アイダよ、何処へ?のレビュー・感想・評価
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題材にするだけでも大変だろうが‼️❓真実がわからないもどかしさよ❓‼️
この映画を観ても、どうして虐殺が起きるのかはわからない。
何故なら、市民の視点しかわからないから。
今のウクライナの現状の報道も真実はわからない、わかるのは先に攻撃したのはゼレンスキー、報道の内容は欧米に統制されていること。
虐殺は、今も、アフリカ、中東、中国、で現在進行形
自由の国アメリカですら、最近まで虐殺していた、イラクに原因とした兵器も無いのに。
ただ、こんな映画でも、関心を示す意義は多大です、風化させないために。
そして国連の無力さを思い知るためにも、是非。
恐ろしい
U-NEXTの新規入荷にあったので見ました。
スレブレニツァの虐殺を描いた映画。
知らなかったので調べました。
『1995年7月11日ごろから、セルビア人勢力はスレブレニツァに侵入をはじめ、ついに制圧した。ジェノサイドに先立って、国際連合はスレブレニツァを国連が保護する「安全地帯」に指定し、200人の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊がいたが、物資の不足したわずか400人の国連軍は全く無力であり、セルビア人勢力による即決処刑や強○、破壊が繰り返された。
その後に残された市民は男性と女性に分けられ、女性はボスニア政府側に引き渡された。男性は数箇所に分けられて拘留され、そのほとんどが、セルビア人勢力によって、7月13日から7月22日ごろにかけて、組織的、計画的に、順次殺害されていった。殺害されたものの大半は成人あるいは十代の男性であったが、それに満たない子どもや女性、老人もまた殺害されている。
ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方の分からない人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている。』
(ウィキペディア、スレブレニツァの虐殺より)
安保理が定めた安全地帯に2万を超える避難民が集まってきます。そこはただの倉庫で食糧も水もトイレもありません。オランダ軍のPKOは武装しているものの本体からの支援が得られず傍観者も同然になっています。したがって避難民の運命は将軍をふくめ全員が暴徒化したセルビア人の雑兵に委ねられます。
『ある生存者によると、平和維持活動中でありながらこの状況に対して何もすることができずにいるオランダ人国連軍兵士のすぐそばで、子どもの断首、女性の強○が行われていたと述べている。この人物によると、あるセルビア人兵士が子供の母親に対して、子供を泣き止ませるよう命じた。子供がその後も泣き続けると、セルビア人兵士は子供を取り上げて咽喉を切り、笑ったという。強○や殺人の話は群集の間に広まり、彼らの恐怖を一層激化させた。難民の中には、恐怖のあまりに首をつって自殺を図る者もいた。』
(ウィキペディア、スレブレニツァの虐殺より)
主役/視点は国連軍が通訳として現地調達した教師のアイダです。原題はQuo vadis, Aida?。そんなタイトルのローマ史劇がありましたが「クォ・ヴァディス」とは「主よ、何処へ行かれるのか?」という意味だそうです。
リアルで打たれますが食欲をなくす種類のむごい話です。ご覧になるのをお薦めしません。じぶんも「見なきゃいけない」というある種の義務感にかられて見た──に過ぎません。
見なきゃいけないという気持ちになっていたのは、いうまでもなく今、ロシアのウクライナ侵攻(2022/02/24~)が行われているからです。
侵攻の初端でゼレンスキ―大統領が「みんなも戦ってくれ」とか「火炎瓶をつくってやっつけろ」とか、呼びかけていたのに、じぶんは驚きました。現代戦に対して、また圧倒的な兵力差に対して、無邪気な気がしたからです。
もし日本だったらこのような呼びかけをしないと思います。「命を守る行動を取って下さい」とか、言うと思います。
戦中なら「竹槍をつくって敵を撃退しよう」と呼びかけたかもしれませんが、今のように長く平和を享受してきた社会/国民に対して、いっしょに戦おう──なんて言うはずがない、と思うのです。
ただし、露・ウの状況を注視してきて、その間に、民間人が亡くなったり、住宅や非軍用の施設が爆撃を受けたり、地下で少女が泣いている画がでたりした後では、ゼレンスキー大統領の初端の呼びかけ「いっしょに戦うんだ」も総動員令も理解できました。
いや、むしろ戦わないでどうする?国の興廃はこの一戦にある──。ゼレンスキー大統領は端から、既にその決意を持っていたはずです。
だけど戦争の恐ろしい部分は(わたしは(もちろん)戦争について一切知りませんが)──戦争の恐ろしい部分は、どちらかが武装解除された後の蹂躙だと思います。
戦争の恐ろしい部分は「わかりました。でも約束は守って下さいよ」と言って武器を捨てたあとに、相手の腹に渦巻く闇──だと思います。
この映画はそれを描いている。と感じました。
すごかった
国連軍が全くあてにならない。全然やる気がなく、それが世界の現実みたいだ。あてにするとバカを見るので、危機が訪れた場合は極力誰もいない山に、食料とサバイバル用品を車に積んで逃げて誰にも会わずに落ち着くまで引っ込んでいるのが一番だ。自分の身は自分で守るしかない。
現在ウクライナがロシアに攻め込まれて大変なことになっている。ロシアが常任理事国だから国連がそもそも出動しないけど、国連はあてにならないので、むしろ出動しない方がいいような気すらする。
アイダの教え子が敵軍にいて親しく会話するのだけど、腹を割れない怖さがある。
しばらく不在にしていたマンションに他人が我が物顔で暮らしているのが怖い。
直接的な戦場描写はないのだけど、戦争のリアルを肌身に感じる恐ろしい映画だ。
銃声
この映画の舞台である1995年は日本では阪神淡路大震災、オウムの地下鉄サリン事件が続き、当時テレビや週刊誌は当然これら一色であり、自分にとってボスニア・ヘルツェゴビナの紛争は対岸の火事であまり関心がなかった
観終わっての感想は、やってることがホロコーストとかわらない!
ニュース映像や記事では充分に理解できないことも、映画であれば当事者目線で理解しやすい(観たあとであれば本や記事でも補足できる)
この世界、まだまだ自分には理解できないことが一杯だ
男たちの、国連軍の、からっきし弱腰の後ろ向きな人物像に対し、アイダの、そして女たちのなんと強くて前向きなことか!
空威張りして権力を振りかざしながら組織に従う歯車であることに慣れ切った象徴と、今生きるために全力で駆け回り命を産み落としそれを守る姿は、対象に臨機応変に力を出し切るのを惜しまない母性からであろう。火事場のバカ力、そして愛する者をただ守りたいという思い。
緊張を持続し続けるストーリーと生き生きとしたカメラワークと、シワが刻まれた首筋や凛とした姿勢、鋭いまなざしといったアイダのキャラクター造形に引き込まれる。
ボスニア紛争の裏側がこんなことだったとは、知らなかった・・・。
【”紛争勃発前は隣人だったのに・・”ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期に行われたジェノサイドを尋常でない緊迫感の中で描いた作品。宗教、民族の違いは何故に争いを産むのであろうか。】
ー 1992年に勃発した紛争が泥沼化する中、イスラム教を信仰するボシュニャク人達が住んでいた、東部ボスニアの町スレブレニツァは、国連から安全地帯に指定され、オランダ軍による国連防衛軍に護られていた。
だが、1995年7月、ムラディッチ将軍に率いられたセルビア人勢力が町を制圧。国連軍の施設には2万人のボシュニャク人達が押し寄せた。が、施設規模から2万人は収容できず、大多数の人は、施設の外で助けを待つことに・・。
今作は、僅か25年前のナチスの如きセルビア人によるジェノサイドを、国連の通訳を務めていたアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)の視点で描いた戦慄の作品である。ー
◆感想<Caution 内容に触れています。>
・元教師だったアイダに対し、元教え子のセルビア人青年たちが、見下したように掛ける言葉の数々。
ー 紛争勃発前は隣人だったのに・・。故郷の町を追われるボシュニャク人達の姿。ガランとした町にやって来たムラディッチ将軍が行った事。
それは、ボシュニャク人達の文化(旗、地名)を否定して行く行為である。ー
・全く機能しない国連。オランダ人カレマンス大佐が、セルビア人側が、最後通牒を破ったとして空爆を求めるも答えはない。圧倒的兵力の差により、易々とムラディッチ将軍達に、基地に入り込まれ、人々は男女に分けられて、男は“死のトラック”に乗せられて、どこかに運ばれていく。
泣き叫ぶ女達。
ー これは、本当に25年前に行われたことなのか?民族浄化を行ったナチスと同じではないか。更に言えば、国際社会が少数民族を見捨てたかのような、無関心な態度。
日本でもボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、報道で報じられていたが、ここまで悲惨極まりない行為が行われていたとは・・。ー
・アイダは、せめて自分の夫と息子二人だけでも救おうと、基地内を必死の表情で走り回るが、オランダ軍人たちも、”規則”を建前にして、相手にしない・・。
ー 職務を放棄して、部屋に籠る大佐。外国による平和維持活動の限界を問題提起しているシーンである。ー
・学校の講堂らしき建物に連れ込まれた男達。セルビア人将校は、”今から映画を見せる”と言い。扉を閉める。建物上部から男達に向けられた銃口。
ー 銃声が響き渡る中、セルビア人の子供たちは、サッカーに興じている。物凄くシニカルで、恐ろしいシーンである。ー
・紛争終了後、虐殺された男性達が土の中から、掘り起こされ、白い建物の中に骨と遺留品が並べられている。女性達が、夫、息子を探す姿。
アイダは、セルビア人たちの冷たい視線を浴びながら、且つて家族で住んでいた家を訪れる。出て来た若きセルビア人の女性。
<ラスト、アイダは幼き子供たちを教える立場に立っている。微かな希望を感じさせるシーンであるが、ジェノサイドを引き起こしたムラディッチ将軍が数年後に言い渡された量刑は、終身刑である。
暗澹とした気持ちになる。
更に言えば、2021年の現代でも、アメリカ軍が引き上げたアフガニスタンでは、アイダ達と同様のアルカイダの脅威に晒されている人たちがいるという事実である。
宗教、民族の違いは、何故に憎しみを生み出すのか・・。
世界はいつになったら、多様性を受け入れられる文化に熟成するのであろうか・・。
観る側に重いテーマをに突きつける作品である。>
<2021年11月6日 刈谷日劇にて鑑賞>
アイダの表情は人生の全ての局面を表してた
アイダが通訳として働いている役なのでこの映画を見ようと思った。ただ背景も経緯もまるで分かっていなかったので怯んでました。ても見て良かったです。あらかじめ少しだけ調べておいて良かった。
宗教的にはまさに「賢者ナータン」の地域が死の商人(国)に煽られた紛争なんだろうと思った。ベルリンの壁は崩壊し冷戦終わってしまったから自分に火の粉はかからないよう、どこかに紛争の種を蒔くか見つけて一儲けしないと!国連が頼りにならないのもある意味そうだろうなと思いつつ愕然とした。ヨーロッパの中心から近い場所なのに、マスコミは御用マスコミなのか、関心ないのか、しきられていたのか?
国連があんなだから国連で通訳しているアイダが自分の家族のためにどうにかしようと動くのは私は当然で全くもってあり得ると思った。それが自然で普通ではないかと思う。国連のオランダ軍トップも自分は責任者でないと言っていた。まして通訳は!ある時は重宝がられるが、ある時は通訳だけしてりゃいいんだ、お前の意見も考えも関係ない、言うな!の世界だから。
日本人は命がけで家族を守るどころか常日頃から家族関係が希薄なように思う。限られた数でしかない私の外国の友達の話に過ぎないが、アジアであれヨーロッパであれ彼らは何歳になってもパートナー、親やきょうだい、自分の子どもや孫を大事にしてそれを言葉や行動で伝えている。離れていてもマメに連絡している、電話でWhatAppでスカイプでZoomでメールで。だからアイダのとった行動はよくわかる。
ジェノサイドへの道はナチスと同様の移動でかなりショックを受けた。
破水していきなり出産の女性を励まし新生児の声を聞くアイダの嬉しい顔、教師の仕事が一番好きと言ったアイダの笑顔、息子自慢の幸福な表情、優しい夫への愛、セルビア側の青年が「先生!」って声かけてくれる元教え子、家族写真をいとおしく眺める顔、息子の靴を見て泣くアイダ。彼らになんの罪も咎もない。紛争を金儲けにする人達こそどうにかしてほしい。
こういう映画を制作した監督、出演した俳優達、全てが素晴らしいと思いました。この映画制作にドイツ、フランス、ポーランド、オランダが協力したことをエンディングロールで見てそれだけでも嬉しいと思った。
虐殺の非情さを告発
スレブレニツァの虐殺に関する映画はこれが初めてではないにしても、虐殺の非情さをここまでしっかり描いたものは他になかったと思う。国連派遣のオランダ軍が少数で孤立し無力化されるなかで、セルビア人が交渉と威嚇を恐ろしいくらいに巧みに行い、ムスリムらの男女を分けて移送し、男たちを虐殺したところがギリギリまで描かれる。体調が悪いときには見られないくらいに辛い話だが、受け止めて考えるべき作品である。
恥ずかしながら
1995年は自分は既に32歳だった、充分に分別がある年代だが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争がこんな凄惨なジェノサイドだったことを、この映画で初めて知った。
自分だけではなく、世界の人もウィンドウズ95の登場に歓喜していたはずだ。
恐ろしいのは、同じ市内に住んでいた隣人が突然、敵になってしまうこと。わずか25年前に起きた出来事が、今後、25年以内に起きないとは限らないだろう。
また、国内の紛争は今でも世界のどこかで起きているはずだ。
人の世からなくならぬケモノ
史実ベース。重苦しいのは当然なのだけれども、「ホロコーストの罪人」同様に絶え間なく続くやるせなさ。押し寄せる「なぜ??」に窒息しそうでした。
ただなぁ…。理解は出来るのだが共感出来ないアイダの行動。平和ボケだろ、なんて言われちゃえばそれまでなんですが、元自衛官としては色々と考えちゃって、少し空々しくなってしまったのが残念。
それでも知って考えるきっかけとしては重要な映画だと思います。
国連てこんなに無力なのか
震災など色々あったものの、まあ当方楽しくノホホンと生きていた1995年の同じ時空で、大戦中の話かと見紛いそうな大虐殺が行われていたことに大きな衝撃。いや今も理不尽な殺戮はあちこちで起きているだろうが、これはもろナチスのホロコーストと変わらんじゃないか。閉じ込められる部屋がガス室か銃眼のある部屋かの違いくらいで。
もちろんセルビア人側にも同胞を殺された恨みがあってのことだろう。なぜに民族、宗教の違いでこれほどの憎しみの連鎖が起きるのか。極東から見ると白色人種という一点で大同団結してもよかろうに…。
それにしても国連軍とはこれほど無力なもんなのか。アイダの行動に批判の向きもあるようだが「後ろを向いたら誰も守ってくれない」状況でなりふり構わず家族を守ろうとするのはむしろ自然なこと。撤退する将校にすがりつくシーンは涙が出た。
このような歴史的事件は面白い面白くないの次元ではなく、世界に知らしめるためにも映像化は義務だと思う。日本にもこのようなシリアスな視点の映画が増えてほしい
民族紛争は難しい 戦争という 国と国の戦いなら わからなくはないけ...
民族紛争は難しい
戦争という
国と国の戦いなら
わからなくはないけれど
ご近所さんや知り合いと
敵味方に分かれて
殺し合いをするなんて
国連軍って
現地に配属されている人達は
頑張ってくれているけれど
人数も少ないし
力がないんですね
結局、アイダのように
自力で何とかしようともがいて
何もできない、無力感…
スレブレニツァの虐殺を知る
1995年ボスニアヘルツェゴビナ紛争の中で起きた、小さな街そして国連により安全地帯とされオランダの国連軍が駐留していたにも関わらず悲惨なジェノサイドとなり、ボスニアモスリム、または、ボシュニャク人は無防備のまま殺され街を奪われた、国連軍はなすすべもなくほぼセルビア人武装勢力の言いなりであった。ボシュニャク人という呼称などは観賞後後から背景とともに調べないとわからないことだらけだが、予備知識なくても、セルビアとボスニア側もしくはイスラム教徒の紛争で、紛争というにはあまりに一方的な占領行為で、準備がなかったとはいえあまりに無力な国連軍、あまりに無意味な国連軍の安全地帯指定、ということは、この映画で知ることができる。それを知ることだけでも作品の価値があり1人でも多くの人が見るべき。この紛争はあまりにも日本から遠く馴染みがなく複雑で難解だった、でも、国際組織が、国際社会が、システムが機能していたから、人々の関心、困窮し弾圧抑圧されてるいる人々のことを考えていたか、そのようなことに対する深い後悔、自責を感じる。その中で、教員夫婦、街では有数のインテリ夫婦、その妻の方が学校を離れ国連軍の通訳として働いている。そのアイダに事態の進展とともにさまざまに葛藤が襲いかかり、通訳として役割、妻や母としての役割、一人の人間として女性として当たり前の、関わり苦悩そして行動が描かれる。国連軍のオランダ人た地は確かに本部から見捨てられ軽んじられなすすべもなく規則だけがしめつける、助けたい職務を果たしたい気持ちはあったかもしれないがあまりに無力で無気力で、そこには組織の人間としての振る舞いがあるが人としての思いやりは足りなかった。そして、正規軍とも思えない頭がイカれた軍人が率いるセルビア人兵士による殺戮と占拠。この前は両民族が互いに同じ学校に通い近所付き合いをしていたことも知れるし、紛争後もわだかまりを残しながらもまたそのように暮らしている。背景がわからなくで何をすべきか何を学ぶべきか、私たちはさまざまに歴史を知り学びながら、前進することができない。
アイダは、叫び駆けずり責務を果たし家族や街の人をまもろうとまた叫ぶ、ひとりのなんの権力も持たない個人が常に組織とシステムを上回りそして常に敗北し、それでもまた新たな日常生活、新たな歴史をつくろうと生きていくのだ。
正しくない正義
恐怖を覚えたのは、ラスト。再び教鞭を執るアイダ。未来を生きる子ども達に、何を教えるの?。瞬きひとつしない眼差しの向こうに、何を見ているの?。そして、このシーンを届けた監督さんの思いは、何処にあるの?。負の連鎖を止める術はある?。これを受け取った私達は…?。
しかし、アイダ役の女優さん、素敵ですね。家族のために交渉する時は、仁王様みたいな顔。ラストで子ども達を見つめる時は、凪いだ海のように穏やか。でも、穏やか過ぎて目が怖い。そんな名優さん、実はセルビア系の人。お陰で、セルビアの人から総攻撃されたとか。この事実だけでも、宗教とか民族といったカテゴライズが、ヒトの進化の足を引っ張ることが見えてきますね。
「神々と男たち」で、セルビア人が、イスラムの戦士に、無慈悲に殺害されるシーンがあります。これだけ観ちゃうと、ムスリムって、三度の飯より聖戦が好きなのかしらと思えちゃうんですけど、本作を観ると、真逆に見えるから不思議です。「希望の街角」で、主人公の恋人が、急速にイスラムに傾倒するシーンも、本作に起因するようですね。元々、解体前のユーゴ連邦は、多民族、多宗教で仲良く暮らしていたそうですが…。この辺り興味のある方は、「最愛の大地」をどうぞ。
結局、暴力こそ発言力。軍事力こそ、実効支配力。力なき正義は、屁の突っ張りにもならないという現実に、打ちのめされた私です。「沈黙の艦隊」ではありませんが、国連が、核の使用も辞さない超国家軍事組織なら、戦争は無くなるの?。それはそれで、完璧な独裁社会ですけど。
アイダよ、何処へ?。
そして、世界は、何処へ?。
共存するしかない
原題は「QUO VADIS, AIDA?」です。
ペトロがイエスに投げかけた問い「Quo vadis, Domine(主よどこにいかれすのですか)」に由来しています。
邦題は「アイダよ、何処へ」です。
この映画を鑑賞しただけでは、理解できないことが多いです。
なぜ、こんなことになったのかを自ら調べ、理解する必要がある映画です。
殺しあってきたからこそ、共存するしかないということです。
ボスニア紛争について知らない人は、事前にパンフレットを購入し、予習したほうが良いです。
1995年に、日本では話題がありました。
1月17日、阪神・淡路大震災が、起きました。
3月20日、地下鉄サリン事件が、起きました。
7月5日、松岡修造が、ウィンブルドン選手権大会で、ベスト8に進出しました。
7月11日、野茂英雄が、米国メジャー1年目で、オールスターに選出され、先発しました。
11月23日、Microsoft Windows 95が発売されました。
ボシュニャク人は、イスラム教徒の信者です。
セルビア人は、セルビア正教会というキリスト教の信者です。
スレブレニツァには、旧ユーゴの警察特殊部隊出身のナセル・オリッチに率いられた強力なボシュニャク人武装勢力がありました。
1992年4月、ボシュニャク人武装勢力が、セルビア人の村に突入し、セルビア人を惨殺し、追放し、略奪し、建物に放火して支配地域を広げました。
1993年4月16日、国際連合安全保障理事会が、ボシュニャク人の武装解除と共に、スレブレニツァを安全地帯に指定しました。
ボシュニャク人武装勢力は武装解除せず、スレブレニツァからセルビア人へ攻撃を行いました。
1993年末、米国政府は、ボスニアを二分割し、半分をセルビア人に、残り半分をボシュニャク・クロアチア人に与えました。
米国政府は、ボシュニャク・クロアチア人が、与えた中にいるセルビア人を虐殺するのを黙認しました。
米国政府によって、セルビア人は劣勢になりました。
1994年、NATOは、セルビアに対して空爆と経済制裁を始めました。
ボシュニャク・クロアチア人は、共同作戦でセルビア人の拠点を陥落しました。
1995年1月~4月、追い込まれたセルビア人は、停戦を受け入れました。
セルビア人は軍事的劣勢に立たされたからこそ、自らの地域内にあるボシュニャク人の飛び地であるスレブレニツァを攻略しなければならないということになりました。
1995年5月25日と5月26日、NATOは、セルビア人の弾薬庫を空爆しました。
セルビア人は、375人の人質を捕らえ、さまざまな標的の人間の盾として使用し、NATOに空爆を止めさせました。
1995年7月2日、セルビア人はボシュニャク人を封じ込めのためにスレブレニツァの南部にある国連の5つの監視所を攻撃し、スレブレニツァを孤立させました。
1995年7月11日から22日にかけて、ムラディッチ将軍は、セルビア人の正規軍に命令し、スレブレニツァのボシュニャク人を虐殺しました。
ムラディッチ将軍は、旧ユーゴスラビアの士官学校をトップの成績で卒業した軍人で、合理的・戦略的な思考をする人物で、先を見据えて、行動します。
NATOは、ムラディッチ将軍に最後通牒を出して、空爆すると通告します。
ムラディッチ将軍は、NATOに空爆したら、オランダ人国連軍を攻撃すると言い返します。
NATOは、空爆したくても、空爆できないということです。
ムラディッチ将軍は、スレブレニツァにいるボシュニャク人武装勢力がスレブレニツァを脱出し、ボシュニャク人と合流して反撃に転じることをなんとしても阻止しなければなりませんでした。
ムラディッチ将軍は、大量のボシュニャク人を捕虜にして、戦争犯罪人だけを処罰し、ボスニア人の捕虜を交渉のカードにしてきました。
ムラディッチ将軍は、大量のボシュニャク人を捕虜にしたため、収容する場所はなく、食料や水の手配も難しく、劣悪な環境に放置すれば、国際社会から非難の的になり、交渉カードにもならず、軍事的・経済的な圧力を強められるだろうと判断しました。
ムラディッチ将軍は、大量のボシュニャク人の捕虜を戦闘で死亡したことにして、ボシュニャク人の虐殺することにしました。
このスレブレニツァで起きた「スレブレニツァの虐殺」を映画にしています。
1995年8月30日、NATOは、セルビア人に対する大規模な空爆を行いました。
アイダはそれでもどこへも行けない
旧ユーゴスラビアのセルビア・ヘルツェゴビナの独立に際して、内紛・内戦の終わり頃に起きたスレブレニツァの虐殺(ジェノサイド)を国連保護軍(オランダ軍)の通訳をしていたアイダという高校の先生だった女性を事実に忠実に描くことに女性監督が心血を注いだ映画。
スレブレニツァはボシュニャク人居住地であったが、勢力を拡大したセルビア人のスルプスカ共和国軍に包囲され、孤立してしまった。スレブレニツァは国連が安全地帯としたものの、その実態は200人のオランダ軍兵士と200人程度の軽装の現地の兵士で、映像でも若い女性兵士もいた。物資や食料の調達経路を絶たれ孤立していた。国連保護軍は全く機能していなかった。スルプスカ共和国軍(セルビア勢力)のリーダーは大統領のラドヴァン・カラジッチ。詩人でかつ精神科医とWikiにある。映画の冒頭、危機感を強くしているボシュニャク代表が国連保護軍の大佐に早急な打開を求める話し会いの場面では通訳をするアイダは少しでも有利な情報を得ようと神経を尖らせている様子。大佐は自分には作戦の決定権がなく、セルビア勢力への空爆による反撃を待つしかない単なる伝令であることを卑下してか、「私はピアニストだ」と言うありさま。ほんとに情けない。
セルビア人はついにスレブレニツァの市街地を占領し、大勢のボシュニャク人は安全地帯の国連施設に逃げてくるが、施設には4000から5000人がすし詰め状態で、柵の外にはその何倍もの大勢の老若男女が立ち往生。水も食べ物もない、トイレもない。破水し、施設で出産する女性。医師、看護師はわずかにいるが、傷病人の手当てもままならず。タバコばっかり吸ってるし、アイダの前で平然とイチャつく。アイダも呆れて、笑うしかない。
高校の校長の夫や二人の息子を助けるために国連職員のIDを発行してもらって、職員リストに載せ、撤退するであろうオランダ国連軍とともに家族を安全に避難させようとなりふり構わず奮闘するアイダ。険しい表情や強引な態度に凄まじい肝っ玉を感じた。それだけ、男は殺されるという確信が彼女にはあったということ。繰り返される報復合戦。我々日本人にはパレスチナ以上に複雑で、分かりにくい旧ユーゴスラビア。
掘り返された人骨と服が安置された体育館。夫や息子の遺骨を探して歩き回る女たち。息子の遺骨を見つけ、へたれこみ嗚咽するアイダ。かつての家には違う家族(セルビア人?)が住んでいた。残していった家族写真などをとっておいてくれていた。小学生の男の子を見るアイダの表情。たった一人になっても生きて行かねばならないアイダ。学校の教師は息子をことあるごとに思い出して、さぞやつらいだろうに。
精神科医で詩人の極悪非道の男、ラドヴァン・カラジッチ。究極のサイコパスか。終身刑が決まったばかりで、当然まだ生きている。潜伏先のセルビアのレオグラードで精神科医、心理士として暮らしていた。理解の範囲をはるかに越える複雑な旧ユーゴスラビア。このジェノサイドはたかだか25年前。
エピローグに胸が一杯
ボスニア内戦末期に起こった、セルビア人勢力によるムスリムに対するジェノサイドを取り上げた作品で、ジュバニッチ監督のボスニア内戦関連作品の集大成とも言える作品。
凄惨な描写はあえて避けているのでしょうが、その内容は非常に残酷で救いのない物語…
そして、国連などという代物がク◯の役にも立たないことを鮮明に写している物語でもありますね…苦笑
主人公アイダを演じたヤスナ・ジュリチッチはセルビア人でありながら、アイダ役を受けたことで母国で酷いバッシングを受けたそう…
おそらくそうなることは分かっていたはずで相当の覚悟を持って演じたと推測しますが、その覚悟のほどがアイダの凄みとなって圧倒的な芝居に繋がったのでしょう。
因みに、セルビア人勢力の無慈悲な将軍・ムラディッチを演じたボリス・イサコヴィッチはジュリチッチの夫。彼もまた母国で政治的圧力を受けているそう…
劇中、セルビア人勢力の中にはムスリム側の元クラスメートや、アイダが教鞭をとっていた時代の教え子がいて、お隣さんとの世間話のように会話していたりするのと対照的な悲劇的結末が自分の中で上手くリンク出来ない…
故郷に帰り再び教師となったアイダを追ったエピローグが秀逸で胸が一杯に。
鑑賞するべき作品と思います。
国連平和維持軍の通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)。 1...
国連平和維持軍の通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)。
1995年夏、ボスニア内紛は混乱を極め、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの町スレブレニツァにセルビア軍が占拠してくる。
国連軍は最後通牒を突き付けたものの、最終的な空爆による武力行使を行われなかった結果のよる。
スレブレニツァの2万5千もの住人たちは保護を求めて国連基地に集まってくるが、基地内の収容人員がオーバーしたとの判断から、多くの住人は基地の外に取り残されてしまう。
アイダの夫と二人の息子のうち一人は基地の外に取り残されてしまい、アイダは家族の生命を守るべく奔走するが、そのうち、セルビア軍は基地に押し寄せ、男性と女性・子供を分けて移送をし始める・・・
といった物語で、中盤あたりでセルビア軍による市民の銃殺が起きる(その前、侵攻にあたっても市民を虐殺していくのであるが)。
3年近くに渡った内紛によりセルビア人たちも多くの犠牲者を出しており(つまり、殺されたということだ)、その憎しみは緩め薄めることはできず、目の当たりにしてしまえば、彼ら成年男子はすべて敵にみえてしまう。
したがって、セルビア人たちが報復するのもわからなくもない(許されるという意味ではない)。
つまり、やられたらやりかえす、殺られたら殺りかえす、それが戦争というわけであるのは言うまでもない。
で、映画はその戦争(特に報復の名のもとでの虐殺)の様子を描いていくのだけれど、映画の物語的に、家族を救おうとするアイダに焦点が絞られ、広がりがない。
観ていてつらいのは当然なのだけれど、ドキュメンタリータッチで描かれるアイダの物語だけでは、どうにもこうにも息が詰まる。
タイトルになっている「QUO VADIS, AIDA?(クォ・ヴァディス、アイダ?)」の「QUO VADIS?」は、新約聖書『ヨハネによる福音書』13章36節にある語で、死に赴く前のキリストに対する聖ペテロの質問の語と同じである。
訳せば、「(主よ)いずこへ行き給うぞ」となるわけだが、アイダがどこへ行くかが問われているのではなく、「われわれはどこへ行こうとしているのか」と問われていると心得るべきだろう。
そういう意味では、映画としての再現性は高く、意味深いのだけれど、映画的に優れているかどうかとは、どうも違うような感じがしました。
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