劇場公開日 2021年2月5日

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「オオカミ少女と溺愛パパ」哀愁しんでれら 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0オオカミ少女と溺愛パパ

2021年2月12日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 鑑賞後は凶悪な気持ちになる。ここ数年に鑑賞した映画の中では群を抜いて後味の悪い作品といって間違いない。誰彼構わずぶん殴りたいような殺伐とした気分になるのだ。しかしこれでも一応は人並みの善悪の基準は持ち合わせているから、人を殴るなんて行動は金輪際したことがないしこれからも多分しないと思う。映画館を出て、そもそも善悪とは何かと考えた。

 善悪とは何か。無人島に独りで生きている人間に善悪の概念は不要である。善悪とは複数の人間が同じ空間で生きているときに、共同体の存続と自分たちが生き延びるために決めたことなのだ。共同体を離れた、絶対的な善や絶対的な悪というものは存在しない。たとえば多くの人が、人を殺すことは絶対的な悪であると信じているかもしれないが、強盗殺人は犯罪でも、戦争でたくさんの敵を殺せば悪ではなくて英雄になる。善悪の基準は共同体の都合によるものだ。善悪は共同体における人間の行動規範であり、その共同体で円滑に生きていくために守るべき事項である。だから親は子供に善悪を教える。
 子供の頃に獲得する善悪の基準は、親の教育によるところが大きい。しかし親の基準のすべてがそのまま子供の基準になっていくのはとても危険だ。どんな親にでも偏見や思い込みがある。賢い親はその辺りを自覚しているから、絵本を読んだり童話を与えたり、いろんな場所に連れて行ったりする。子供は本や人に触れることで、最大公約数の善悪の基準を学んでいく。その過程で形作られる禁忌の感情を良心と呼ぶ。

 もし親が善悪の教育を怠ると、子供の心には良心が形作られず、平気で他の子が嫌がることをする。そして次第に他の子供から嫌われて排斥されるようになる。それでも成績が群を抜いているとか、スポーツが恐ろしく出来るとかいった才能があれば、その一点だけで生きていけるが、凡庸な子供の場合は引きこもりになるかグレるだけだ。ただ、才能がなくても学校で普通に過ごせる子供がいる。それは嘘を吐く子供である。ただ嘘を吐くだけではない。自分の吐いた嘘を本当だと思い込むことのできる子供である。そして他人に対して一歩も引かない子供である。
 本作品は滅多にいないだろうと思われるそんな子供を登場させる。実際にこういう家族が存在するとは思えないが、思考実験として極端な事例を考えた場合、可能性はゼロではない。しかしそれを映画にしようとすると、極端な演技が要求される。田中圭はよく頑張ったと思う。もともとどんな役でも上手にこなすポテンシャルのある俳優さんだが、今回の役は自分で同調する部分が殆どなかっただろうから、精神的に結構きつかったと思う。
 そしてそれ以上にきつかったと思う役が土屋太鳳の演じた小春である。途中まではやや優しさに欠ける部分はあるものの、そこらにいそうな普通の女性だったのだが、オオカミ少女と溺愛パパの家庭に嫁いで徐々に精神を病んでいき、終盤ではまったく別の人格になってしまう。観客の誰ひとりとして感情移入のできない人格だ。この役をやりたい女優は誰もいないだろう。
 子役はかなり上手だった。この子の役もやはり難役だと思う。将来はいいバイプレイヤーになりそうである。

耶馬英彦