「厳しい放浪の旅を通して人生を見つめ直す中年女性のドキュメンタリー風映画のロードムービー」ノマドランド Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
厳しい放浪の旅を通して人生を見つめ直す中年女性のドキュメンタリー風映画のロードムービー
ネバダ州の石膏採掘所がリーマンショックの長引く不況の末閉鎖され、エンパイアという町自体が消えてしまい働く場所と家を失ったファーンという中年女性が、夫の死を切っ掛けに小型ヴァンを改造してノマド生活を始めるロードムービー。標高4000フィートのネバダ州からアリゾナ州やバッドランズ国立公園があるサウスダコタ州、そしてネブラスカ州と愛車を長距離走らせ、年金の早期受給を拒否して採用難の中、自立した一人生活を維持するため季節労働を繰り返していく。アマゾンの巨大倉庫の梱包や国立公園の清掃員、ファストフードの厨房係や芋の収穫と、事務職や代用教員を経歴したファーンにはきつい肉体労働だが、けして挫けることはない。そこまで彼女を奮い立たせるのは何か。
ノンフィクション小説を脚色したこの物語で描かれたファーンの過去を知るヒントの一つは、車の修理に掛かるお金を工面するため姉ドリーの家を訪ねた時のエピソードにある。若い時から独立心が強く、自分の事は自分で決めてきた気骨のある性格は姉が感心し羨むほどと、二人の会話に表れている。ファーンを信頼する姉の表情が温かい。もう一つは、同じノマド仲間のデイブを遥々カルフォルニアまで訪ねて、同居を持ち掛けられた彼女が黙ってそこを去っていくところ。家にあまり居ず父親の役割を果たせなかったデイブが、今は父親となった息子とピアノの連弾をしているのを、偶然ファーンが見詰める。この間に自分が入って家族の一員としてやっていけるかを、翌朝皆がまだ寝静まった食卓の椅子に腰かけシミュレーションしている。その前日にはデイブの初孫を預けられて抱くが、どこかぎこちない。映画で説明はないが、ここで分かるのは子供を生んだことのないファーンの愛の対象が、夫に総て捧げられていたのではないかと想像できる。子宝に恵まれなかった夫婦程長く連れ添うほどに仲が良いという。理想的な相思相愛の夫婦だったのだろう。ホームレスではなくハウスレスと元教え子に念を押したファーンは、小さい時の家族写真と夫の写真を大事に車に積んで旅を続けていた。デイブら他人から見れば、夫を亡くした孤独な高齢婦人と見られるが、心の中では死んだ家族と一緒に生きていたのだ。これが、彼女の覚悟であり強さであったと思われる。しかし、映画のラストは、そんな自分を振り返ることで一つの区切りを付ける。貸倉庫に預けたものを全て処分して、過去を引きずるノマド生活から身も心も軽くした新たな人生の旅に出発していく。これからは以前には見られなかった笑顔がこぼれる生き方になって欲しい、と思わせるラストシーンだった。
クロエ・ジャオ監督は、脚本と編集も兼ねている。このノンフィクションドラマの演出の特徴は、実際のノマド生活者たちを登場人物として主人公と絡ませ、まるでナレーションのないドキュメンタリー映画を観ているかの錯覚をさせる。当然ながらその自然で飾らない演技は限りなく現実に近いものであろうし、更にドラマとしての過剰な演出を廃して、説明的なショットも大胆に省いている。淡々と話が進んでいくのに時に付いていけない時もあるが、全体のリズムを優先した手堅い演出であった。この省略で唯一心残りは、何百キロにも至る旅の困難さが映像に表現されていないこと。砂漠と荒涼とした大地の夕景は美しく撮られていて、アメリカ西部の乾燥した風土が感じられる映像の鮮明さが心に残る映画だった。
主演のフランシス・マクドーマンドは、原作に惚れ込んで制作者に名を連ねる意気込みが直に感じられる熱演を見せる。ノマドの過酷な生活描写では、排泄行為を2度程敢えて挿入しているが、女優もここまで演じなければならないのかと驚くも、特に必要性も感じなかった。氷点下の路上で車中泊する極寒の厳しさ、狭い居住空間を工夫した食事風景、常に節約を優先する放浪者仲間とのふれ合い、そして様々な肉体労働を黙々と務める姿で充分彼らの生活の大変さは説明され表現されている。演技面では、ファーンの姉ドリーを演じていた女優が短い出演だが一番印象に残る。個性の強いファーンに対して優しいだけのデイブを演じたデヴィッド・ストラザーンは、役柄で損をしていた。主人公だけを追跡したコンセプト故の人間ドラマの葛藤の物足りなさがそこにある。
この映画がアカデミー賞始め多くの称賛を得たことは素直に認めたい。経済大国アメリカに限らないであろう、平和な社会でお金儲けが人生の豊かさと経済発展してきた末の格差社会から落ちこぼれた人々にスポットを当て、その苦労を丁寧に記録した社会的役割を果たしている。この映画でノマドを知る意味は小さくない。だが、それを持って絶賛するまでにはいかなかった。再現度の高いドキュメンタリー風映画としての評価に止まる。それは人間の心の内に深く踏み込まない演出法にあるし、それ以上に、今の映画祭が表現力よりテーマ性を重要視している思想優位の偏りを感じているからである。