「全体主義体制での個人の生き方」DAU. ナターシャ LSさんの映画レビュー(感想・評価)
全体主義体制での個人の生き方
公開時のリリース記事で関心を持ち予備知識なく観賞。ひたすら長く、尋問を除いてシーンは単調。見終わりは全く面白くはなかった。が、帰宅後に頭の中でストーリーを補完してみたら印象が変わった。以下は私の解釈(パンフ等未読)。
・尋問機関がMGB(字幕)なので、時代は第2次大戦後~50年代前半。MGBはKGBの前身で、さらに前身のNKVDはスターリンの大粛清を実行した体制防衛のための秘密警察機関。一方、東西冷戦の開始で、MGBは対外諜報でも前面に立つことに。
・本作の大きな構図は、招聘したフランス人科学者リュックに対する影響力獲得工作、つまりスパイ化。
・科学者達が利用するレストランの給仕オーリャ(若い方)は、開劇の時点でMGBに取り込まれている(泥酔して帰宅したシーンで男が丁寧にヘアピンを抜く→ナターシャの尋問官が「ヘアピンで目を攻撃されるのを防ぐよう訓練されている」と言う)。
・オーリャは給仕ナターシャ(主人公)がリュックに好意があることを報告。MGBはオーリャに指示して自宅での宴会をセットさせ、ナターシャがリュックと寝るよう仕向ける。
・ナターシャはMGBに呼び出された時点で全てを悟っている(大粛清の経緯から、秘密警察は事実かどうかは関係なくどんなことでも自白させるし、直ちに生命を奪うこともできると理解している)。供述書の記述がデタラメでも一切抗しない(日付を入れないことは、供述内容が「これから起こる」ことを示唆する)。処刑や拷問を回避し、尋問官との関係を「狩り、狩られる」から「共犯関係」に引き上げようと試みる。
・尋問後ナターシャは職場に戻る。オーリャが自分を売ったかに確信はないが、MGBにとって、リュックと直接の接触ができる自分の価値が高いことは自覚している。最後の「床を拭け」には、何も無かった自分が新たな役割を得たこと、オーリャとの関係でも心理的に優位に立ったことも反映しているだろう。
・終劇時点では、リュックは科学的貢献にメドが付いた段階で、ソ連人民に対する性的搾取を皮切りに多くの罪で秘密裁判にかけられるかそれを脅迫され、帰国後にソ連に協力(仏の核開発など軍事科学技術情報の入手か)するよう強要されると思われる。
改めて、これは社会主義/全体主義の下で個人がどう生きるかの現実を追体験させる取り組みなのだと思う。今の我々が見ると出来の悪いアクション映画のような拷問シーンも、順序が逆で、何の脈絡もない理不尽な暴力だからこそ被尋問者の心を挫くという現実の歴史が先に在るのだろう(あの監禁室のレイアウトも実物モデルなのだろうか)。
だが単なる回顧・追想ではなく、今日の世界でも、体制による脅迫・強要、転向の強制(さもなければ死)は数多く起こっていることを思い起こさせるタイムリー性がある。シリーズの続きが製作され日本でも公開されることを強く期待。
おはようございます。
私はパンフレットを買いましたが、LSさんが記載されていた事は、ほぼ書いてありました。というか、LSさんのレビューの方が的確です。
私も、この壮大なシリーズが、一作でも多く日本で公開されることを望んでいますよ。