「ブラック&ホワイト・モーターハウス・ダイアリー」ノマドランド マユキさんの映画レビュー(感想・評価)
ブラック&ホワイト・モーターハウス・ダイアリー
スタンリー・コーエン、ローリー・ティラー『離脱の試み』では、ヒッピー文化の崩壊の一端が記述されていた。彼らヒッピーは、日常生活のルーティンからの脱出を望みヒッピー生活を始めたが、結局、ヒッピー生活のルーティンを逃れることはできなかった、と。
そう、人間はどんな生活をしても、ルーティンから逃れることはできない。と言うか、人の生活とはほぼルーティンの繰り返しだろう。『ノマドランド』では、企業の倒産で企業城下町の社宅から放逐されたファーンが、キャンピングカーで漂流のノマド生活を始める。彼女は、ある意味で社会から見放された存在だ。しかし、「現代のノマド(遊牧民)」として意志的に生きる決断をしてもいる。自由であるが、不自由でもあり、ルーティンもやはりつきまとう。だが、ファーンはノマドをやめない。
高齢である彼女には過酷とも見える季節労働や極寒の車上生活。「RV節約術」を提唱し、ノマドの集会を開いているボブ・ウェルズの下に大勢の車上生活者が参集するが、しかし持続的な相互扶助のコミュニティを形成することはない。英文学研究者の北村紗衣氏は「アメリカの伝統的なホーボー文化への憧れ」という文脈を指摘している。厳しい自然や生活が描かれるが、同時に奇跡のように美しい自然の姿も現れる。そこでは、西部開拓のフロンティア・スピリットが一瞬蘇るかに見える。しかし、現代資本主義というシステムは、フロンティアを自ら呑み込んだ怪物だ。
見田宗介は『現代社会の理論』において、システムは「必要の地平」とは無関連に離陸する、と説明している。現代のノマドもシステムの軛からは脱せない。車が壊れて修理代がないファーンは、遠ざかっていた家族に金を借りに行かねばならなかった。
本作は、ただ悲惨なだけではない、主に高齢者のノマド生活を描きながらも、たとえば新自由主義的に振り切った社会の実相をまざまざと見せつけてもいる。会社が消えれば、まるごと町ひとつがゴーストタウンとなる。そんな社会のささやかな「外部」は、希望なのか、否か。