「「つまらない大人」から一歩踏み出すことの重み。」アナザーラウンド すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
「つまらない大人」から一歩踏み出すことの重み。
〇作品全体
アマゾンプライムで本作のページを開くと、「気分爽快」「楽しい」というタグ付けがされている。見終わった後、それに対して「おいおい正気か?」とツッコミを入れたくなってしまった。
この作品は中年男性の悲哀に満ちた映画だ。作品冒頭で学生たちが酔っぱらって痴態を繰り広げるが、彼らは刑務所に入るわけでも退学するわけでもなく、大人に怒られ、それで手打ちとなっている。かたや体育教師のトミーはどうだ。学校に酒を隠し持ち、酔っぱらって出勤したことがバレた結果、彼は自殺してしまう。職を失う未来が透けて見えたからだろう。
「分別のついた人間」という大人のレッテルを貼られてしまったら最期、学生のようにコラッと怒られおしまい、というわけにはいかない。学生と大人、立場が違うだけで結果として生死すらも分けてしまう。だからこそ大人は「つまらない大人」として、「分別ある大人」として殻にこもらなければ身を守ることができない。しかし、その殻にこもると、何においても初めの一歩が重くなる。当然だ。万が一その一歩を誤った方向に踏み込んだら、トミーのように取返しがつかなくなる危険性がある。しかしそんな中年男性を見て、人は「魅力がない」「つまらない」という。中年男性だってホントはハメを外したいが、その危険性に羽交い締めされているだけだというのに。そのどうしようもない状況が「中年の危機」と呼ばれるものであり、本作の主題なのだと思う。
そしてそこから抜け出すために、大きな一歩を酒によって踏み出したのが本作だ。中年男性と酒、この組み合わせを選んだのは本当に素晴らしいと思う。なぜなら中年男性が一歩踏み出すためには、当然のように酒を入れなければいけないからだ。「分別ある大人」は、酔っぱらわないと臆病な心を前へ進ませることなんてできるわけがない。
これがドラッグだったり、マーティンが触れたことのないものではプロップとして成りえない。「分別ある大人」が身近に存在しないものを選ぶわけがないからだ。酒は日常の延長線上にあり、「何度も飲んでいるからコントロールできる」と思える。初めの一歩を踏み入れた先がどのような感触になっていて、そこでどうバランスを取ればいいのか。これをわかっていると思えるからこそ、彼らは更にその先へ踏み出したのだ。
ただ、その後彼らは酒に呑まれていく。中年男性は踏み出すことに無条件でリスクを背負っているのだから当然だ。
泥酔しながらスーパーをさまよい、クラブで大騒ぎし、大けがする。このシーンが人によっては滑稽に映り、アマゾンプライムに「楽しい」とかタグ付けするんだろうが、自分にとっては中年男性の悲哀以外のなにものでもなかった。
なぜなら泥酔した中年男性というのは、救いようがなく醜いからだ。ピーターがパンツ一丁でピアノを弾いて明け方の街をふらついているが、その体に色気はなく、中年男性特有の肉付きを晒すことになる。そして酔いつぶれて寝っ転がるマーティンを見て、息子は失望の目線を向けるわけだ。大の大人が路上に寝っ転がっている。そこに若さゆえの過ちとか、そういう免罪符は一切ない。ただ、そういった痴態を晒すことを知っていても、アルコールによって高揚した気持ちは抑えられないから暴れるしかない。そこに楽しさはあるのか。いや、感情は雀の涙に違いない。結果を重要視する「つまらない大人」は、過程にある刹那的な楽しさを本気で享受できるわけがない。
マーティンたちも、おそらくそんなこと百も承知なのだ。ただ、それでも酒を飲み、「つまらない大人」から脱却したいのは、仕事のため、家族のため…それもあるだろうが、なによりも自分のためなのだ。だから一歩を踏み出したからにはもう、目標まで進むしかない。
抑揚のない日々によって愛していた妻を愛することすら忘れ、子供たちともどうコミュニケーションをとったら良いかわからず、つまらなくなった仕事に毎日向かう。トミー曰く昔は「クズ」で、「ジーンズをはいてすかしていた」マーティンがこうなったのだ。あの頃のような、心揺れる毎日を願わないわけがない。
だからこそラストシーンにある、周りなんて気にもとめていないマーティンのダンスが心に刺さる。一歩を踏み出したことにより犠牲にしかけた家族を取り返すことができるのだから。不可能だと思っていた「つまらない大人」からの脱却に光明が見えているのだから。
この作品から得られるものが「酒は飲んでも飲まれるな」と思っているならとんでもない見当違いだ。そこは主題じゃない。主題は中年男性の進路だ。「中年男性よ、一歩踏み出せ。世界を変えろ」なのだ。それは「気分爽快」でも「楽しい」でもなくて、悲哀と苦難の中にある。「つまらない大人」でいる世界を壊すことというのは、凝り固まった中年男性にとっては、リスクと犠牲を覚悟して挑む「もう一歩」の連続だ。
「もう一杯」を意味する本作タイトルは、この「もう一歩」と同義なのだ。
〇カメラワークとか
・マーティンの据えた目線がすごく良い演出になってた。特に序盤のマーティンはしゃべりだす前に据えた目線をゆっくり動かし、あたりを見回す。周りからは「落ち着いた大人の目線」に見えるけれど、本人からすれば周りの空気や状況を警戒するような、臆病からくる目線。それをすることで今いる空間を乗り切れるという「つまらない大人の経験則」を映す表情でもある。
〇その他
・ニコライの40歳記念で4人が集まったときに、マーティンが泣き出してしまうところでまずグッと心をつかまれた。「作品序盤の涙」とみるならば正直安っぽさがあるんだけど、オッサンが静かに泣くってのは、それはもう一大事だ。古い友人の前で本音をこぼしてしまう、というのも良いし、マーティンから涙が零れ落ちるときのセリフが「なにもない毎日だ」というのも猛烈に刺さった。
妻は浮気して、でも父の介護をしてくれた恩があって。仕事も上手くいかなくて、でももう転職できる歳でもなくて。自分を解放できることがない「なにもない毎日」。その状況を変える術を知らない、いや、忘れてしまった中年男性。そのがんじがらめな状況があまりにも普遍的で、それでいて悲しすぎて。本当に泣けた。
・妻のアニカの態度、すげえ嫌いだ。創作でよくある気がするけど、妻の浮気の原因がすべて夫にあるような物語の流れ。寂しかったで解決される妻の浮気理由。大人同士のドラマでも、ここだけやけに子供っぽくて、そして夫が改めることによって前に進んで…みたいな不公平感。いけ好かない。
喫茶店でマーティンがどんだけ勇気を振り絞ってアニカに「やりなおそう」って伝えたのか。二人の間に壁を作っていたのは本当にマーティンだけなのか。マーティンが壁を作った根本的な原因はなにか。そういうマーティンの気持ちは拾われず、アニカが一方的に振舞う展開。喫茶店であれだけマーティンをみじめに振り払ったのに、結局「寂しい」で帰ってくるのも、あまりにも酷い。
じゃあなんでこれが物語でまかり通るかっていうと、マーティンがオッサンだからなんだと思う。村上龍の『すべての男は消耗品である』じゃないけど、オッサンの感情は消耗品のようにポイ捨てされるんだ。せめて自由であってほしいのだが、マーティンはそうじゃないからなおさら悲しい。そして、刺さる。