ノマドランドのレビュー・感想・評価
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孤独と孤立
自分にあるものと自ら捨てたもの、始めからないものそれがこの映画の中で詰まっている様な気がしました。
主人公の女性は、大企業のAmazonで働く中家を持たず大型トレーラーで生活をしていく。
旅をしながら新たな仕事を見つけ、そこでの出会いがある。ぱっと見は、何かロードムービーの様なイメージだけど、実際にはそういう感じとまた違っていた。
孤独と孤立
これは少し似ているように聞こえるけど、僕自身の解釈だと少し違ったもの聞こえる。
孤独は、なりたくて自ら選んだもの
孤立は、なりたくてなくてもなってしまったもの
この主人公は、孤独を選択して自分自身に生きる事とは?テーマに生活していくそんな感じかと思いました。
人によって見方が変わるので、また別の時にみたら違った見え方がしてくるかもしれないと思いました。
新しい時代の生き方を探る
冒頭の年代設定でもわかるように本作は決して今を描いたものではない。
だが、その内容はまさに今だからこそ見るに値する傑作である。
コロナで世界が変わり、生き方が再考される中ノマドという新しい選択肢が人生の最期であっても良いのではないか、そう思わせるほどに心震えた。
また、マクドーナンド演じる主人公は裕福には見えない状況の中でも決して自分を見失わず、周りへの配慮や優しさを怠ることなく芯の通った己の生き様であることを信じて疑わないその強さにも惹かれた。
音楽・映像・風景、それら映像作品としての魅力も詰まったこの一作を自分の中では☆5の最高評価とする。
釘づけになるか、眠くなるか。感じ方は真っ二つな、社会派ロードムービー。
【賛否両論チェック】
賛:“家”の意義から始まり、やがて“生きていくこと”の意義まで考えさせられるような、不思議な作品。
否:展開そのものは非常に淡々としすぎている印象。関心を惹かれないと、眠くなってしまうこと必至。
家を手放し、“ノマド”として生きることを選んだヒロイン。そんな彼女と、同じ境遇の様々な人々との出逢いを通して描かれていくのは、まさに「生きることとは?」という普遍的なテーマです。劇中でも葛藤するように、“家”というものの存在意義から派生して、次第には“生きていくこと”そのものの意義を考えさせられるような、とっても不思議な作品です。
また個人的には、ノマドだと最期の「さよなら」がなくなり、「またどこかで」に代わるという部分が、非常に新鮮に感じました。
ただ映画としては、やはり淡々としすぎていて、観ていて眠くなってしまいそうなのも、また事実。逆に、
「“この映画を観て眠くなる=幸せに生きられている”っていうことなのかな・・・?」
なんて、少し斜めから考えてしまいました。
良い意味でも悪い意味でも、関心や評価が真っ二つに分かれそうな、そんな作品といえるかも知れません。
主人公自身が選択をしているようだけど そうせざるえない状況になって...
主人公自身が選択をしているようだけど
そうせざるえない状況になっている
何かに依存していないと生きてはいけない
その依存していたものが無くなった時の
路頭に迷わなくてもいいように自立していたい
なんとも言えない映画
面白くないとか
面白いとか目が離せないとか
そういった類の映画とは違い
ずっと見るしかない映画。
広大な大地を染める夕日の彼方にUFOは飛んでいないし
転がる死体に群がる野次馬やFBIも出てこない。
しかし、この映画には魅力がある。
絶景、社会の縮図、そういうものではなく
おばちゃんの目に釘付けになる。
顔面は鋭く切り取られ
おばちゃんや、おばあちゃんやおじいちゃんの
皺に落ち窪んだ瞳が画面に大写しされるたび
映画に集中できる。
物語は、やっぱり家が落ち着くわー
っていう薄いものだが
その眼がそれ以上を物語っているようで
なんだか深いものにしている。
とても良い映画だけど、見た後は野垂れ死にたくなる。
危険な映画だと感じた。
「タウン(家)は心の中にある」は 負け惜しみだと思う。
農耕民的ホームレスは”掘っ立て小屋”か”段ボールハウス”等で生活をするが
遊牧民型ホームレスが暮らすのは”RVハウス”だ。バンといっても、野宿者用のものであり、旅人用の車ではない。
内容は「スリー・ビルボード」とすべてが似たようなもので「孤高を勘違いしている中年女」
主人公たちは”自由人”と言うよりも、悲しい過去を更新できずに、
俗世をさ迷う”その日暮らし”のホームレス。
ノマドと言えばカッコ良いが、実態は風呂にも入らず、匂うだろうね。
行きつく目的地もなく、死ぬまでさ迷うのは糸が切れた凧である。
この映画を観たら、オンザエッチの向こう側で、踏ん張る「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観るべきだ。
こんな人にお勧めです。 ・人生に絶望を感じて全てを放り出したい人。 ・役者の演技力を感じたい人。
映画を観ながら、謎かけを出されているような気持ちで観ていました。
ファーンが胸の内に抱える苦悩はなんだろう?
序盤はずっとそのことを探しながら観ていました。
映画は静かにノマドとして生活する人々の姿を描き、彼らが持つ貧しさへの拒否感や人生への後悔、そして社会への不満から、背景にあるアメリカという国の現状とノマドの人々の現実を浮き立たせていきます。
そして淡々とノマドの人々と関わるファーンの日々を描く中で、彼女の亡き夫への思いと社会への拒絶が明らかになっていきます。
彼女の中にあった、おそらく彼女自身が子供の頃から持っていたであろう社会への違和感のような物、そして夫や町の人々を失った喪失感。
その2つは密接に結びついて彼女の自己を形作っていたように思いました。
違和感として感じたのは、彼女自身が社会で暮らす人々と衝突し、また誰かから手を差し伸べられることに対してその多くを拒んでいた部分です。
ホームセンターで同じ故郷に住む女性や、ガソリンスタンドの店主、実の姉や、彼女に好意を寄せるデイブなど。
そこには自身を異質と認め、誰かと交わることで彼らの世界を乱してしまうことへの恐怖を感じているように思い、それが彼女の違和感であり、社会から感じる疎外感のように感じました。
喪失感は、彼女がかつて家族の元を離れ、夫と築き上げた新しい場所での生活、夫を亡くした後もその土地で生きていたものの、その土地自体がなくなってしまった事実。
社会に違和感のある彼女だからこそ、やっと作り上げた居心地の良いコミュニティのような世界を無くした意味は大きく、もう一度、貴賤で人の価値が決まるような社会に戻って生きていくのは難しかったんだと思います。
ハウスレスと言いながらかつての土地の近くで車上生活を続けていた彼女は、この喪失感を抱え、なおかつ疎外感から社会にも入っていけず、動けないノマドのような存在だったのだと思います。
彼女が生活を求めてノマドのコミュニティに参加したのは本意ではないように思いましたが、その後、多くのノマドと接する内にその世界へ傾倒していくのは自然な流れのように感じました。
特にスワンキーとの出会いは大きかったように思います。
不必要な物は持たず、記憶と思い出に向かい合い、生のあるままに心が欲する物を求めてバン一台で放浪する生活。
かつての記憶と向き合いながら、それ以外の物に縛られることの少ない生き方、そして時に自然の中に溶け込み、自身の存在をその中に感じる生き方は、彼女自身の喪失感と違和感を受け入れてくれる生き方のように思いました。
ラスト、冒頭で捨てられなかったレンタルルームの荷物を処分した彼女は、出発点の街と家を訪れ、もう一度旅慣れたバンで走り出します。
かつて失意の中で生活を求めて旅立った場所に戻り、今度は少しだけ気持ちを軽くして、新たにノマドとして旅立っていったように感じました。
彼女の新しい旅が心を癒す平穏の旅であり、多くの仲間と再び巡り合えることを祈りたい気持ちになるラストでした。
映画としては、美しい景色と、感情に直接響く音楽が素晴らしく、ファーンの心情を受け入れる手助けになっていたように感じます。
音楽はルドヴィコ・エイナウディ、『最強のふたり』でピリピリする感情をあらん限りに表現していた方です。
今回も素晴らしい仕上がりでした。
役者としては、フランシス・マクドーマンドがひたすら凄かったです。
ファーンの感情は大きな波や小さな波でひたすら動き続ける謎かけのような感情でしたが、穏やかな口調で芯の強さも感じさせながら全てを丁寧に演じきった感のある演技でした。
『ファーゴ』に続いての視聴でしたが、今作でもアカデミー賞の主演女優賞を取ったそうです。
※ブログの方ではもう少し加筆しています。
※興味を持って頂けたら、プロフィールから見て頂けると嬉しいです。
映像も素晴らしい。
放浪の孤独。
しかし放浪せずにいられない自分。
全ては過ぎてゆく旅なのだから。
フランシス・マクドーマンドのファンとしても満足。
(彼女は主演も脇役もシリアスもコメディもすべてハマれる役者さんだなと再確認)
車生活は大変
車を住みかとして、好きなところへ行き、自由に生きる。
なんて素敵な人生かと以前考えた事がありましたが、実際に車で寝泊まりするのは大変で、更に行く先で職を探すのも大変です。
本作品は、そんな方々の人生を、ありのまま描いていました。
日本でどれだけ車生活をおくっている人がいるのか分かりませんが、アメリカでは車生活の人は多いのでしょうね。
見終わった後、ちょっとだけ今後の人生について考える機会になりました。
どっちが良いとか悪いとかじゃなくて
ノマドの人たちの生活は、もっとキツいのかもしれないけど、それも映画の端々からちゃんと感じることが出来て、車の窓を叩かれてビクッとするところとか、お腹をくだすところとか、この映画の中では怖いことは起きないけど、たまたま起きていないだけで、起きることもあるだろうというような。
ノマドの人たちの教祖のようになっている人は、胡散臭くも見えたけど、悪い人じゃなくて、良いことをしようとしてる人だった。
みんなで集まって生活しているところは、お祭りのような、フジロックのような、でもずっと続くわけじゃなくて、時期が来るとみんな散っていく、たまたま会っている間の交流だけで、また会えるかもしれないけど確かではない、という繋がりだけというのは、寂しいように思うけど、繋がり方が違うだけで、繋がってないわけじゃなくて、、、
妹の家や、デイブの家で過ごしてる時の、ファーンの居心地の悪そうな様子が見ててハラハラした。
家族と住む家がある暮らしとノマドの暮らしは、対象的に描かれていたけど、どっちが良いとか悪いとかじゃなくて、どちらの暮らし方もありえるんだと知ることで、今私には帰る家があるけど、、、たまたまそうなだけで、、スミスの歌詞のように、家とは心の中にあるもの、だとしたら、私の心の中にある家は、、、と考えながら映画館を出ると、まだ明るくて、ああ今日は夏至だったなぁと思いながら、
フランシス・マクドーマンドが、とっても良い!
本当の自由は孤独でいる事
あらすじ
米国ネバダ州、60歳を超えて、夫を失ったファーンは、働いていた鉱山の資材会社が倒産し、職を失うだけでなく長年住み慣れた家まで失ってしまった。この機会にキャンピングカーに、大切なものをすべて積み込んで、「ノマド」(遊牧民)として生きることにする。年金などまったく当てにならない。移動する先々で仕事を探して働き、現金を得る。ときにはパートタイマーのアマゾンで箱詰めの仕事、時には掃除婦、時には季節労働者となる。同じノマド仲間同士の互助会もあり、そこには資本主義社会からドロップアウトした人々の貧しいながら助け合う集まりもある。ファーンは働く現場で知り合った人々と、ゆるやかな交流をしながら、淡々と移動を続けていく。
というストーリー。
主演のフランシス マクドーマンドが、とても良い。他の女優がやっていたら、ただの演技になっていただろう。彼女ほど孤独が似合う女優は居ない。彼女とデイブを演じた役者以外に役者を使わず、実際ノマドの生活をしている人々を使って、半分ドキュメンタリーのように撮影したそうだ。
自然がいっぱい。壮大な自然のなかで暮らす人々の小さな存在が映し出される。ファーンは、人よりも、自然を愛する。海沿いを走っている。車を止めて、ひとり大きな岩の上で波しぶきを浴びながら塩風を胸いっぱい吸い込んでみる。キャンプ地で、すべてのほかのキャンピングカーが立ち去った後、地平線に沈んでいく太陽をひとり、いつまでもいつまでも眺めている。そういったシーンをカメラが動かず、じっと捕らえる。
そんな彼女も、小さな恋をする。小さな町の観光ガイドの男に、心惹かれ一人で岩から岩に隠れてみて、相手が見つけだしてくれるのを待ってみる。そして男がちゃんと追ってきて、呼び戻してくれるのを見て満足する姿は、テイーンエイジャーのように可愛らしい。それでいて、男に求婚されると、迷いもなくサッサと立ち去るのだけれど。
自分による、自分のための、自分だけの人生を、しっかり生きている。自然と一体感を持ち、だれにも優しく、窮地に陥ると助けを求めるが、助けを押し付けず、すべての人と間隔を置く。徹底し個人主義だ。それもとても強い個人主義。誰にも決して嘆きや、苦情や、身の上に起こった不幸などを打ち明けたり、ぶつけたりしない。だから自分が情けないなどとは感じない。自分がホームレスや、社会的落ちこぼれだなどとは信じていない。自分の人生を自慢したり、人と比較して、自分が不幸かどうかなどと測ってみたりしない。淡々と自分に与えられた状況そのものを、楽しむ。執着心のない、透明な人格。
キャンピングカーが、もう修理に時間も費用もかかるので、買い替えるように勧められるが、「この車は私なの。私の家、家以上の存在なの。」と言って、修理に修理を重ねる。車が死ぬときは彼女が死ぬ時だ。思い出の深い皿が割れてしまうと、新しい皿を手に入れようとせず、接着剤で直して使い続ける。どんなに気に入っているものが大切か、それだけは譲れない、自分のものを持っている。映画にはヒッピーも出てくる。家出少年も出てくる。彼らとの交流も互いに尊重しあいながら、決しておせっかいをせずに優しい。
人生は、すべて自己満足。人と比べず自分の価値観に従って生きれば。それが一番幸せな人生だ。
他人には何も求めない。他人に何かを期待すれば、執着心が出てきて期待がかなえられないと自分が傷つく。他人から与えられれば受け取るが、それ以上は期待しない。彼らの生き方は、托鉢で与えられた食べ物だけで命をつなぐ修行僧のようなストイックな生き方を思わせる。
孤独という、何にも代えがたい自由の喜びに満ちた生き方だ。とても勇気付けられた。孤独は怖くない。何という豊穣な世界か。
日本にもこのような漂流して生きていく老人が増えていくことだろう。
自分の未来と重なり
壮大なアメリカの景色と静かな音楽、ノマドになったファーンの心の動き、そこで出逢った人々との友情や現実に冷たい人たち、今のアメリカ社会問題は、他人事ではないと感じました。
心に残った場面の1つ目に、かつて先生をしていたときの生徒に偶然ストアーで出逢ったとき、ママから聞いたんだけど、先生はホームレスって、彼女が”Not homeless. I’m just houseless. Not same thing.”
HomeとHouseは違う意味をもっていると、確かに中学生のときに習ったと記憶しておりましが、再度家に帰り調べました。Homeは、我が家、ふるさと、帰る場所、心の拠り所で、そこには愛があります。Houseは、家というその物を指します。彼女には、Homeがあります。ホームがないのではなく、ただ家がないだけと言ったとき、ぐっとくるものがありました。
2つ目は、亡き夫との大切なお皿を割られたときの、彼女の怒りと悲しい感情。肩身で唯一、一心同体を感じていたのかもしれない。それをボンドで必死に直して、日本の金継ぎを教えてあげたくなりました。(やったことありませんが、いつかやりたいです。)
3つ目は、出逢った人々と別れるときに”See you down the road!”と、またいつか道で会おう!”と。
見終わった後は、これからどうして生きていこうかと考えました。
自分とオーバーラップするようで、まだ結婚経験もなく、働いていますが、いつか車中暮らしになるか、ノマドのようになるかもと感じました。そのときに、どれだけ強く生きていけるか?やはり、人との出会いがいかに大切かを身に沁みる感じがします。アメリカの道で車が止まり、走っている車を止めてもらい、バッテリーつないでもらったり、それからバッテリーのつなぎ方を覚えよくエンジンをかけた。人は一つずつ生きる術を覚えていく。またどこかで逢いましょう!落ち着いたら、またアメリカの田舎を旅したい。
マクドーマンドさん凄い
この手の映画が自分の趣味に合わないと分かっていて鑑賞しました。
映画としては抑揚がなく、楽しみ方が難しい映画でしたが、主演のマクドーマンドさんの
演技がすさまじいことだけはよく分かりました。
もちろん英語字幕で見たのですが、演技表情から表現したいことがよく伝わってきたような気がして、とても良かったです。
人生の豊かさって…
アカデミー賞候補ということは
関係なく、見たかった作品でした。
様々な理由から、家を持たず
車で放浪しながら暮らす人々を
描いています。
背負っているものも様々で、
毎日の暮らしもサバイバル。
多くを語らずとも
痛みも切なさもわかっている。
だからこそ、本当の意味での
ソーシャルディスタンスが確立され、
本当の思いやりで繋がっている。
約束をしなくても、また
必ず会える…そんなセリフに
現れているように思えました。
高齢でガンにおかされた仲間が、
以前見た景色を話す場面があります。
彼女は、その景色の中でなら
死んでもかまわないと思う程
美しかった、と…
そして彼女は、その景色に再び
会う旅に出ます。
それは二度と生きては戻らない
旅立ちとなることを覚悟をして。
お金の話や、ありふれる程の
物に囲まれ、不自由なく送る人生より、
死んでも構わないと思える程の
美しい景色に出会う事の方が、
どれほど豊かな人生なのだろうと
痛感させられました。
お金や物、生活環境ではなく、
心の豊かさが人生の豊かさに繋がる…
そんな事に気付かせてくれた
作品でした。感謝します。
素晴らしい!
ノマド的ではないノマドは、幸せなのかも・・・(欺瞞に気づく映画!)
いろいろな見方ができる映画だった。
「ホームレス」ではなく、あくまで「ハウスレス」。
でも、それを謳うことは、かえって幸せなのかとも思えてしまう。
ノマドはハウスを持つことはないが、ホームを探し続ける。
それは、彼らにとって、ホームを求める独りでいるこそが、実は幸せそのものなのかもしれないということだ。
孤独と孤立は、決定的に違う。
彼らは、それぞれのシーンで、孤独ではあったと思う。しかし孤立はしていなかった。
だから、それはある意味、アメリカの歴史に通じるものがあるだろうし、そしてまた、現在の人々にも、至る所に心の「レス」をもち続け、であるが故に、Chloe Zhaoは孤独をキーワードにストーリーを展開させていったのだと思う。
Linda MayもSwankieもBob Wellsも
Frances McDormand演じた Fernも、実は、「レス」ではあるし、ある意味、孤独なのかもしれないが、決して孤立はしていない。
だからこそ、見ているものにとっては、彼らノマド「可能な」人々は、もしかしたら、実はスノッブ的な生き方をしていると言えることになるのかもしれない。
「孤独」な生き方は極めて主体的であり、それは肯定的で、おそらくはこの映画評の多くがそうしているように、実に賛同的だ。
そうだろうか?
ノマドを選択している彼らは選択できたし、実際に選択したのだ。
しかし、現実はどうだろう。
映画の中にもあったように、選択できない、選択することを許されない「生」が実際にはある。
他の選択を許されない生き方しかできない人々がいる。
彼らは、スマホも、友人ももち得ていないし、Amazonは夢の世界でしかない。繋がらない・・・・のだ。
Chloe Zhaoが意図したのは、ひょっとすると、この極めて「アメリカ」的な映画から、その欺瞞性を指摘することではなかったのか?
ノマドを「ニュー・ノーマル」などと、ほとほと呑気に評している輩を見ると、どれだけアカデミー中毒になっているのかと心配してしまう。これは新しい生き方の賛歌では毛頭ないのだ。
それを、どこかに置き忘れた映画評は、まさに、あなたこそ「ノマド」的と評したい。
ノマドは、ある意味イデオロギーだし、その範疇内に留まれない「彼ら」がいることを忘れてはならない。
「最後のさよならがない」のは、それをいう必要がないからだ。
ノマドは、孤独ではあるが「安住の地」を「求めること」を約束されている。
しかし、ノマド的存在にもなれない人間をどう扱うことができるのか。
おそらく、この映画の真髄は、それを考えることにある。
くだらない「アカデミー」騒ぎではないところから、この映画を評することが必要だ。
映画の最終部、 Fernが開いた自らのホームの柵、扉は、まさにノマド的生活において自己隷属した自らの解放であり、ノマドとしてすら存在し得ない人々への「開き」ではなかったのか。
おそらくは、自らのノマド性を解放したときに、おそらくは、自らが求めるノマドらしきものが表象されて来るだろう。
もし、この映画が、そこまでを語ろうとしていたならば、「賞」に匹敵でするであろうが、このサイトに見られるような陳腐な評では、せいぜい「アカデミー賞」がいいところだろう。
そんな見方のできる映画であったということだ。
映画を観てから今までレビューを書いていない事をやっと思い出した。 ...
映画を観てから今までレビューを書いていない事をやっと思い出した。
ドキュメンタリーに近い映画。
日本でも最近自作キャンピングカーで移動しながら暮らすのが流行っている?けれど、そことは一線を画す内容。キャンピングカーで暮らす人々は、内面に様々な悩みや問題を抱えながら日々を暮らしている。
この映画、感想書くの難しい。
引き込まれる内容だったけど、書こうとするとただのあらすじをなぞるだけになってしまう(笑)
確か、主人公の女性以外は本当にそういう暮らしをされている方々だった気がする。
でも、過剰な演出があるわけではない無いからなのか、出ている人たちの言葉はスッと入ってくるものだったな。
ある程度歳を取ったからと言って気持ちの整理が上手くなる訳ではなく、悲しみや辛さを乗り越えるのにはやっぱり時間が必要なのだろうなと思う。
映像も美しく、素敵な作品だと思うけど、、、やっぱり上手く言い表せられない(笑)
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