はちどり(2018) : 映画評論・批評
2020年6月9日更新
2020年6月20日よりユーロスペースほかにてロードショー
新人監督の並外れた感性に胸がざわめく、みずみずしくも不穏な思春期映画
映画監督の処女作には、とかく私的な体験が色濃く投影されるものだ。韓国のキム・ボラ監督が撮り上げた長編デビュー作は、ソウルの集合住宅で暮らす中学2年生の少女の物語。監督自身の“あの頃”の記憶に基づいているそうだが、個人的なノスタルジーや感傷を前面に押し出した湿っぽいドラマではない。かといって、冷徹に客観視して自己探求を試みたような映画とも違う。1994年の夏から秋にかけての数ヵ月間、主人公ウニが経験する生涯忘れることのできない出来事を、独特の距離感の眼差しで綴った思春期映画である。
学校に居場所がないウニは、家族ともひどく折り合いが悪い。父親は口を開けば文句と説教ばかりで、母親はいつも疲れているのか生気がなく、兄がふるう暴力にはじっと耐えるしかない。そんなウニにも親友やボーイフレンドがいるが、自我に目覚め始めるこの年頃の人間関係はあっけなく壊れやすい。やがて学歴と世間体を何より優先する社会の理不尽も、ウニの心をじわじわと蝕んでいく。
要するに、大人にも友だちにもわかってもらえない少女の日常を見つめた作品なのだが、この映画の繊細さは尋常ではない。ある深夜、突然訪ねてくるウニの伯父はどこか様子が変だし、町なかで大声で呼んでも振り向いてくれない母親は心ここにあらずといった風情だ。そうした多感な少女の視点で表現される違和感の描写が、人間という生き物の弱さ、もろさをあぶり出し、さらにはウニが生きる世界の危うさのようなものまでも浮き上がらせていく。こうも不穏な気配とみずみずしさが渾然一体となったサスペンスが揺らめく思春期映画なんて、そうそう観られるものではない。
1994年はアメリカでサッカー・ワールドカップが開催され、北朝鮮のキム・イルソン主席が死去し、ソウルである大惨事が起こった年だ。その現実を取り込み、孤独な少女の内面世界と共鳴させたこの映画は、幾多の痛切なエピソードを紡ぎ重ねながらも、ウニを絶望のどん底には突き落とさない。
悩めるウニの心のよりどころとなるのは、ただひとり彼女の話に耳を傾けてくれる塾のヨンジ先生の存在だ。この女性教師の謎めいた描き方ひとつをとっても、新人監督の底知れない感性の豊かさに瞠目せずにいられない。ひょっとすると、どこからともなくスクリーンに現れては消失していくこのキャラクターには、未来から過去へスリップした監督自身が投影されているのかもしれない。生々しさとはかない夢のような感覚が入り混じった本作の不思議な眼差しは、そんな奇妙な想像さえもかき立て、観る者の胸をざわめかせ続けるのだ。
(高橋諭治)