ルース・エドガーのレビュー・感想・評価
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不穏で、いい意味で人を不安にさせる
学校で一番の優等生は、実は恐るべき存在ではないか? そんな疑念が雪だるま式に膨れ上がるミステリーだが、ミステリーを解き明かすことが重要な作品ではない。むしろ疑念は大きなるばかりで、すべては見た目とは違うという普遍的な真実と、それによって右往左往する大人たちの姿があぶり出されていく。タイトルロールの優等生ルース・エドガーについても、一体どんな人物なのかを明確に提示してくれたりはしない。少なくとも、劇中の親たちが思うような子供でもないし、先生が抱いた疑いも的中していたとはいい難い。ただ、押し付けられたイメージに抗う子供の底知れない複雑さに、観客として狼狽えるしかないのである。もちろんこの映画の背景には人種や差別の問題が横たわっているが、われわれが、普段いかに物を本質を見ることなく、都合のいいものを拾い集めて生きているかを突きつけられて、いい意味で不安になる映画だと思う。不安になれてよかった。
自分に見えていない部分に光を注ぎたくなる一作
久々に映画を見ながら狼狽した。BLM運動と直結して見えたのは当然だが、それ以上に、いかに自分の暮らしがステレオタイプに溢れているか、それこそ普段見慣れた映画もまた「このキャラクターはこんなセリフは言わないはず」とか様々な固定観念に満ちた産物であるのを痛感させられたからだ。この難しい問題提起をあえてアフリカン・アメリカンどうしのやりとりであぶり出していく様が極めてスリリング。
幾つもの層から成る演技を見せたハリソンJRも素晴らしいが、対峙するスペンサー(役名は“ハリエット”)も抜群の凄みただよう。そんな二人が「この国は人々を箱に入れて分類する」とアメリカについて語る場面。そういえば本作には幾度となくロッカーが登場していたことにハッとさせられた。
感じ方、捉え方は決して画一的ではない。鑑賞することがゴールではなく、むしろ何度も見て議論を深め、自分に見えていない部分に光を注ぎたくなる一作だ。
やらない善よりやる偽善
って言葉を昔ネット上で知った。ルースを迎え入れたアメリカ人夫婦は善人ではあるが、若干善を押し付けてるのがいかにもアメリカっぽい。旦那の方が人として自然なのにナオミ・ワッツの盲目的に善行を信じる人に対峙すると悪者にみえてしまう。
ルースの企みはある意味子供っぽく翻弄される偽善側も、彼を疑いつつも本性を暴ききれないところがアメリカの偽善の闇かなと。
ただ一人糾弾する教師にしても必ずしも正義の味方でなく、それぞれ登場人物が人間味に溢れていた。
(アメリカ映画に出てくるアジア系の女性が軒並み並外れて不細工なの萎えるマジやめてほしい)
ルースは、、
初めにステップマザーが本来の名前を発音することが出来ず、名前を変えられてしまった。
祖国と自分をいとも容易く否定されたところから彼のアメリカでのアイデンティティが始まっている。
彼がもし怪物なのだとしたらそれはここから始まってしまったのかなと思った。
何の気なしに、取り返しのつかないことを、善の名の下にやってしまった。それは人を怪物にするのに十分な威力を持っていた。
最後、走る彼は何も解消されていない、根源的な悲しみは善を行ってくれている家族に向ける訳にいかず、抱えて生きるしかない。
バランスとアンバランスの均衡
アメリカという国は、一部の優秀な人間がその他の愚民を率いる教育方針だ。有能な者はどんどん引き上げ、ついてこれない者は次々切り捨てられる。
アメリカという国は、個人レベルから、自分の利益のためならばそれ以外がどうなってもいいと考える。自分が、自分たちが全てを得ようとする。
アメリカという国は、人種のるつぼだ。差別も根強い。差別への反発として抵抗意識も強い。
アメリカが抱える問題点や、アメリカ人らしい思考を巧妙に組み込んで、笑えるくらいにおぞましく恐ろしい脚本は関心するしかない。
ある意味で、アメリカという国を表現したらこうなりましたのような作品だ。
メチャクチャ面白いというわけではないので絶賛はできないけれど、当事者のアメリカ人ではないからこそ関心を持って観られる作品だったのではないかと思う。
アメリカ人にとっては普通の日常で、何が面白いのかわからないだろうから。
つまり、この作品に潜む不気味さがアメリカ人にとっては不気味に感じないということだ。
チラッと映る、アフリカ系だけのチアの面々が「私たちは出来る」と掛け声をかけながら練習に励むシーンなどは、更に凝縮された「濃縮アメリカ」のようで、面白くもあり気味悪くもある。
物語のバランスに対して、アフリカ系だけのチアというのは実にアンバランスだ。このバランスとアンバランスで均衡が取れているところが気味悪さの理由だろう。
なんともチグハグなのである。
日本映画と欧米映画の根本的なちがい・・
それでも子どもをしばるもの
元の名前をどうしても母親が発音できず
名付けた新しい名前はルース。
光という意味だ。
ここに象徴される親子の関係性。
名前を変えさせられ、デニスという魚を投げつけた子どもから、セラピーを経て品行方正の学校が誇るルースへ。
頭が良いからこそ求められる子どもになろうと
もがき続けてきた少年。
母は小児科医、父も地位の高い士業という
意識の高い育ての両親だ。
そこに生まれた歪み。そのあらわれを指摘した
女教師ハリエットに復讐しようとするのは、息ができないほどがんじがらめになっている状況への怨みでもあるはず。自分に期待する母と、ハリエットという女教師、
どちらも型を押し付けることに変わり無いからだ。
ボヤ騒ぎの後、家で、クリスマスプレゼントの隠し場所のを知っていつも驚いたふりをしてきた遠く告白するシーン。 ハグしながら、あなたには未来がある、何にだってなれる、絶対に。という母親の言葉はまたルースを縛るものに聞こえる。
自分をかたにはめ、しばるものは誰なのか。
自分か周りか。それは何なのか。
自己満足なのか愛なのか。
「自分ありのままでいればいい」と言う母の言葉が
空虚でもあり重くもある。
親と養子縁組が多いアメリカでなくても、
親として身につまされるものだと思った。
ピンとこない
オクタビア・スペンサーがいつもの明るく楽しい黒人おばちゃんじゃないのは新鮮だったけど、ウィルソン先生のルースへの疑惑の真意が読み取れなかった。精神疾患の姉妹を持つ自分と未来明るい秀才のルースを比べて嫉妬した?ルースの両親たちも不自然。花火の件最初は隠しておいて、一番ダメなタイミングでヒステリックに叫びながら詰問、しかも相手の言葉を遮ったりして。毒親そのものだけど、そういう意図はなさそうだから映画の雑音にしかならない。あとステファニーが結局なんの役割をしてたのかホントに分からなかった。私の頭が悪いんだろうか?とも思わないでもないけど、全編に流れる思わせぶりな空気感が腹立ったので、この映画の作りが悪いということで矛を収めます。
解釈が難しかったけれど
結論のハッキリしてない物語はだいたい自力では理解できないけれど、今回はうっすら理解したような気がしました。アメリカという国で生きるには箱に入らないといけない。ルースは女性教師はもちろん養父母からも優等生のとされる重荷に抵抗して、女性教師への行動となるわけですが。最後に女性教師から言われる、この国で生きるためには箱に入るしかない、光はわずかしか届かないなどの言葉を聞きます。そして、ルースは自分が改めて恵まれていること、今与えられている恵まれた箱に収まるのが得策だと思ったのでしょう。レールを逸れていわゆる黒人の道に都落ちしますか??それはしたくない!だったら養父母の信頼を取り戻し、もとの道に。ちょっとしんどいけど、それっきゃないんだなって感じのラストに思えました。
小さな事が大きな事になる不安
これだけわかってればいい。
「アフリカの黒人が養子としてアメリカ人の夫婦と住み、学校でも家でも模範となるような生活を送っているのだが、ロッカーに怪しい花火を保管していたことから周りが疑問を持ち始める。」 以上
あとは駆け引き・心理戦とでも言えばいいのかな。親・教師等と少しずつズレを感じ、今までと同じコミュニケーションができなくなる流れ。
自分だったら溜め込んでないで普通に聞いちゃうけどなぁ。「違法な花火持ってるって聞いたんだけど、お前のものなのか?」てね。本当だとしてもドラッグや銃ほど重みを感じないので軽く聞けると思うんだけどな。。。
優秀だから将来いい人生を送れる可能性が高い、台無しにしてはいけない…と周りが慎重すぎるよ。社会に出たら色々と揉まれるから成績優秀=成功するわけではないので。
話題が小さい。
しかし、人生を充実させたい人・既に充実してる人にとっては、些細なことでも周りに与える影響で、もし大きな出来事に発展したら...と不安が生まれるだろう。私の場合、特に仕事してる時なんか些細なことでも気になったりするから「どれだけ影響を及ぼす展開になるのかな」そう思って観てました。
映画ではマイナスに進む流れですが、プラスになることも世の中は多いと信じたい。出会う人との相性、置かれている立場...個人的には主人公より、全裸になり仕事に影響を及ぼす黒人親子の方がわかりやすかった。もちろん他にも話題はありますが、全体的に静かに進む展開なので退屈だったというのが本音。シリアスな話だしナレーションあった方がわかりやすかったかな。
最後は何だかストレス発散に走ってるだけに思え、問題解決には見えなかったけど「それが人生」てことなんですかね。
成功してる人は闇を抱えてるもの。そういうことなのかな…
サイコサスペンス系?
引き込まれた
あっという間に。
でも、何度か見ないと自分の中で消化出来ない。
感想も書きづらい。
ハリエット先生(この方よく出てるね)は嫌いじゃないが、終始心の中でルースを応援する自分がいた。
や、こんなに出来過ぎた出来杉君は怖いし、いつ化けの皮が剥がれるかとハラハラしたが、犯人じゃないことをずっと願ってた自分がいた。
デショーンを何かと心配するルース。
彼を敵視し、奨学金をチャラにしたハリエット先生への仕返しだったのかな、と。
アリバイ工作に欠かせない友人はたくさんいそうだったし。
それにしてもハリエット先生は、最初から最後までルースを憎んでそうだったな。
ロッカーの件、プライバシー云々の議論がなかなか面白かった。
キム女史は本作品で一番怖かったな。
なぜ彼女だったのか〜?も謎。
キムと男友達との関係もやや謎。
作り話だったのか、被害者だったのか。でもあの様子では…か。
ルースを養子に迎えてからの悲喜交々についてあまり描かれていない。(会話に出てきたくらいか)
なぜか、優等生になってからのルースとその家族のストーリー。
スピーチの練習風景で泣くシーンが切ない。
優等生でいなくてはいられない、すごく息が詰まる人生だったのだろうか。
これからやり直して欲しい。やり直せる。
若干モヤモヤするけどね〜
効果音…
ズーン?ドーン?という重い音が幾度か出てくるように、何ともハッキリしない、重苦しいままに映画は終わる。いったい真相はどうなのか?スマホで友人らに作戦を企てるような描写があったので全てはルースが糸を引いていたのだろう。映画としてはアメリカにおけるステレオタイプを風刺してると思うのだが、親さえも子供の内面を本当は理解していないのだろうか。白人と黒人、養子という特殊な家庭環境もあるだろうし、子供といえど個人を尊重、日本のように干渉しない文化もあるかも知れないが、こんな恐ろしい子供と暮らすのは怖い。親である以上、いくら成績が良く、誰からも尊敬される人物であっても、目的のために嘘を付き、他人を貶めることを厭わない思想、生き方は正さなければならないと強く思う。親がそのために犠牲を払うのは当然だと思う。
とても重く、深い、観る価値ある作品!
アフリカからアメリカ人白人夫婦の養子になったルース。学校では勉強もスポーツもでき、人気もの。先生の信頼も厚く、誰の目から見ても優等生で親にとっても自慢の息子。
ただ、教師のウィルソンはある課題の内容からルースの内に秘めた危険性を感じ取る。
ウィルソンが課題の文章からそう思うことも少し疑問だし、ロッカーの中を勝手に見たり、他の生徒を皆の前で見下すような発言をしたりと教師としてどうなんだろう。
ルースも褒められるのは嬉しいだろうが、悪いことをした友達を引き合いにだされたり、みんなの前でそれを言われても確かに嫌だろう。贔屓されることなく、下げずまれるのも辛いが、贔屓されるのはされる側の辛い思いもあるだろう。期待に応えなければならないというプレッシャーもあるだろうし。
色々と事件は起きるが、それの真相ははっきりと明かされない。でもおそらくルースが関わっているのだろうと思う。「俺はいい子なんかじゃない」と訴えたかったんだろうな。
人の心の中や考えてることまではなかなかわからないもの。周りの評価、自分の感覚だけで人を決めつけてはいけない、と思い知らされた。
疑わせる映画
鑑賞者に「先入観で人を疑うべからず」と訴えたいのだろうが、オチがないのは頂けない。
劇中、全部を「ルースがやった」ように見せているのだから、ルースがやったのか?と思うのは仕方のないこと。
途中から「教師がやった」ように見せてくるのだから、教師の自作自演か?と思うのも仕方のないこと。
小屋で元カノのキムがルースと抱き合いながら、ルースの母親を挑発的な目で見るもんだから、黒幕はキムか?と思うのも仕方のないこと。
ルースの母親のとっておきの隠し場所に違法花火がなかったとき、スグにルースが現れ、ルースの口から「芝居がうまいんだ」とか言ってしまえば、父親が処分したかもしれないという発想は1mmも生まれることなく、ルースのしわざに思えてくる。
1番ありえるのは、ルースが二重人格になってしまったということ。それを知るのはキムのみで、キムはルースに好意をよせているから、周りに黙っている。真面目で模範的で誠実な「光に当たるルース」の存在と、7歳まで祝日という概念を知らないほど過酷な環境にいた、三つ子の魂百まで的に心に根付いた「闇」の存在。
ルースを養子に迎えた白人の両親も、治療に相当のお金を使ったところをみると、かなりのトラウマ体験を克服してきた様子もうかがえる。そうなれば、自我が芽生え、知識が身に着くほど、光と闇の心の葛藤は、思春期の子どもにはかなりのストレスになるはず。
期待に応えよう、みんなの手本に、目指す目標に、「光」であるようにふるまうルース。登壇して大勢のが「自分のことを見ている=光を見ている」ことに、抑揚するが、ランニングの場面=一人になると自分という存在がわからなくなる。それが、ラストシーンですごく語られている。
自分が輝いている間=光でいる間(模範的、あこがれの対象)である状態では、羨望のまなざしを受けるが、もし自分が模範的でなくなった場合、完全な闇になってしまうのではないか。これまでと同じようにみんな対応してくれるのか。そんな不安が、ラストシーンのランニングで現れる。
…しかしながら、結局のところ犯人がわからないまま映画は終わる。
それは、人種関係なく、人としてそうだと思うが差別の対象になる人種に対して「貴方たちが活きるには模範的でなければならない」といわれているようで、そんな皮肉も感じた。
痛切なすごい良い映画。
疑惑の青年なのか?
僕にはルースが徹頭徹尾、序盤から終盤まで有能な学生にしか思えない。ある事件によって被害者と加害者に別れた双方の友人を(本来なら双方を救うのが不可能な状況で)救おうと、奮闘する青年にしか思えない。確かに、彼はいくつもの策略を用いたが、あくまでそれは友人を救うためであり、事件自体を表面化させ双方の友人を必要以上の窮地に陥れたのは、かの教師である。ルースが友人を救うために彼女に代償を払わせたのはむしろ当然であり、そこに邪悪さはない。
あえてルースの失点を挙げるなら、若気の至りゆえか、無能で視野の狭い教師をオチョクリすぎ、差別のそもそもの元凶、型に嵌めようと単純に物事を固定する社会の愚かさを、すべてその愚かな教師に(本来なら彼女は彼女で正当性があると底では気づきながらも)委託させすぎたのかと感じた。
息苦しく生きづらい
サスペンスではたいけどサスペンス。
ヒューマンドラマサスペンスとでも言うのかしら?
見応えがあったけど、
誰にも感情移入出来ないモヤモヤした感じが
常にあった。
観終わって考えてみると、レポートの過激な言葉から
ルースの計画は始まっていたのだろうと思われる。
と考えると恐ろしいけど、
今の立場のストレスであって、このまま疑問を持ちながら
良い大人になりそうな気もしなくもない。
ルース視点で考えると、確かに居心地悪いし
あの先生はちょっと行き過ぎてる気がする。
前からムカついてたルースがレポートで過激な事書けば、
こうなって、こうなるからこれでアイツの人生を
終わらせてやろう。と考えたのは納得出来てしまう。
アメリカの縮図になってると思うのだけど、
味方のふりして疑う。
決めつけて自分の正義を振りかざす。
一つの失敗を叩き追い込む。
これはSNSでも同じ事だと思うので、
割と近い出来事のようにも感じました。
ラストの演説とランニングの苦悶の表情もなんとも言えない。
ナオミワッツとティムロスと言う両親も秀逸。
自由と可能性という名の不自由と閉塞感。
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