ノマドランドのレビュー・感想・評価
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不可視な存在のさらに不可視な存在
アカデミー賞に多数ノミネートということで鑑賞。
女性のハウスレス(ホームレス)で高齢労働者といった周辺化される人々の中でもさらに周辺化される人を主人公にすることと資本主義経済の限界を描いたのが受けたのだろう。
ただ実際のノマドをキャスティングしてたなんてクレジットタイトルみないと分からなかったし(それだけ実際のノマドが物語に溶け込んでた。すごい)、風景もすごい美しかった。音楽の付け方もおしゃれだったな。
さらに最近注目されるギフトエコノミー(フリーマーケット)の描写もよかったな。これに資本主義経済を突破する契機があると思う。
またノマドをただ没落した人々と描くのではなく、生き生き描いているのもいいと思ったけど、それだけでいいんかな。
Amazonや工業化する農業、非正規雇用化する専門職(教師が非正規化していいのかな)、エッセンシャルワーク(清掃業)の非正規化つまり軽視で構成される社会とその社会で快適な生活を送る私たちに批判を向けなくていいのかな。まあそれは私が考えるべき問題だと思うが。
あと気になったのが主人公ファーンがノマドになる理由。故郷の喪失、夫との死別に伴う感情は簡単に理解もできないし共感もできないと思う。
ただ実家はあるし、姉は健在で仲は悪くない。好意をもってくれる人もいる。
そうするとウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』のチャンを思い出す。
チャンは香港出身であるが、旅に出てブエノスアイレスに行き着く。彼が旅できるのはいたって簡単だ。彼には香港にいつでも帰れる場所があるのだ。
ファーンもそうだと思ってる。本当に困ったらいつでも姉のところにいける。実際お金を借りているし。
そうなると本作のノマドは、資本主義経済に疲れたから自由に生きる人々、ただしもし困り事があればいつでも帰れる場所がある人々になってしまってる。
それはなんかノマドを分断している気がする。私たちが目を向けないといけないのは映画によって不可視化されるノマドな気がする。
ここらへんは、原作も読まないといけない気がする。
ファーンの横顔
ファーンの心残りが記憶に変わるまでの旅だと思った。居場所が消されてなお、夜空の下、岩と岩の間、せせらぎの中、人間の領域、地上の全てを住処とする彼女のしなやかさ。人を求め、人との会話を自身の居場所にしてしまう人懐っこさと柔らかさ。ファーンは水のような人だとも思った。いろいろな感想が次から次に出てきた。それらすべてをかみしめながら、でも、ファーンの横顔をずっと見ていたかった、と一番強く思った。
肉は無く皮膚はたるみ、深い皺がはしる半月のような横顔。実際、横顔が多かっとは思わない。けれど、夜明け前や夜になりかけの紫色の世界をうつむき加減に歩き、おんぼろ車だけど「ここに住んでいる」と真剣に訴え、フィルムを覗き帰れない時間をじっと見る。岩と岩の間を楽し気にさまよい、かつての家のキッチンに立ち、運転席でハンドルを握る。印象に残っているのは、いろんな表情を乗せる、灰色の半月のようなファーンの横顔ばかり。
それはきっと、横顔は隣に立たないと見れない顔だからかと思う。友人や親しい人にしか許されない「すぐ隣」というポジション。そこに立てた気になるから、ファーンの横顔が特別なものとして印象に残っているんだと思う。
彼女のこの旅はある意味で、住んでいた街が消されて、家族との思い出も友人たちも街への愛着も心に重く残したまま旅に出ざるを得なかったファーンが、そのわだかまりと喪失感を、消えやしないけど思い出としてしまい込むまでの、記憶として消化するまでの時間だと思う。彼女がスクリーンに横顔を見せるたび、観客である私たちは「いち友人」として隣に立って旅をしている気分になる。だから、彼女の横顔をずっと見ていたい。つまり、一緒に旅を続けたかった、と思うのだ。
ホームレスじゃないわ。ハウスレスなの
これぞロードムービー。
家を失い、夫を失いキャンピングカーで季節労働をしながら生きるファーン。美しくて過酷なアメリカの大自然をめぐる旅路(都会はキャンプしにくいからね)とその道すがら出会う「ノマド」の人たちが辿った人生の旅路。
どこから来たのかよりもどこへ行くのか。
身軽でいいわね、という一言にファーンの表情が硬くなる。身軽なのは物だけ。
車に積めなかったものは心に重く詰めこまれているに違いない。
フランシスマクドーマンドの自然な演技がノマドの人たちと溶け込んでいて、ドキュメンタリーのような仕上がり。
大きなスクリーンでご覧になることをおすすめいたします。
やはり死に方を考えるということは生き方を考えるということなんやな。
リンダメイはどこまで行けたのかな。
「独りよがり」に見えるノマド生活。
◯作品全体
さまざまな経緯があって家を持たないノマドたちは、短期間雇用の労働者として職を探し、転々と生活場所を変えなければならない。衰えた体とも向き合わなければならず、なかなか見つからない職を探しては日々の生活を乗り越えていく。序盤のドキュメンタリーチックなストーリーとカメラワークは、自由人に見える彼らたちの「つらい現実」の側面を切り取っているように見えた。
だからだろうか…主に後半で語られる主人公・ファーンがノマドでいる理由が、ノマド以外の選択肢がないからでなく、「夫と過ごした地が忘れられないから」、「親族とそりが合わないから」であるということに、「独りよがり」という印象を受けた。別の選択肢が提示されたうえで「自分が選択した現実」であるならば、そこに悲壮感を持たせるのは演出のミスリードだと感じる。孤独を強調するように登場人物と距離があるカメラワークや、車上生活の寒さやつらさを象徴した寒色に覆われた画面は「前を向いて生きるファーン」を映すというよりも、つらさが強調されているような気がしてならない。なぜその空間に居続けるのか、という部分を語られなければ、そのつらさが理不尽に映るだけだ。
ファーンの行動は前向きなものが多いが、車上生活をする上で必要なスキルを習得しようとしなかったり、その結果として周りの人に修理代を無心する姿は「自分が選択した現実」に挑む姿として一貫性がなく、「独りよがり」の印象を強くするだけのエピソードだった。演出意図としては自分ではどうすることもできない状況を作って、理解者である姉と接近し、ファーンの過去や考えを掘り下げたかったのだと思う。しかし、自ら親族と雰囲気を悪くし、姉の希望にも応えようとせずお金をもらって帰っていく姿は「独りよがり」だ。ファーンは夫や安住の地、そしてノマドの仲間たちから取り残され、「独りぼっちになる」という演出が多々ある。仲間が乗ったバンを見送るシーンを何度も見せているのがその証左だ。しかし、姉から「ファーンがいなくなって寂しかった」という告白があり、ファーンも「独りぼっちにさせた」一面があったという構図は膝を打ったが、結局それをないがしろにして姉から去っていく展開は、やはり「独りぼっち」ではなく「独りよがり」の存在に映る。
独りで放浪しつつ夫と過ごした思い出の地を眺め、今までと同じように車を走らせる姿は虚無そのものだ。凝り固まった「独りよがり」をそのままに、どうにもならなければ姉のもとへ行き、再び放浪することを繰り返す。自分を必要とする場所=居たい場所ではないというのはわかるけれど、自立しなければ「定職につかず、貯金もしないが親を頼って生きる子供」とやっているのことはかわらないのではないか。若ければ夢を見れるが、老人がそれをやっているのでは、やはりそれは虚無だ。しかしその虚無も姉に手伝ってもらっての虚無なのだから、偽りの虚無に感じて冷めた目で見てしまう。
救済措置があること前提で高リスクな生活を望んで過ごす様子は、さながらバンジージャンプのようだ。そう感じてしまうと、本作で描かれるノマド生活は「リアリティ」と「フィクション」、どっちつかずに見えてしまう。
◯カメラワークとか
・コントラストが弱い画面は風通しの良いアメリカの景色とよく合うな、と思った。孤独の演出としても使えるし、自由の演出としても使える。歴史も浅いから急造の街に嘘くささがない。
◯その他
・個人的な好みの話として、ノマドとしての生活を描写するのであればドキュメンタリーを撮ればいいと思うし、ノマドを通したドラマを撮りたいのであれば過酷な場所に身を置く主人公の覚悟が見たかった。自ら身を置いた生活の中でもそれを徹底できない中途半端さは人間臭いし、それはそれでちゃんと人間を描写してるとも言える。見たくないものを見せてくれるのもそれはそれで映画の良いところだけど。
厳しくとも、矜持を持って凛と生きる
アメリカも日本も高齢者が子供を頼らず、1人で生きていくのは厳しい。年金だけではやっていけないから。 離婚や死別でさらに大変な経済状況の人も多い。高齢でも働かないといけない。
そんな人たちの中で、少しでも経済コストを下げるために家を捨て「ノマド(≒車上生活)」という生き方を選択する人たちがいる。その人達をとりあげた映画。
しかし高齢者にはトイレ掃除や工場勤務や採掘場しかないのか。。ないんだよな。
でもこの映画の老人たちは悲壮感なく、明るく働いていたのが印象的だった。時にはトイレ掃除中に我慢できない男性が入ってきたりしてムッとすることはあるけれど、総じて仲間と声を掛け合って明るく前向きに汗を流していた。「そんな仕事」と思った自分が恥ずかしかった。 気にしてない。まったく気にしてない。強い。
ソーシャルワーカーが「年金を申請すれば?」と奨めても「働きたいの。」と毅然と言い放つ。
そう、重要なのは経済上の理由からだけで選択しているのではないということ。主役のファーンは姉のところなど身を寄せれるところもある。なのになぜこの厳しい生活を選択するのか?
ファーンの姉が言う。
「あなたは変わり者と周りは言うがそうではない。単に心の声に正直で勇敢なのだ。羨ましかった。」
金や安定のために自分の本音を犠牲にしたくない。心の声に正直に生きていきたい。暖かい家と温かい餌のために我慢して檻の中で汲々として生きるのではなく、厳しいけれども矜持をもって狼のように自由に生きていきたいという信念がある。
この矜持はファーンだけでなく、ノマドの高齢者に共通してみられた。素直にカッコいい。
台詞でみせる映画じゃないが、所々に刺さる台詞があった。うろ覚えだが備忘録代わりに掲載する。
・ホームレスじゃない。ハウスレスよ。(ファーン)
・若いころは馬車馬のように働いて、齢をとったら捨てられる。(ノマドライフの指南者ボブ)
・年金が550ドルしかない。どうやって年金だけでやっていけるの?(ノマドの女性)
・夫は定年を楽しみに働いていたのに直前にガンになり亡くなった。尽くしてきた会社も冷酷な対応だった。だから今を生きると決めた。(ノマドの女性)
・どんな美しいものも、いつかは衰える。
・たくさんの美しいものを見てきた。この瞬間に死ねたら、幸せ。(スワンキー)
・この生き方が好きなのは、最後のさよならがないからだ。いつも“また路上で会おう”だ。(ボブ)
ファーン役のマクドーマンドはなんというか女性なんだけれど「かっこよい。」
スタイルがよく、また着こなしもいい。おしゃれだ。佇まいで魅せれる女優だ。
(ちょっとウィルアム・デフォーに似ている。。)
※
途中眠気を感じた。台詞の少ないロードムービーで、且つ事件らしい事件も起きないし、全編に心地よい音楽と素晴らしい風景が流れているからうたた寝するには申し分ない。ただ映画としてはあまり褒めれることではないので0.5 を差し引いた。
年老いたノマド達の矜持ある孤独
アメリカの広大な自然の中、季節労働をしてはバンで移動しながら暮らす高齢のノマド達を、静謐なタッチで描く作品。
主要キャストは、F・マクドーマンドとD・ストラザーン以外は俳優ではなく、本当のノマド達だ。彼らが雑音としての素人っぽさを全く感じさせず、マクドーマンドに引けを取らない存在感でしっかり物語の骨組みになっていることに驚いた。
一方で、物語全体にドキュメンタリーと見まごう雰囲気が漂っていて、不思議な感覚になった。役の人物が過去に背負ったものを滲ませながらリアルノマドに溶け込む、マクドーマンドの魔法だ。
原作の著者、ジェシカ・ブルーダーのインタビューを読んだ。映画への反響は、悲観的なものと、希望を感じるものと両方あるという。
鑑賞中は、大自然の美しい眺めに癒され、主人公のファーンと道ゆくノマド達との程よい距離感のある交流に心地よさを感じ、人生の暗喩のようなノマドの道行きに意義を見出せる気がした。
しかし観終えた後、私はささいで優しいエピソードの狭間に覗くあまりの孤独感に心がつらくなってしまった。同時に、終始淡白な描写でありながらこういう重い感情を惹起するこの映画の効きの強さを感じた。
ファーンは不況の煽りで勤め先や家を失い、夫も病気で亡くしている。彼女は経済的にノマドにならざるを得なかった側面があるとともに、積み上げてきた生活を時勢の流れで失い、大きな空洞を抱えた心もまた彷徨っている。
自由な人生を送るための縛られないライフスタイルというより、落ち着く場所を失った心のバランスが、絶えず彷徨うことによりぎりぎり保たれているような哀しさを感じた。
定住の選択肢が見えてもファーンがそれを選ばないのは、そんなかろうじて保たれているバランスが崩れることへの恐れや、安定した環境で何かを積み上げても、またかつてのようにあっけなくそれらが失われるともう耐えられないと思うからかもしれない。
本来は定住生活においても、永遠に失われないものなどない。ただ、安定した生活は何かを失う覚悟を鈍感にする。
流浪の生活では、別れが常に身近にある。でも、流転し続けるからこそ再会の希望も持てる。喪失の覚悟が常に出来るし、絶望は和らげられる。
ノマドの生活に本当のさよならがないというのは、無常を正視し続けることと引き換えの救いだ。そのような覚悟なしにぬるく生きている私の心に、そんな生活を選んだ老年期のファーンの修復し難い孤独がひりつくように沁みた。
美しい風景の中のラストに希望を感じるか、静かな絶望がその先も続くように見えるかは、見る側の心のありよう次第なのだろう。
ブラック&ホワイト・モーターハウス・ダイアリー
スタンリー・コーエン、ローリー・ティラー『離脱の試み』では、ヒッピー文化の崩壊の一端が記述されていた。彼らヒッピーは、日常生活のルーティンからの脱出を望みヒッピー生活を始めたが、結局、ヒッピー生活のルーティンを逃れることはできなかった、と。
そう、人間はどんな生活をしても、ルーティンから逃れることはできない。と言うか、人の生活とはほぼルーティンの繰り返しだろう。『ノマドランド』では、企業の倒産で企業城下町の社宅から放逐されたファーンが、キャンピングカーで漂流のノマド生活を始める。彼女は、ある意味で社会から見放された存在だ。しかし、「現代のノマド(遊牧民)」として意志的に生きる決断をしてもいる。自由であるが、不自由でもあり、ルーティンもやはりつきまとう。だが、ファーンはノマドをやめない。
高齢である彼女には過酷とも見える季節労働や極寒の車上生活。「RV節約術」を提唱し、ノマドの集会を開いているボブ・ウェルズの下に大勢の車上生活者が参集するが、しかし持続的な相互扶助のコミュニティを形成することはない。英文学研究者の北村紗衣氏は「アメリカの伝統的なホーボー文化への憧れ」という文脈を指摘している。厳しい自然や生活が描かれるが、同時に奇跡のように美しい自然の姿も現れる。そこでは、西部開拓のフロンティア・スピリットが一瞬蘇るかに見える。しかし、現代資本主義というシステムは、フロンティアを自ら呑み込んだ怪物だ。
見田宗介は『現代社会の理論』において、システムは「必要の地平」とは無関連に離陸する、と説明している。現代のノマドもシステムの軛からは脱せない。車が壊れて修理代がないファーンは、遠ざかっていた家族に金を借りに行かねばならなかった。
本作は、ただ悲惨なだけではない、主に高齢者のノマド生活を描きながらも、たとえば新自由主義的に振り切った社会の実相をまざまざと見せつけてもいる。会社が消えれば、まるごと町ひとつがゴーストタウンとなる。そんな社会のささやかな「外部」は、希望なのか、否か。
誇りとやせがまん
「武士は食わねど高楊枝」という言葉が日本にはある。これは、前向きに解釈すれば、金はなくても心までまずしくなることはない、となるが、後ろ向きに解釈すれば「やせがまん」だ。大抵の人間はどちらかに割り切れるものではなく、その両方の中で心が揺れ動いてものだろう。この映画にはそういう揺れ動く気持ちが描かれている。
生活していた町が失われ、車上生活をする主人公。職を求めて転々と流浪の暮らしをつづける彼女は、ホームレスではなくハウスレスだという。同じような生活をする人々が、そのような自由を求めて生きる「ノマド」と呼んで誇らしく装って見せる。ある人はノマド生活から家族の家に戻り快適な暮らしを手に入れる。ノマド時代より、明らかに健康そうで幸せそうだ。
そして、社会を捨てて生きる彼ら・彼女らは、本当に自由になれているのか。主人公は自分で行き先を決めているようで、実際には短期の職があるところを目指して移動している。アマゾンのような巨大企業は、彼女のような社会からドロップアウトした人間すら、システムの一部として組み込んでいる。
大晦日を一人で祝う彼女は、自分を卑下しない。格差の下に追いやられても誇りは失わないのは、人間として立派だ。しかし、やせ我慢も明らかに混じっている。混沌とした感情が叙情的な映像で綴られる。礼賛も格差批判もこの映画にはピタリとはまりにくい。この映画は、主人公とともにやせ我慢と誇りの両極を一緒に揺れるように観るのがいいんだろうと思う。
クロエ・ジャオという才能を思う
クロエ・ジャオの才能に前作『ザ・ライダー』でぶっ飛ばされた者としては、いささか呑み込みにくい映画ではある。『ザ・ライダー』でも取り入れていた、自然の中に素人の俳優たちを置くというアプローチがここでも功を奏しているから。ただ、『ノマドランド』は先に原作があり、映画化権を取得したフランシス・マクドーマンドから依頼されて監督に就任していることもあり、企画をどう料理するかという試行錯誤の中で、得意の演出アプローチに寄せていったように感じる。というのも、同じリリカルな大自然の描写も、ただただ詩的であった『ザ・ライダー』と比べると、より理屈に裏打ちされた表現に見えてしまう。いい悪いの問題ではなく、受ける印象として、前作の表現の方が純度が高いのだ。
もちろんジャオは、プロの監督としてオファーを受けて、自分の得意分野の中でいい仕事をしたに過ぎない。上記のような戸惑いは、ジャオの過去二作を観ていない観客にはまったく関係のないことだし、別にわざわざ予習復習をして比較する必要もないことだと思う。『ノマド』はいい映画だし、実際高く評価されていてアカデミー賞も狙えそうだけど、個人的には『ザ・ライダー』も観て欲しいですという気持ちを、もしこれを読んでくださる方がいらっしゃるなら、ひっそりとお伝えさせてください。『ノマド』が気に入った人にも、少し座りが悪いと感じた人にも、本当におススメですので。
(どうしても一件、これも好き嫌いの問題かも知れませんが、『ノマドランド』の音楽はちょっと饒舌すぎて、大切な瞬間を時々ぶち壊しにしているように感じます。もったいない。)
Worthy Transcendental Cinema
Nomadland might not have meant to be the critical hit it was, but in a worldwide crisis, the character central to this story doesn't feel so far off. There isn't much story to extract here--rather it's a day in the life on the road comparable to journey in Into the Wild. Zhao's editing is the best part, providing snippets of everyday life--making you believe your own world could be a hit movie.
静かなる圧倒。時代の変わり目に立つ一作
静かな圧倒が押し寄せ続けた。観る者の人生や価値観を揺さぶる、忘れがたい2時間だ。本作には都市部やビル群がほぼ姿を見せない。登場するのは延々と続く道。天然の石、大自然の公園、恐竜のオブジェ。その渦中で、人は誰かの生き方に合わせる義務もなければ、貨幣経済に縛られる必要もない。眼前に広がる果てしない風景は時に寂寥感に覆われることもあれば、希望を感じるほど光に満ちることもある。大切な皿はいつか割れて大地の一部と化す。その全てを抱きしめながら、自らの手で選択を重ねて、アメリカ国土を移動していく主人公。我々もまた旅路に沿って、彼女の心の内側を、まるで地層ふかく降りていくかのように自ずと受け止めることとなる。そこで芽生える、表現しようのない共振。そういえば『ミナリ』もどこか「開拓時代」を思わせる物語だった。何かが確実に変わり始めている。時代と映画との鏡面性を、これほど強く意識させられたことはかつてない。
切実な事情とある種の悟りが、現代の遊牧民を生む
フランシス・マクドーマンドが演じるファーンは創作されたキャラクターだが、彼女が流浪の先々で出会う車上生活者たちは本人が自分の名前で出演している。“出演”という言葉も適切ではなく、彼らはただ、カメラの前でありのままの自分で存在し、ファーンとの対話の中で自らの人生や暮らしぶりについて語る。クロエ・ジャオ監督はノンフィクション本をベースに、ドラマとドキュメンタリーを組み合わせたハイブリッドな映像作品を生み出した。
ファーンは夫に先立たれ、リーマンショックの余波で住み慣れた家も町も失い、キャンピングカー暮らしをスタートさせる。Amazonの商品倉庫での仕分けや、オートキャンプ場での雑用など、短期労働で当面の生活費を稼いではまた移動する生活。実在する現代のノマドたちも出発点はたいてい切実な事情だが、家や土地、地縁に縛られない生活は、近代の管理社会で私たちが自明のように受け入れてきたさまざまな束縛からの解放を実践している面もあり、ある種の悟りの境地に達しているようでもある。ファーンに誘われてアメリカ西部の荒野、森、海といった広大な大自然を目にすることで、この地球上にたった一人で立つ感覚を少しだけ取り戻せるはずだ。
「ホームレス」と「ハウスレス」は違うということを「ノマド」から学べるロードムービーの傑作。
私は本作を2020年9月のベネチア国際映画祭で金獅子賞(最高賞)受賞の際に知りました。その際、メイン画像を見たら条件反射的に「あ、これはアカデミー賞にノミネートされる作品だ」と察しました。というのも、名作「スリー・ビルボード」でアカデミー賞の主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドが雰囲気良くドーンと出ていたからです。
その後、本年度アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞、脚色賞、撮影賞、編集賞と主要6部門でノミネートされました。
ただ、実際に作品を見てみたら驚きました。「スリー・ビルボード」とは全く作風が異なっていたからです。
どちらもシリアス系ではありますが、「スリー・ビルボード」はセリフの応酬などが本当に魅力的な作品でした。その一方で本作「ノマドランド」はロードムービーの良作でした。
次に驚いたのは、本作のベースは「ノマド 漂流する高齢労働者たち」というノンフィクションが原作となっていたことです。
日本だとピンと来ませんでしたが、アメリカの場合は地方の大企業が破綻すると、郵便番号さえも無くなるなど、文字通り町が消えてしまうようです。
そしてフランシス・マクドーマンド演じる主人公は、長年住み慣れた住居を失い、キャンピングカーを住居として生きていきます。
ここで大切なのは、いわゆる「ホームレス」ではなく、あくまで「ハウスレス」だということ。
この2つは、一緒にされがちですが、実は異なっていて「ハウスレス」は「経済的困窮」を意味していて、 「ホームレス」は家族、友人の絆が切れた人々のことを意味しています。
つまり、「経済的困窮」のため季節労働の現場を渡り歩きながら車上生活を送っているわけです。
この「ノマド(遊牧民)」の多くは高齢者で、悲しみや喪失感を抱えています。
ただ、ノマドの良さは、別れ際に「またどこかの旅先で」と、人々との絆が切れない点にあります。
このように本作は、ノマドという世界で大自然の映像美と共に人々の交流や生き様を描いた名作となっているのです。
大都会の片隅で生きる人々にお勧めしたい"ハウスレス"という価値観
昨秋、ヴェネチアとトロントの各映画祭で最高賞に輝いて以来約半年、その間、配信系の有力作が次々と参戦して来たが、依然として賞レースを先頭で引っ張るパワフルな1作。筆者もこれを観てから3ヶ月以上経つのに、頬を撫でるような映画の空気感はいまだ皮膚にこびりついたままだ。ヒロインのファーム、及び登場するノマドたちの、家に定住せず、かと言ってホームレスではない"ハウスレス"な生き方にも大いに触発される。我が家に住まい、定職に就き、家族と共に生きる人生はそれなりに価値はあるだろう。でも、たとえ家を持たなくても、仕事は行き当たりばったりでも、孤独でも、いつも心の中に家族の記憶を留めたまま、荒野を流離うことの潔さに、不意を突かれた気がするのだ。もしかして、定住することの方が、返って変容を余儀なくされているのではないか?という疑問に駆られるのだ。だから、これは我々に家族との関係性について再考を促す、偶然とは言え、コロナ禍に現れた観る必要がある映画。大都会の片隅で、1人淋しく故郷を思いながら過ごしている、日本のどこかにいるに違いない人々に、心からお勧めしたい。
テレンス・マリックの後継者たる女流監督による名作
アメリカには、定住しないノマド生活を好む人がけっこういるんですね。凄く興味深かった。エンドロール眺めて気づいたのは、キャストの役名がリアルな実名だったこと。ほとんどの出演者は、俳優じゃなくて一般人なんですね。主演のフランシス・マクドーマンドは、プロデューサーも兼ねています。彼女がどうしても作りたかった映画だとお見受けしました。オスカーの最優秀主演女優賞は最有力でしょう。
クロエ・ジャオ監督の映画は初めて見ましたが、映像でポエムを詠む感じが素晴らしい。彼女のインタビューを読むと、テレンス・マリックからの影響について語っていますね。なるほど、納得です。撮影監督のジョシュア・ジェームズ・リチャーズの名前も覚えておこう。
とてもじゃないが、ノマド暮らしはできそうにない
旅をしながら生活する、なんて聞くと格好良いが、愛する夫が亡くなり、夫の愛する街が国によって閉鎖され、やむを得ずの放浪の旅である。
それも古いバン旅用に改造したものの、新しいバンを買う方が安いくらいの価値しかなく、修理するお金もままならないで妹にお金を借りるほどギリギリの生活。怪我や病気になって働けなくなったら簡単に詰むだろう。
なんといっても排泄物の処理がバケツという時点で、マド暮らしは自分には無理寄りの無理だと痛感した。トイレないのは屋根がないのと同じくらいきつい。
女性監督の映画だからか、女性の一人旅というと無駄なセクシーショットが挟まれたりすル琴も多いのだが、そういったシーンが一切なくて安心する。無理に綺麗に見せようとしない自然そのままのくすんだ空と海が美しい。
主人公のファーンは前向きではコミュ力も高く、どこへいっても他のノマド仲間ともそこそこ上手くやれている。60過ぎて体力的にきついだろうアマゾン倉庫の仕事も懸命にこなしている。妹やノマド仲間など、彼女を気にかけてくれる人も多い。
ファーンに好意を抱いているノマド仲間の男性も、息子夫婦の家で孫の世話をしながら、一緒に住まないかと誘ってくれる。息子夫婦も了承済みでいい人達のようだ。ここに留まったら屋根のある生活が出来るし病気や怪我したときに頼れる人も居る。それでもここは自分の場所ではないとファーンはまた旅立つ。
かつて夫と暮らしたフェンスで閉ざされほこりまみれになった砂漠の家を眺める。
もう帰る家が亡いことを再認識し、彼女はまた旅に出るのだ。
アマゾンプライムがしつこいほど、勧めるから…
アマゾンプライムのおすすめにしつこいくらいでてくるものだから、根負けして鑑賞した。
始めの場面でアマゾンで働く姿がでてくるので、そういうことかなと思ったけど、この映画はアマゾンの宣伝になったのだろうか?
貧困のゆえに、車上生活をせざるおえない人々を描いた映画で、アメリカ社会の矛盾をつくものだと感じていたけど、話しが進むにつれてそれだけではないように思えてきた。
アメリカでは、開拓精神と呼ばれる、自己責任論的が根強く、皆医療保険すらない社会では、ノマドと呼ばれる、このような人々は負け犬と見做され蔑まされてしまうのかもしれない。
だから彼らの名誉を守るため、またアメリカ社会で共感を得るために、普通の暮らしを望めばできるが、あえて、ノマドを選んだ、誇り高き遊牧民的精神の人びと的な描き方をしているのだろう。
主人公に心を寄せる初老?の男性が、急病で入院、手術を受けるシーンがあったが、支払いはどうしたのだろうと思った。車上生活者に、そんな高額医療費を払えるはずがないし、病院も相手にしてくれないだろう。結局は、サブプライムローン不動産で大儲けした息子夫妻に援助を頼んだのだろう。そして息子が迎えにくることになった。彼は、普通の暮らしをすることはできたが、あえて、ノマドを選んだということを言いたいのだろう。
主人公もきっと、旦那の闘病生活で、貯えをすっかり吐き出してしまい、今の生活になってしまった。でも、姉に頼れば、普通の暮らしは十分可能だったが、あえて、ノマドという、誇り高い?生活を選んだということを言いたいのだろう。
異民族の寄せ集め国家のメンタリティーは日本人にはわかりにくい。映画は、かっこよくまとめたけど、本質はどうなのだろうか。自分には、拝金主義のアメリカというイメージが強いけど、実は、そんなことはないということを描きたかったのか、それとも、拝金主義に対する大いなる皮肉なのか。
アマゾンは、貧しい人々に職を与えていると前向きに考えるか、安い労働力で大儲けしていると見るべきなのかどちらだろう。アマゾンプライムがしつこいほど進めるし、アマゾンが撮影を許可したところをみると、アメリカでは、前者の考えが主流なのだろう。
原爆投下をいまだに正当化する人が多い社会だからね、力(お金)が正義ということなのだろう。
存在証明の根拠
ノマドの人々の暮らしや望みなどを大量消費社会と対比させながら描き出す本作は、ドキュメンタリーのような映像とフランシス・マクドーマンドの好演により中々見ごたえのある良作だった。(眠くなった人も多いようだが)
クロエ・ジャオ監督はMCUの「エターナルズ」も観たけれど、何でも撮れる人ではなさそうだ。本作のような地味なしっとり系だけが抜群にマッチするように思えた。
ノマドの人々と大量消費社会の対比とすでに書いたが、過剰な消費をしないノマドの人々は、特に大量消費社会を毛嫌いしているわけではないし、むしろその社会の隅っこに間借りしないと生きられないことろが面白い。共存している感じだろうか。
ほとんどのパートをこの対比であり共存でもある描写に費やしているが、物語の焦点となるのは、なぜノマドをしているのか?である。
人によって理由は様々だ。過去から逃げたい人、縛られる生き方を嫌う人、目的のためにあえてそうしている人、他に選べることがなかった人。
そんな中で、フランシス・マクドーマンド演じる主人公ファーンの理由とは?が物語の軸となる。
多くの人はアイデンティティの証明に血統か土地を使う。誰々の息子誰々とか、どこどこの誰々などだ。日本の時代劇が分かりやすい。〇〇藩井坂兵庫が嫡子左門、などと名乗るのがアイデンティティの証明だ。
では、ファーンのアイデンティティの根拠とは何だ?。ファーンは、この土地と、夫の妻であったことがアイデンティティの根拠だった。
しかし、住んでいた町は町ごと消滅。夫は亡くなってしまった。
それでもその残骸にしがみつこうとする行為がノマドなのである。
人によっては古いアイデンティティを簡単に捨て新しい自分になれるのだろうが、ファーンはそうではなかった。
町を捨てることは夫との思い出を捨てる行為のように思えたかもしれないし、それを捨てることは自己の消滅を意味したのかもしれない。
物語は、過去のアイデンティティの消滅を恐れるファーンに、新たな拠り所が生まれるものだ。
新しい自分を鮮明に描けるところまできている。あとはほんの少し手を伸ばすだけ。
彼女の選択は曖昧なままエンディングを迎える。今までの選択の再確認なのか、過去との惜別なのか。昔、夫と二人で暮らしたであろう廃墟となった社宅から外へ出ていくファーンの姿は、何を選んだとしても、とても尊いものに見えた。
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