所のほうだから弁護士先生は、パワハラする側ではない。パワハラというより逆パワハラ?

シルバーアクセサリや首からかけた数珠が怪しさを増されてましたが、その怒り方はもうすごい。笑ってしまうしかないでしょう。

そして、県知事の蒲島さんと知己の仲なのか、期待していた蒲島さんがわけのわからない長い役所専門用語を繰り返しロボットのような答えしかしなかった時の、落胆ぶり見せた時も素晴らしかった。本当に悲しそうだった。

蒲島さんはすごい経歴の学者、政治経済学のドクターなのに、役人になるとこうなっちゃってその才能がもったいない。才能が誰が見てもおかしいこんなくだらない行政に使われるって、日本終わりますよ。

賛否あるけど、静岡のドクター川勝知事の方が大井川を守るためにリニア工事止めてて、クセは強いけど、自分色出してますから、こんなロボみたいにならないでしょ。博士までなってロボになるのは悲しすぎますよ。

役所とか巨大企業もそうだけど官僚的な大組織って、才能を無駄遣いするのが好きだね。見てて悲しかった。

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屠殺100%

3.0有権者は水俣病患者を見捨てたのだ

2021年12月30日
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鑑賞方法:映画館

 6時間の長編で、休憩時間を含めると7時間になる。全体として感動する場面は少なかった。反対に嫌な場面はとても多かった。特に、役人が一方的に人格攻撃を受ける場面を観て、当方自身がかつて会社のクレーム処理をしたときのことを思い出し、胸が悪くなった。クレーマーからよってたかって怒鳴りまくられた記憶である。つるし上げはいじめでしかない。とても見苦しかった。
 役人たちは大抵が水俣病の発生時には役人になっておらず、よく知らない昔のことで、謝れと怒鳴られ、本気で反省していないと内心の自由まで脅かされる。そもそも役人が本気で反省することなどないことは、誰もが知っている。知事や大臣からは、何も約束しないで、兎に角その場をやり過ごせと命じられているのだ。

 嫌な場面が多かったのは、公害のドキュメンタリー映画である以上、当然である。そのことで作品の評価が下がることはないと思う。原監督も、つるし上げのシーンで原告団が観客から嫌われることは解っていたと思う。
 ひとつ注文があるとすれば、ドキュメンタリーなのに時系列が分かりにくいから、せめて何年に撮影したシーンかぐらいは字幕に出してほしかった。

 敢えて書くが、人類の歴史は殺人の歴史である。愛の歴史ではない。戦争でたくさんの人が死んだのと同じように、水俣病でたくさんの人が死に、いまも苦しみ続けている。戦争と水俣病は違うというかもしれない。しかし当方は同じだと思う。戦争のときは国民がこぞって戦争に浮かれていた。水俣病は国民がこぞって無視している。
 知事や大臣は選挙で選ばれている。政治家の仕事は予算をどのように使うかを決めることである。だから衆議院でも参議院でも、予算委員会が最も重要な委員会だ。熊本県知事が熊本県の予算の多くを水俣病対策に使うことが県民の賛成を得られることなのか。環境大臣が国家予算の多くを水俣病対策に割くことが国民の同意を得られることなのか。

 本作品には、水俣病患者が要求する補償は県予算や国家予算から支出されることになるという視点が欠如している。予算であるからにはその原資は当然、県民や国民から徴収する税金である。知事や大臣が「反省しました、それでは水俣病の申請者は全員を認定します、一人当たり2億円を差し上げます」という訳にはいかないのだ。
 素人考えでは、チッソを解散して、残った有価証券で水俣病被害者全員に補償、有機水銀のヘドロ対策、債権者への支払い、退職金の支給を強制的に行なう以外の最終的な解決策は思い浮かばない。そんなことが手続きとして可能なのかはわからないが、行政がそんなことをしないことだけはわかる。

 諫山孝子さんはたしかジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA ミナマタ」にも出ていたと思う。水俣病は死の病だが、死に至らずとも病状は一切回復しない病気なのだと、改めて実感した。父親の諫山さんへのインタビューで、原監督が「娘を殺して自分も死ぬなんて思ってことはありますか」と聞く。もちろん、そんなことはないという回答を期待したのだと思うし、こちらもそう予想した。しかし諫山さんは「何度もあります」と言う。娘を殺すのは犯罪だが、チッソや国が自分たちを殺しても病気にしても、何の罪にも問われない、自分たちのことはせめて自分たちで決めさせてもらってもいいのではないかと、迫力のある論理を展開する。このシーンには最も共感したし、水俣病患者とその家族の苦しみが最も分かりやすく共感できたと思う。

 本作品で不思議だったのが、一般の有権者のシーンが殆どなかったことだ。多分撮影ができなかったのだと思う。水俣病患者を救う政治家を選ぶのか、無視する政治家を選ぶのか。救う政治家を選ばなかったから、多くの人々が救われないままだ。有権者は水俣病患者を見捨てたのである。

 原告団のひとりがみかん畑で言う「水俣で水俣病の話をすると嫌われるんです」
 水俣病患者を苦しめているのは他でもない、向こう三軒両隣の普通の人々なのである。

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耶馬英彦

5.0国、行政VS市民の行く末を見る

2021年12月9日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ジョニーデップ主演の上映のタイミングで
土本監督の2作品をユーロスペースさんで鑑賞しました。
ジョニーさんに罪はありませんが、やはりドキュメンタリーを
見なければ実情を垣間見ることはできないなと痛感しましたね。
それを見てからの・・・本作です。

6時間を超える三部作。そりゃぁ勇気入ります。覚悟も。
しかし、ただのドキュメント映像を流すだけではなく、
そこには水俣病患者、支援者、周囲の水俣病に対する
視線、考え方などなどの時の経過がもたらす現実と
国、県、行政という顔の見えない当事者との闘いの
徒労感(に等しい)をこれでもかと見せてくれます。

その事実を取り巻くさまざまな立場の多くの方々の
思いと行動が入り乱れ、「水俣病の取り巻く世界」が
描かれます。

笑っちゃう場面、笑うしかない場面、苦笑いする場面、
諦めの笑みを浮かべちゃう場面などなど、さすがの監督の手腕。
飽きさせません。
十分エンタメに昇華できているのではないでしょうか?
多少、監督の想いが前面に出てきたりしますが、長期間取材
していればそういう感情になってしまうだろうし、そこは偏向ではなく
そう考えるよね!僕もそう思いますもん!って視聴者目線な感じです。
そこにスポット当てたいよねっていう。痒いとこに手が届いているのでは?

さらに、よくぞここまで浮き彫りにできたなと、
よくぞ映像利用許可得たなと
よくぞこの人を見つけたなと。
監督の想いの強さとフットワークの軽さを感じます。
時間に臆することなく完成させた監督の想いそのもの
なのかなぁ?

僕は水俣病について詳しいわけではありませんが、確実に
「風化」しているって伝わってきます。
土本監督の映像の中にあった「熱」は限られた方々にのみ
微かにあるだけで、世間や国や行政は、司法すら
熱がなくなっている状況で「対処してる風(ふう)」でお茶濁し。

けど、これって・・・水俣病に限らないことなんじゃぁないか?って
思います。国や行政を相手にした時、一市民は結局は命奪われても
泣き寝入りせざるを得ないのが現実なのではないか?と。

当たり前に正しいことをしても、報われない代償で黙らされる市民。
罪ある者達は首をすげ替え、尻尾を切り責任から逃げ生きながらえる。
国、行政の監視者であるはずのマスコミもニュースバリューなければ
解決していなくても報じない・・・。
そりゃぁ、繰り返されますよね。同じことが。

継続することにはとてつもないパワーが必要。
当事者でない人たちの意識や興味の移ろいは怖いくらいに早い。
こうやって歴史はぼんやりと幕を閉じ、また同じことを
延々と繰り返していくんだろうなぁ・・・。と。

それぞれの立場で必死に生き、働く人々。
目的とメリットが異なるから入り乱れて曼荼羅みたいに
なっちゃうんでしょうね。
なぜ人間として「命を守る」「間違いを認め改善する」の
旗の下に集えないのか・・・・?悲しいけど、現実なんでしょうね。
国や行政に「民衆のための正義の味方」が生まれない限りね。

アフタートークで監督から作中に出てくるお医者様の
現在の状況を伺い、さらに「市民の誠意ある尽力」の無力感を
味わいました。

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バリカタ

3.0貴重な記録映画

2021年12月4日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

水俣病問題を風化させないための貴重な記録映画だと思う。水俣病の被害者の生の声を聞くことができる。被害者にはただただ共感。国や熊本県、企業を糾弾する支援者(活動家)の言動には違和感。「被害者支援」よりも「権力糾弾」が目的化している活動家たち。裁判に勝ったからといって熊本県知事に対して「土下座して謝れ!」はないと思う。支援者の怒号が、かえって権力者と被害者の距離を遠ざけていることに活動家たちは気づいていない。義憤にかられて怒りの言葉を権力者にぶつけているかもしれないが、本当に水俣病の被害者に寄り添うのであれば、支援者は見守りに徹し、被害者本人に思いの丈を語ってもらうべきだった。熊本県知事が患者に歩み寄り「あなたは土下座を望んでいますか。」と直接語りかける場面が印象的だった。
「怨」から「許し」への過程は、被害者それぞれ。「怨」を昇華させ「許し」の境地に至ろうとする被害者を「裏切り者」と批判するのは筋違いである。「怨」に一番執着しているのは支援者ではないか。「怨」はまだまだ続く。

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yesyesmasa

5.0あくまでも感覚的に楽しむ6時間・・・

2021年11月28日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

悲しい

楽しい

これほどまでの尺だと、もはや誰にとっても長すぎる!だろうけど、個人的には3部構成の全編楽しめました。自分が見た映画館では各部ごとに20分の休憩もあったし、最後、原一男監督のぶっちゃけオモしろトークもあったし、大満足です。結局トータル7時間超。充実した一日が終わったなーっていう感覚です。もっとも、製作は15年、訴訟にいたっては30年以上、患者にいたっては50年、60年以上なのですから、数時間をこの作品のために捧げても─。
映像そのもので時間というものを実感できます。
歴史のように習ったことが現在進行形で続いている驚き、そして懸命に生きている人々─、これだけの長さなので色んな意味でつらいでしょうけれど、それ相応の楽しみも必ずあります。
確かに題材からして重々しいものですが、想像以上に面白いと思います。
勝った負けたというところも当然盛りだくさんで、かなり気になる内容ですが、それよりも、あらゆる個を存分に見せつけられることで、笑ったり涙したりしちゃいました。恋する女性、普通に振る舞うための努力をする人、探究者、そして父になる原一男などなど・・・
もっとも印象的だったのは、煩悩ということば。それは作品のかなりあとに発せられるのですが、それは作品全体を覆っているものであり、だからこのタイトルなのかなとも思ったりしました。
この作品は常に悶え続けていたのだなー、いや自分も含め全ての人は悶えているものなんだなーと、哀愁にあふれた何とも言えない表情のストップモーションを見つめながら、そう思って美しい水俣の海を見つめて作品は終わっていきました。でも、まだまだ闘いは終わらない、みたいなーそんな印象の作品でした。

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SH