おらおらでひとりいぐものレビュー・感想・評価
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日常に魔法をかける、稀有な映画
日常のもやもやを忘れさせてくれる映画があふれる中、日常に魔法をかけてくれる稀有な映画を、またしても沖田修一監督が世に送り出してくれた。
雨の降りしきる夜更け。古ぼけた暗い部屋で、一人お茶をすする桃子さんの周りに、突如、背格好も顔つきもばらばらの「寂しさ1・2・3」が登場する。桃子さんの生み出したイメージだという彼らは、若き日の桃子さん(の声)と掛け合い漫才のようなやり取りをし、もっさりした現在の桃子さんに何かと茶々を入れる。初めは彼らを無視・黙認、時には「のせられていた」桃子さんだが、四季がめぐるにつれ、少しずつ彼らと付き合うようになり、豆まきを経て、春には皆で楽しげに踊る。
判で押したようなおきまりの生活を繰り返しながら「イメージ」と会話し、過去と現実を行き来する桃子さん。「孤独な老人」などと言うと、リア王並みの悲壮感が漂う。けれども、桃子さんは決して哀れな存在ではない。桃子さんは、案外しっかり者だ。かかりつけ医、図書館員、車のディーラー、息子の幼なじみだった警官、そして近くに住む娘や孫…の誰とも付かず離れず、ほどほどの距離を保っている。特定の誰かにおもねり頼らない桃子さんは、やっぱり「新しい女」なのだと思った。
予告やちらしに繰り返しふれ、小3の子と公開を心待ちにしていたこともあり、「1・2・3」が登場すると「出たー!」と共に手を叩いて喜んだ。その後も、3人の茶目っ気やノートから飛び出してくる太古の生き物の伸びやかさにわくわくし、毎朝登場する「どうせ」のねちっこさににやにやした。途中でふと、桃子さんと母が同年代だと思い至り、若き日の母や今の姿、将来の自分についてもふわふわと考えた。
桃子さんのような生活は、けっこう悪くない。というか、案外楽しそうだ。ひと様・世間様にとらわれないどころか、「今」にもとらわれていない。人間関係とも時間軸とも「ほどほど」の距離を保ち、今と過去を自在に行き来する生活。そんな楽しみを手に入れるきっかけは、実はどこにでも転がっているのかもしれない。見慣れた風景や聞き慣れた言葉を目に・耳にしたとき、かつての出来事がふっと心に浮かぶ。一見味気ない日々を繰り返しているのは、繰り返す中で、いつまでも色あせない思い出が形づくられていくからではないか。母、自分、そして隣にいる子が、それぞれに重ねてきた・重ねていく時間を思い、少しほろ苦いけれど、あたたかい気持ちになった。
… と、小難しいことはさておき。この映画に出会って以来、「おらだばおめだ、おらだばおめだ」というフレーズが何かにつけて頭をめぐり、リズムにのってる自分に気付く。子も、時々楽しげに口ずさんでいる。目の前の生活が味気なくなったら、好きなようにイメージを放ってみる。それだけで、日常はとても楽しい。一人でいることは、寂しいどころか、豊かさそのものだ。そう、気負わず素直に感じられるようになった。
そういえば、昨日のこと。行きつけのスーパーで、開店前から居座っているおばあさんに、またしても出くわした。「待ってても開かないよ」、「開いたって欲しいものなんてないよ」、「何もないんだから」と果てしなく繰り返す彼女が、これまでどうにも苦手だった。けれども昨日は、「どうせ」が取り付いているイメージが見えた。そのうち、「1・2・3」が彼女を取り囲んでくれるかもしれない。もしやの再会も、そう悪くないと思えた。
“孤独”へのユーモア溢れる眼差しが優しく響く
冒頭からユーモアが溢れている。なんと46億年前の地球史のはじまりから映画はスタートし、そこから一気に現代の街の夜景にジャンプ。そして、薄暗い部屋でひとりお茶を飲む老婦人が映し出される。こんなぶっ飛んだ展開から始まる沖田修一監督の最新作「おらおらでひとりいぐも」は、ひとりの女性を通して“孤独”とは何かをじっくりと、やさしい眼差しで見つめた人間賛歌の物語だ。「おらおらでひとりいぐも」とは、「私は私らしく一人で生きていく」という意味。
主演の田中裕子さんの存在感、佇まいがこの映画を唯一無二にものにしている。「いつか読書する日」「火火」以来15年ぶりの主演となるが、昭和、平成、令和を駆け抜けてきた75歳の主人公・桃子さんの“孤独”をしっとりと時に愛嬌たっぷりに、そして強さを持って好演。孤独な寂しい日々を紛らわすための独り言、心の声なのか、それとも痴ほう症の前兆なのか、そんな危ういバランスを絶妙に演じている。
部屋の襖を開けると別の世界が現れたり、マンモスが登場したりと突飛な展開もあるが、沖田監督は現実と桃子さんの頭の中(心の中)を軽やかに行き来してみせる。“孤独”の先で見つけた新しい世界とは何か、不安や寂しさを受け入れて新たな一歩を踏み出していく姿は感動的だ。
突き詰めれば“ひとり”。ひとりとひとりの連なりが生命の歴史
原作者・若竹千佐子が桃子さんという主人公の思索を通じて伝えるそうした哲学的なメッセージを、脚本を兼ねた沖田修一監督はアニメーションやCGも駆使し、視覚的に直観しやすいユーモラスなビジュアルで表現した。コメディやドラマを比較的オーソドックスな話法で作ってきた沖田監督だが、今作ではストーリーを映像で語る「映画」のフォーマットでどこまで遊べるか、正統な映像表現手法をシュールレアルな描写や唐突なギャグで脱構築できるかに挑戦してもいる。
地球46億年の歴史と桃子さんの人生は、一見遠いようで、俯瞰すれば脈々と続く命のバトンで繋がっている。人間は生まれる時もひとり、死ぬ時もひとりだが、家族や出会った人々など、有限の時間を一緒に過ごした人と、過去の自分自身の記憶は共にある。単に独居老人のありようにとどまらない、人生への向き合い方についての含蓄に富む豊穣な映画体験だ。
陽だまりのように優しく、温かく、ちょっとだけ奇想天外
沖田作品はいつも陽だまりのようだ。たとえ主人公の心に生きる上での悩みや悲しみ、孤独がのしかかろうとも、決して吹きっさらしのままにはせず、いつしかなんとも言えない温もりがその身をそっと包み込む。樹木希林を演出した「モリのいる場所」の自由さにも驚かされるばかりだったが、今回、田中裕子演じる「桃子さん」の中でゆっくりと移ろいゆく記憶や想いに寄り添う過程にも、確かな優しさと温もりがにじんでいた。一人きりになると決まって現れる「心の声」の表現も毎度おかしくてたまらないが、そこから奇想天外なマジックリアリズムへと突入したり、上京直後の夢と希望、家族みんなが居た頃の懐かしい記憶が急に沸き起こったり、はたまた彼女の人類史への興味関心もダイナミックに映画を息づかせる。140分近い作品だが、もっと寄り添って見つめていたいとも感じる。またも人間のこと、歳を重ねることを好きになれる名作を、沖田監督は届けてくれた。
1964年は集団就職最期だぜ!
沢山の人参を刻んでいた、田中裕子さん演じる老人が、一人夕食をしている所から映画は始まる。
・御膳の上には漬物の様なものと焼売とインスタント味噌汁と白いご飯。
・翌日の朝食はトーストと目玉焼き。
・翌日の夕食は焼き魚とインスタント味噌汁
・そして、昼間からSuperドラえもんを飲んで、日本酒のお燗を2合も飲んで煎餅とプロセスチーズ。
・翌朝作る弁当は大根のたくわんソーセージ鮭お煮しめに昆布の佃煮に目玉焼き。
さて、沢山の人参はなんの為に。メニューが75歳の老人の献立ではない。
2020年当時75歳と言う事は、団塊の世代のどストライクで、岩手から1964以前に東京へ出てきたと言う事は、所謂、集団就職の最後である。因みに集団就職は1952年頃から1964年まで続く。つまり、この原作者も映画の演出家もその実態は知らない。また、演出家は埼玉県出身で、大学も西武池袋線のとある駅。つまり、池袋と狭山の世界に限定されている。と思う。従って、地方出身者の老人の孤独ではない。そもそも、TOKIO、ダサイタマ、チバラギは田舎モンの集まり。それでも、孤独はある。がしかし、生きていくのに哀愁なんかは伴わない。団塊の世代を含めた老人は、狡猾で孤独なんて何のその。
「PLAN75なんてふざけろ!」
「オレオレ野郎かかってきな!」
「まだ、二十年は生きてやる!」
って思っている。
アノマロカリスって、1990年代に入ってから。1964年位は三葉虫とアンモナイト位。僕らの時代の科学的物差しは国立科学博物館だった。
原作との違い
原作を読んでからこの映画を視聴しました。
原作は第54回文藝賞・第158回芥川龍之介賞の受賞作です。
原作とこの映画は一見同じ題材の同じストーリーに見えますが、受け取れる感じ方が全く違います。
原作はただただシリアスな内容ですが、映画は同じ題材でもコメディに感じます。
この映画で登場する桃子さんの心の代弁者「寂しさ1~3」は男にしなくても良かったのでは?と感じます。映画から先に見た人は「寂しさ1~3」の存在が素晴らしい物に感じると思いますが、完全にあれが原作の「寂しさ」を奪っています。
もし「寂しさ1~3」を映画でも登場させるなら桃子さん本人にその役を演じさせた方が良かったです。その方が桃子さんが桃子さんと心の葛藤をしているというのがストレートに伝わります。
また「寂しさ1~3」を本映画のように男性の役者で行くならもっと脚本をコメディに振り切った方が良かったのではと思います。現在の脚本ではただただ原作の良さを奪っているだけでなく、映画としての良さも中途半端です。
原作ではこの映画のタイトルの「おらおらでひとりいぐも」という言葉が一番ハッっとさせられる場面で登場しますが、映画では残念な使われ方をしています。
映画では原作の一番素晴らしかった桃子さんの内面が全然表現できていません。
原作が第54回文藝賞・第158回芥川龍之介賞を受賞したのは桃子さんの「内面」の独白に胸を打たれたからです。
この映画が面白かった人は原作も読んでみてください。
…と、ここまで批判的な内容を書きましたが、主演の田中裕子さんや「寂しさ1~3」の役者さんの演技自体は素晴らしかったです。
☆☆☆★★★(ちょい甘💦) 原作読了済み。簡単に。 数々の賞を受賞...
☆☆☆★★★(ちょい甘💦)
原作読了済み。簡単に。
数々の賞を受賞した原作は、読んだ人には分かるのですが。数多くの、記憶の片隅に生きずいているエピソードの場面が。とりとめもなく記載されており、ストーリーらしいモノはない。
強いて言えば、愛する周造に先立たれ。寂しい日々を過ごす初老のお婆ちゃんの《愚痴に近い日常》と言えば良いのだろうか?
映画は137分もあるのだが。原作自体をそのまま描くと、精々30分くらいにしかならないのでは?としか💦
(読みながら「え?これ映画に出来るの?」…と思ったくらいだが)
原作自体は、劇場で予告編が流れ、公開前に読み始めたので。3人の心の中に住む住人は想定した状態の為。特に違和感を感じる事なく、原作との相違点を楽しんで鑑賞が出来た。
何しろ襖1枚開くと、ドラえもんのどこでもドアよろしく。過去の思い出や、本人の妄想等。ありとあらゆる出来事が展開される。
但し、原作通りに進むには。どうしても尺の関係で、「どうするのだろう?」…と思っていた部分を。映画は前半1/3を、ほぼ原作通りに。残りの2/3にあたる〝 桃子ワンマンショー 〟 以降は。原作にて描かれていた【オレオレ詐欺】【火傷】【46億年前の白亜紀】等の断片を、映画オリジナルストーリーに挟み込んで。このお婆ちゃんが、1人で生きていかなければならない寂しさを表現していた。
原作だけ読むと、とても難しい題材に思えただけに。ここまで分かりやすく表現した点は、なかなかだと思いました。
逆に考えると、実に飄々としたお婆ちゃんの話でもあるだけに。とてつもない感動を呼ぶ内容にはならない…とも言えるのですが(^^;)
2020年 11月8日 TOHOシネマズ西新井/スクリーン3
かなり良かった。
実写化は難しいタイプの作品だと思う。たぶん漫画や活字の方が世界観が作りやすいだろう。
若いうちはあまりピンと来ないかもしれない。子育てがひと段落して、身体の節々が痛く疲れやすくなり、高齢の親が頻繁に通院し始める頃になって、やっと老いの始まりに立たされたことに気づく。それまではただ夢中なのだ。田中裕子すらまだまだ。ばっちゃの醸し出す雰囲気には全く勝てない。
1回目はウトウトしてしまい、それでも妙に消化不良というか気になって仕方なく、2回目鑑賞。この時は色々気付きが多く面白かった。クライマックスは言わずもがなハイキング〜墓参りのシーンかと思われるが、素晴らしかった。「墓参り」という行為の意味がようやく実感できたような気がする。山歩きして乾いた自分の喉を潤した水を、墓の花瓶に注ぐ。死んだ人と、命をつなぐ水を分かち合う。山で自ら摘んだ花を供える。こんな素敵な墓参りは初めて見た。画的にもこのまま終わってもいいくらいだが、ちゃんとこの後、現実的なシーンが続くのが良い。雪かきで腰を傷め、マンモス→通院→奇跡のような命だ。「おら、ちゃんと生きたか?」には熱い静かな涙が込み上げる。よく出来ているなぁと思う。
ここまで来ると、冒頭でも出て来た、屋根裏を走る鼠?の足音も違って聞こえる。いったん神棚を写してからカメラが移動するため、まるで目に見えない小さな神様が家に住み着いていて、家の中を走っているように見えるのだ。最初は単なる独居老人の独り言か、認知症か、みたいな印象だったのに、段々あちらの世界とこちらの世界が繋がっているような気がしてくるから不思議だ。日常が神秘的になっていく。老いるってある意味そういう事だ。あっちの世界に近くなっていくのだ。
故郷が岩手という土地であることも忘れてはいけない。というより、タイトルからも分かる通り、むしろ岩手あってこその作品と言える。岩手といえば、宮沢賢治や柳田国男の遠野物語など思い浮かぶ人も多いと思うが、山の神、里の神、河童や天狗などの土着信仰が、あの山深い寒い東北の地で脈々と受け継がれてきた背景がある。岩手弁でセリフが語られる時、この作品がもつ独特の不思議さ、可笑しみ、何億年もの気の遠くなるような遥かな時間がしっかりと裏打ちされて、説得力を持つ。そしてエンディングは、豊かでコミカルな、温かみのある楽しい雰囲気を大切にしつつ、また次の命へバトンを繋げていく。
故郷の言葉というのは、血のようなもの。
全身を循環する、拍動する。その人そのものだ。私はヒダカモモコではないし、違う生き方や感じ方、考えもあるけれど、私は私の「おらはおらでひとりいぐも」で生きて死んでいこうと思う。
永訣の朝を再読したい衝動にかられ、原作も是非読みたいと強く思わせる力がありました。
追記:山が素晴らしかった。語彙力が足りなくて上手く言えないけど。主人公の故郷への想いをしっかり表現できている山だった。
初期痴呆老女の妄想と過去。1人自由に生きる、はいいがその割には寂し...
初期痴呆老女の妄想と過去。1人自由に生きる、はいいがその割には寂しさ全開。3人の妄想友達がウザい。
冒頭はじめ謎シーン多し、時間も長い。睡魔が…
読み損ねた芥川受賞小説だったが、読む気が失せた(笑)
J:COM
田中裕子が何かかわいい
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夫に先立たれた田中裕子の周りに、自分自身の分身(おっさん)3人が出現。
医者に相談しようとしたが、マトモに取り合ってくれなさそうなので断念。
その後も死んだ婆さんや死んだ夫、若い頃の自分などが現れる。
そして悟る、夫の死は自分の時間を持つための、夫からのプレゼントだと。
そう考えることで寂しさと向き合うことができるのだった。
そして断り続けて来た、図書館司書からの習い事の誘いをついに了承した。
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昔なら相当退屈したであろう、徘徊型の映画。
でも今は一人の人が孤独と向き合うことに関心を持てるようになってる。
脳内にいる他人のイメージが、自分の味方として現れる・・・。
周囲から見たら変かも知れないが、自分の中ではかなり心強いことだろう。
どんな形でも寂しさを受け入れ、孤独と向き合えることは幸せなのだ。
素敵な世界観
パラレルワールドのように一瞬錯覚。でも限りなく現実で。こんな老後を過ごせたら幸せだと。それを可哀想だと思うのか。人によって違うハッピーの尺度。老後1000万円、家族、名誉…。何があってもまずは自分らしく生きるということの素晴らしさが眩いくらいに輝いて。
自分らしく孤独と向き合っていく
現代社会において切実な問題である、老後の孤独に真摯に向き合った作品である。子育てが終わり、夫に先立たれ独りぼっちになった老女の心情を擬人化し、若い頃の回想を交えて、老後の孤独の中で自分なりに生きようとする老女のヒューマンドラマになっている。
本作の主人公は、75歳の老女・桃子(田中裕子)。彼女は、東京オリンピックの熱気に感化され自由を求めて1964年に上京した。それから55年が経過し、二人の子供は独立し、夫・周造(東出昌大)も他界し、独りぼっちになってしまった。彼女は、彼女なりのやり方で図書館に通い詰め、地球の歴史を勉強したり、自分の寂しい心情と自問自答したり、若い頃を回顧したりして過ごしていく・・・。
主人公役の田中裕子の佇まい、存在感が際立っている。本作の主人公役は田中裕子以外には考えられない。気負わず、自然体で、少しだけ逞しく、あくまで自分らしく、老後の孤独と向き合い自分なりに折り合いをつけていく主人公になり切っている。カメラを全く意識しない演技であり、主人公に密着したドキュメンタリーを観ているようである。
自由を求めて上京した主人公は、意に反して、家族、夫に束縛されることになる。そして、55年後に、家族、夫から開放された時、主人公は、ようやく自由を手にするが、孤独が彼女を待ち受けていた。
主人公の若い頃を演じる蒼井優は、相変わらず安定した演技で若き桃子を好演している。主人公は、若い頃を回顧しているというよりは、若い頃の自分と対峙している。年老いた田中裕子と若々しい未来志向の蒼井優の会話のすれ違いが、歳を重ねるとともに変化していく主人公の心境を浮き彫りにしている。
老後の孤独にどう対処するかの答えは用意されていない。主人公は、自分らしいやり方で、老後の孤独と向き合っていく。主人公と同じ境遇になった時、折角、自由の身になったのだから、主人公のように自分らしいやり方で、老後の孤独に向き合っていきたいものである。
田中裕子さんの偉大さとグサグサやられる件
大概のことは繰り返して起こる
ばっちゃと私で70年を経て同じことになってる
という言葉,今,まさに重みがある。
大事なのは愛より自立だ。いい加減愛にひざまづくのはやめねばならない。
本当におっしゃる通りです!!愛クソくらえ!!
演劇的な奥行きと空間の仕掛け。ストーリーの中の凡庸な人々とナラティブとして繰り出される仕掛け絵本のようなユニークなキャラクター。
手を繋ぐ,手を差し伸べる,背中を押す、顔を触る、シーンはとても丁寧だ。
穏やかな,あったかい、みたいな映画じゃない。
世代は違えど、女性として昭和からこっちを生きていればこそのグサグサくる感じ、とてもわかる、親がこうだったかも、自分もそうだったかも。
自由を求めてかえって自分を不自由にしてしまう。
世代を繋ぐということはそれをまた繰り返し次の世代に渡してしまう可能性があること,そのジレンマ。
田中裕子さんの存在感が圧倒的で、いろんな面白い仕掛けもあり、楽しめるのだが、ザ田中裕子の前では仕掛けもくすむ。
そして赤松さんの題字も素晴らしく,最後はハナレグミの音楽がグサグサきまくり,まだまだグサグサを日高桃子より続けないといけない、生きていかねばならない私のこれからにエールとして送られた。
自身の人生に向き合う面白さと寂しさを絶妙に表現された作品
内容は、埼玉県所沢市に住む独居老婦人日高桃子75歳の生活に密着した心模様を表した映画。一人で暮らす事の自由さ寂しさ楽しさ辛さをコミカルに描いた沖田修一監督独特の世界観を余す所なく発揮し名優の際立つ演技が面白い。印象に残った言葉は『垣根をブロックにしたかったが、勿体ないと言われ辞めた。一体誰の垣根やら‥』警察官の息子の友達と話する場合。欲しかったのは自立で自由それは痛いほど伝わってきた。脚本もカメラワークも天井の足音も最初と最後で逆だし、台詞回しも最初と最後が繋がる様な構成には基本ですが良い味感じます。印象に残った場面は。玄関先に置いてある車椅子に挨拶してから墓参りに山登りする場面が愛に絡め取られた自分を誇る様で良かったです。朝起きて『どうせ』が寝てろと声掛ける場面も良かったなあ。何気ない毎日の繰り返しの中で少しの変化に希望の様な微妙なモノを感じさせる所が面白かったです。最後には孫に自分達の東北弁が受け継がれていた事を嬉しく思いしみじみ感嘆したのも細やかですが良かった。地球46億年の記憶を辿る一片の様で上手いなあと感心させられました。傍目に見たら独り言の多い怖い老婦人だとは思いますが、映像化されると楽しさがこれだけ増すとは凄い。自分も75歳まで生きれば分かる感覚なのかも知らない世界観が良かったなあ。最近さかなのこ🐟を見て感動しましたが、『おらいぐも!ひとりでいぐも!』も非常に面白かったです。。
婆ばはいいね。自由で!
コメディな作品でしたが
…とっても深~いお話でした
共感しながら
納得しながら
重くならず
クスッと笑いながら
ちょぴり泣ける
夫に先立たれ一人で暮らす初老の女性
寂しさから抜けられずにいる
一人の生活は気楽で自由な時間がいっぱい
でも其処には寂しさが伴う
独り言を言ってみたり
心の葛藤だったり
自由と孤独は隣合わせ
…想像もできない
自分のお一人様的な老後
を体験できた様な。
人類は…
生きて死んで生きて死んで
繰り返しながら続いていく
余談…若い頃はおばあちゃんの
の気持ちは分からないままだったけど
その年に近づくと気持ちが理解できる
老いの妄想を面白可笑しく!
岩手弁って心地良いべさ!
方言語りがなんともユニークだ。
原作は若竹千佐子の芥川賞を受賞した「おらおらでひとりいぐも」
この言葉は同郷の詩人・宮沢賢治の詩の一節から取られている。
賢治の「おらおらでひとり逝ぐも」を「私は私でひとりで生きて行く」の意味に変えている。ちなみに方言は岩手弁(遠野弁)
2020年。監督は沖田修一。
映画は幻想譚的映像を多用していて異色の老年期ファンタジー。
人間(私)が一番長く対話する相手は、自分(自己)だと思う。
なので、
…………おらだば、おめだ。おめだば、おらだ。
この心境、グッと来た(笑)
大した事件は起こらない。75歳で数年前に夫を亡くして一人暮らしの日高桃子さん
(田中裕子)の日常(病院→図書館→ほぼ庭と居間→が全世界)を、ファンタスティックに描いています。
寂しさ1=濱田岳
寂しさ2=青木崇高
寂しさ3=宮藤官九郎、
の、3人は日高桃子の脳内キャラクター。
彼らは道化。そして狂言回し。
桃子を肯定したり否定したり、
または励ます応援団ですね。
(原作に登場するかは?ちょっと不明です・・)
若き日の昭和の桃子と夫の周造を、蒼井優と東出昌大が演じています。
若さはチカラダー!!魅力的なおふたりさんです。
難点を言えば、あくまでも平凡な主婦の75年。
方言と幻想的映像(マンモスや、寂しさ1、2、3などの)で描いてますが、
根底は孤独と戯れる平凡な主婦のモノローグ。
岩手から東京に家出しても、結局は好きな男の手の中。
自立も自活も叶わぬ平凡な女の一生。
感動も限定的とも言えます。
幻覚と、まだら呆けの一種とも思える幻想的味付けが、
不思議と印象には残る映画でした。
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