三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価
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見てよかった
日比谷シャンテシネマで23日4時20分から見ました。ほぼ満員でした。前方に、映画に反応して、独り言を大声で言っている男性あり。終了後、周りのお客さんたちが、スタッフに「もっと強く注意すべき」と怒っていました。それも含めて、忘れられない映画となりました。小6の夏休みからずっと三島由紀夫が好きです。肉声が、たっぷり聞けたことに感謝。もっと生きて欲しかった。女性は、寂聴さんしか出てなかった。ナレーションが他の人だったら、もっと良かった。アンパンマンの声の人とか。三島由紀夫が、司会の学生木村さんに、あとで、電話で、「楯の会に入らないか。」と誘い、電話を「君の妻に変わって。」と言って、妻に「木村さんを愛しているか。」と、三島が尋ねたとのこと。「三島由紀夫が女と会う時、ヒタメン」という本の内容が思い出された。
難しいし面白くないけれど、観たらいいと思う
劇場で久しぶりに2桁観客数だ。それも200席程度のスクリーンで。さすがに俺みたいなおっさんばかりだけれど。
TOHOシネマなので、事前CMは「フリーガイ」や「モンハン」だったりと、同じドキュメンタリーを観るにしても、やはり渋谷イメージフォーラムや東中野ポレポレでとは、ずいぶん雰囲気が違う。
本作は、面白くはないし、言ってることは難しいしだけれど、TOHOシネマで本作が公開されているということは、全国津々浦々で観られるということ。これは、実はすごいことだと思う。コロナ禍の中で言いにくいが、可能になったら、みなさんが観る機会があったらいいな、と思う。
さて本作だが、自分は、1960年生まれで時代的に学生運動とかすかに重なっているので、観た。三島氏が、自衛隊市ヶ谷で割腹自殺したのは1970年、俺は10歳。その前々年1968年に、学生運動の実力行使の最後の砦ともいえた安田講堂が陥落している。本作で描かれている討論は、実力行使に敗れた学生(のうち全共闘)が、活動をこのまま終わらせてはいけない、という思いから、当時の人気文学者である三島氏と自分たちとの対談を企画したものだということを初めて知った。
大学構内にまだ各セクトの横長立て看板がいくつも立っていた1978年に、自分は大学生になり、その年、学生運動の名残ともいえる風景を目の前で二つ見た。ひとつは入学したての春、大教室でなかなか授業が始まらず、代りに、あるセクトの演説が始まったシーン。もうひとつは、秋の学園祭で、俺たちの模擬店の前を、頭から血を流した学生が転げるように走っていき、「なんだ、なんだ?」と驚いているところへ、学生が数人、当時 "ゲバ棒" と呼ばれていた角材を手にし、「待て!この野郎」と追いかけて行った、というシーン。まさに「学生運動とその内部抗争」なわけだが、ただ、俺が見たのはその2つだけだったので、 "名残" だったのだろう。その後の学内は、学生運動よりも、"統一教会"(サークル名 "原理研究会")と "歎異抄研究会" の対決に移っていったように記憶している。
まあ、学生運動は、俺がこの程度しか書けないように、78年の学生からは、すでに離れていた。自分は、民青と全共闘の違いも知らなかったのだ。
映画はドキュメンタリーで、その中身は討論なので、面白いはずはない。かつ、三島氏も全共闘も言うことが難しい。というわけで人にお薦めする映画かと言われたら難しい。しかし、冒頭に書いたように、みなさんが観る機会があったら嬉しいなとも思う。
こんな感じだ。
三島氏「エロティックと暴力は根源でつながる。エロティックは、相手を拘束し自由が利かない状況にすると感じる。自分が考える暴力も、相手の自由意思を奪って行われるもの。相手に意思を認めた上で振るわれる暴力は、自分が考える暴力ではない」
さらに、"解放区" に関する芥氏との討論は、もはやわからなすぎて、ここに何も書けない。
当時44歳の三島氏と、21-23歳の全共闘の学生の討論だが、三島氏は「討論しよう、話し合おう」という姿勢であること、学生側は、さすがに若いので、「三島氏を言い負かしてやろう、ぎゃふんと言わせてやろう」という姿勢が見受けられる。とは言え、両者はたしかに "討論" をしている。その姿を観ることは価値があるように思う。
討論以外に印象的だったことをひとつふたつ書く。まず、芸術家と自分の遥かなる隔たりを、全共闘の芥さんの言動にみた。全共闘の中でも際立っていた彼が話した内容はちんぷんかんぷんな部分が多かったが、「何もない中で語るとしたら、どう語るか。モノもない世界であなたは何を話すのか」という芥さんの問いかけは、前衛芸術家は、そんなことまで考えているのか。彼らの言う「魂の叫び」は、俺たちが考えるその言葉とははるかにかけ離れたものなんだな」と知った。自分は、"社会性" は生物の本能のひとつとも思っているのだが、そうとは限らないのかもしれない。ここまで「自分ひとりだったら」と考える人たちもいるのだというのは驚きだった。俺は、一生、彼らとは交じり合わないかもしれない。そのせいか、現代の芥さんが語る「憎むべきは、あやふやで猥雑な、この日本国」という言葉については、その真意がまだわからないままだ。
また、"三島氏を論じる文化人" の立場で登場する三人、内田さん、平野さん、小熊さんには、「世の中にはこんなに頭がよい人がいるんだなあ」と感心させられた。ここで言う頭がよいとは、三島由紀夫や全共闘が対話で語った言葉を、「こんな意味で言ったのだと思う」と俺たちにもわかるように解説する能力、という意味で書いてます。三島由紀夫が言った「あなたたち(全共闘)の行動を、天皇の名において、やれ」とは、どういう意味なのかを、説明できるって、すごい。「左翼と右翼は本質的な区分になっていない。両者は "反米愛国" という点で一致しているから接点があるという意味です」という説明もすごい。
終盤で語られる「三島氏(と同時代の人々)は、"国運と個人の命運が完全に一体" となっていた」という解説も、腑に落ちた。三島氏が言う「私は日本人なんだ。そこを越えていく必要は感じないんだ」という言葉は三島氏だから語れることであって、いまの時代の俺たちが安易に「そうだ、そうだ」と相乗りできるものではない、ということだ。日本、国、国家という、人間にとっての領域というか境目は、必要悪であって絶対的なものではない、と俺は、実は、初めて知った。そういうものがなくてもすめば、つまり、人類がすべてひとつになれれば、その方がいいんだね。
本作のナレーション、「彼らの"熱" と "敬意" と "言葉" は忘れるな」はその通りだと思う。語られていたことではなく、熱をもって臨むこと、(相手に) 経緯をもつこと、言葉 (は必ず伝わる) と信じること、この3つは、せめて忘れないようにしよう。
追記
三島氏が自衛隊で乗ったというF14戦闘機。自分は小学生か中学生の頃に、この機種のプラモデルを作った記憶がある。愛称は "スターファイター" 。ただの昔話。
予備知識が全く無いと辛いかも
ドキュメンタリーなので、ネタバレではなく、歴史的事実として。以下を前提として知っておいた方がいいし、この歴史に関心が無ければ、観ても仕方ない。
今から50年前のお話。1969年というのは学生運動の最盛期で、1月には有名な安田講堂攻防戦があった年。その5月に、三島由紀夫という極右の作家と、全共闘(全学共闘会議)という極左の学生が行った討論会を中心としたドキュメンタリー。
三島由紀夫は当時、ノーベル文学賞を川端康成と競う程の大作家でありながら「盾の会」という学生民兵を率いて、筋肉ムキムキに鍛えて、自衛隊で実弾射撃訓練をして、この討論会の1年半後に市ヶ谷で割腹自殺します。
東大全共闘は、前年に組織されるや大学や文部省だけでなく、一般学生や同じ左派の日共(日本共産党)や民青(共産党の下部組織)を向こうに回して、安田講堂で大立ち回りをしたバリバリの極左。
で、ややこしいのが、日本共産党は全く左翼ではない。共産革命なぞとっくに放棄し、大学側にたって学生運動を潰そうとしていた、極左の全共闘にとっては敵勢。また自由民主党も全く右翼ではない。天皇陛下に生きながら戦争責任を押しつけ、ひたすら謝りさせていた米帝の傀儡政権。極端に言えば、当時はこういう見方が一般的でした。
で、前置きが長くなりましたが、面白かったです。
討論会は、まあ、屁理屈みたいな抽象論の応戦です。当時の大学生の雰囲気を楽しんでください。学生結婚で子供を抱えていて、三島も学生もタバコ(ピース)をスパスパ吸って、サルトルを引用した哲学語ってをして、ゲバ棒や武器持って闘争していたんです。
ドキュメンタリーの作り方として、討論会映像の合間に、かつての学生たちが解説を入れるスタイルです。2月に観た「愛国者に気をつけろ」でも思ったのですが、今ならギリギリ、当時の人たちが70歳から80歳で生きているんです。この証言はもうこの先は聞けない、という貴重さも魅力です。
最後に、なんでコレがテレビ番組にならないのか。TBSが持っていた討論会の映像ですから、特番でやれば?とも思います。が、無理でしょうね。哲学も学生運動の歴史も若い人は知らないし、興味もない。何より「コンプライアンス」的に公共電波には「不適切」な内容かも。上記のタバコもそうだし、三島の発言もピーな発言が多い。地上波でやれば潰されるでしょうね。ちょうどナビゲーターも東出君だし。
まあ、それはそれでいいんじゃない、と思う一方、ワッケン司令ではないが「寒い時代だと思わんか?」とも言いたくなります。
三島式シンクタンク ~すべては対話から始まる~
当時の若者は生きることに真面目で一生懸命だったから、
あのようなムーブメントを起こし魂をたぎらせたのでしょう。
さぞ理屈っぽい議題を取り上げてくるかと思っていましたが
純粋でいて普遍的なことを、言葉のやり取りで、
互いの思想をつまびやかにしていく…
そんな、若者たちと三島氏が共同作業をしているように見えました。
印象に残るのは、若者の話を聞きながら三島氏が嬉しそうに煙草を吸う場面と、
芥氏と仲良く煙草のやり取りをする場面です。
あくまでも世間的?に“右と左”の対極関係にありつつも
論破したり看破したりせず、ちゃんと相手の話に耳を傾け存在を認め合う
そんな、同じ時代を生きる同士のように見えました。
そして三島氏は若者にとっての【話の分かる大人像】であり
若者は三島氏にとっての【これからの日本を託す子供像】
だったんじゃないのかな?
もしも、三島氏が自決を思いとどまり
あともう少し、生きて、影響力を及ぼす存在であり続けていたならば…
日本はどのような国であったのだろう?
三島由紀夫氏とのことは、
若松孝二監督作品『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』
で語られていることぐらいしか知らなかったんですが
自決前の自衛隊への演説シーンの、物悲しい空虚さときたら…
やっぱり三島由紀夫は若者と絡んでいた
この時代が一番輝いていたように思いました。
言葉が大切に使われた最後の時代 追記(2020年4月17日)
追記:映画館も閉まっているので、2015年に放送されたNHKの番組「三島由紀夫」を見ました。時系列に、そして関わりのあった人々ー美輪明宏、ドナルド・キーン、横尾忠則、高橋睦郎などー(映画にも出ていた芥さん、木村さんも)へのインタビュー、並行して、編集者から見た三島の作品の変化の話も面白く、色々と考えさせられました。映画は、三島と全共闘の学生との出会いと話に重点が、NHKの方は三島そのものにポイントが置かれています。空間(解放区)のみに意義を認めた全共闘、時間と継続に意味を持たせたかった三島の間の違いは、あまりに大きいと思った。
…………………………
反知性主義という言葉が50年前に発せられたことが一番衝撃的だった。三島の言ってる意味と、今の反知性主義(首相や国会議員見ればわかりますよね)は意味が異なるが、三島が生きていたら、何と言うだろうか。
三島の、鍛えた肉体を意識した姿に嫌だなと思いながら、彼の闊達で丁寧な物言い、笑い、目、言葉、そして学生の発言を最後まで聞く礼儀正しさに魅入られてしまったではないか!スーパースターだったことが、よくわかった。映像の力はすごい。
学生の言葉は認識で、結局、行動に降りてこなかった。だから私は日本の68年世代(全共闘世代、団塊の世代)が、好きではありません。大学の学費を無料にする教育改革もせず、alternativeなライフスタイルに行くこともなく、環境保護に意識を向けて緑の党のような政党を作る方向にも行かず…。大学卒業して社会人になって、何してたの?
三島由紀夫という、天才の大人の掌の上で楽しく遊ばせてもらった全共闘の人達。よかったね。ちょっとヤキモチ。だけど、あの時代に男が、まして女が大学に行けたって、すごいことなんだよ。そういうこと言った瞬間に、口を閉ざしてしまう世代だと思います。
団塊の世代前
10代の頃読み漁って現在あまり覚えていない中年です。そんな私の中にも綺麗な文章という記憶とその頃流行っていた限りなく透明に近い…、とはえらい違いだなと思った記憶の三島由紀夫。
真摯に紳士な当時の三島由紀夫さんが東大の教養学部で登壇します。周りの中高年たちと少しずつ席を離して観て参りました。
子供時分には陳腐に捉えていた盾の会の軍服が今日はかっこよく感じました。内田樹さん好きで読んでいましたが、かっこいい。でっくんの映画のなかでのいい意味の存在感のなさがよかったですよ。
三島劇場
三島の声や笑い顔をこんなに長時間観たのは貴重かと。
討論バトルは、勝たなくても負けなかった三島の場となる、まさに三島劇場。罵声や暴力沙汰も無く、常に敬意を持った言葉の応酬。クールで粋で時に場を緩める三島に感心した。なかなかカッコいい。すなわち三島劇場。
良い映画だが、飛び抜けた良作とは言えない。
テレビサイズで十分。独占フィルムったって、こういうのをテレビで放映する事がテレビ復活の鍵となるのだよ、TBS。
芥氏の当時から現在に至るまでの、変わらぬ偏屈さがエグい。
あの時代の若者のカリスマだったんだな。
三島さんの、社会における立場を詳しく知らなかった。
派手な作家で、社会活動的な運動をしていて、
運動家で、最後は割腹自殺してしまった人
というくらい。
とんでもないじゃないか!
映画スター三船、加山、スポーツ界の長島を押せえての
若者の人気投票で1位だったぞ!
この映画の舞台となった討論会にどれほど演出があったか知らないが、そこで述べられている言葉と、姿は、
嘘ではないなと信じたい。
感想
ひとつは、心と身体。
簡単に言えば、健全な精神は健全な肉体に宿る。
片方ではいけないってことだ。
実際、お金より健康が大切なんだよ。
健康なら、お金を稼いで生きていける。まあ極論だけど。
もうひとつ、三島は、戦争で死に遅れたと感じていた。
国の運命と自分の運命がリンクしていた時代。
国=自分。
国vs国の全面戦争だから、当然。
国家がしていただけじゃなくて、国民が進んでしていた面も
多分にある。
8.15ですべてが変わる。
なぜ、素人でもわかる国力の違うアメリカと戦争に突入したのか?いまだ議論は続いて、明確な結論はなく、
今の大多数の若者は考えてもしない。
自分もそうだった。
だけど、少し社会にでて、モノを考えるようになると、
必ず突き当たる問題だ。
なぜ、今の日本はこうなった?
三島さんらの世代は、当然強烈に考えたはず!
戦争があり、負けて、アメリカに占領されて、
アメリカ民主主義を押し付けられる。
出した答えが、憲法改正しか無い。
だって、憲法で戦争放棄してる国なんて、
大国の中では日本だけ。各国がそうなればイイけど、
現実はそうじゃない。単なる理想論。
両手両足を縛られて、国際社会の中での存在していく
そんなの、日本以外できないよ。
若者が、まだ情熱を持って社会を改革しようとしていた
良くも悪くも全共闘世代。
安保反対運動から全共闘だから、憲法改正で
共闘できた可能性もあったのか?
自分は、改正論者だったけど、
生きてるうちは無理っぽいな。
だから、せめて自衛隊だけでも明記しようとするのも
理解できる。
真の独立国になるには、アメリカからの保護と
縛りからの独立しかないのは明白。
それは、かなり覚悟がいる事で、
困難な道のりだけど、
自分ならどうするか、考え続ける。
映画を通して、また考えるキッカケとしたい。
「言葉が力を持っていた最後の時代」
全共闘の名を知ったのは「ぼくらの七日間戦争」を読んだときだったと思う。あれは中学生が学校に反旗を翻す物語だが、主人公らの親が「全共闘世代」といい設定である。子どもらはそれをスマートに模倣してみせるわけだ。
「ぼくらの七日間戦争」が1985年刊。その時点で「全共闘」は遠くなりつつあるものだったのだ。
さて、この映画で映し出されるのは、安田講堂陥落後、1969年5月13日に開催された、東大全共闘と三島由紀夫の討論映像である。
碌に知性を育んでこなかった者にとっては難解極まりない議論である(反知性主義の意味を考えさせられる)。芥正彦は若者特有の詭弁から抜け出せてないように見えるのはわたしだけだっただろうか。しかし73歳の彼も一貫していたので、「彼」は自身を曲げなかったのだという、なぜかしらの安堵感があった。
討論は激昂することなく展開され、お互いの共通項も見出されつつ、それでいて徹底的に空転しているようにも見える。
「世代の差」はやはり大きく、再三指摘されるとおり、三島由紀夫は「生き残ってしまった世代」であり、「天皇」に対するアンビバレントな感情を隠さない。対して東大全共闘の思想、そこには「闘う」という意思を持ち行動しつつも、それがどこへもいけなくなっているものを感じる。闘争の疲弊は必然だったようにも思う。学生運動、新左翼が先鋭化するのはある意味帰結点だったような。
とはいえ。そこで言葉を放つことが重要なのだ。「媒体として言葉が力を持っていた時代の最後」と芥は語るが、認めざるを得ない。今、この世の中でこんなに言葉は力を持つだろうか?
しかし、この1年半後に三島は自決するのである。もう既に片鱗を感じてしまう。「熱情に期待する」三島の姿に。具象として何に対して熱情しているかは別にして、三島も全共闘も熱情していたのは確かだ。
ちなみに私の母校(高校)は学生運動の煽りで制服と校則がなくなったので、決して学生運動は失われた遠い時代のものだけではないことは書いておこうと思う。
若者に見てほしい
中学生を連れて行きました。内容を理解しているかは怪しかったですが、食い入るように観ており、何か大切なものをつかんだ様に見えました。青少年が観ても、決して有害なものではありません。日本で暮らす外国人も、本当に日本に興味を持ってくれるなら、できれば見てほしいかな。
分かりやすくて非常に面白かった
半ば学びのつもりで─、と思っていたけれど、実際にはかなり楽しんだ印象。何よりも、三島由紀夫という人物がやはり魅力的であった。
物心ついたときから今までも、右翼とか左翼などの概念がよく理解できなくて、とかく日本におけるその境界が何なのか全くわからないでいるのだけれど、時とともにそれが何なのか少しずつわかってきて、この作品もそれを理解する上で非常に有効のように思えた。
その時代を生きなければ本当に知り得ない概念も、丁寧に語られているこのドキュメンタリーなら、かなり理解できるはず。
ただ、どんなに色々と見聞きしても理解できないのは三島由紀夫が最後に起こした行動。その知性を知ろうとしても無理なのはわかっているけれど、何故に腹切りをしたのか理解できない。あの流暢で魅惑的な弁舌を見ると余計に謎が謎を呼ぶ気持ち・・・と同時に瀬戸内寂聴が語っていたように、もったいない、という思いが強まるばかりだった。
この貴重な映像を最高の形で残してくれたことに感謝するとともに、この時代を反映した三島由紀夫の生の声を聞くことができない無念を思わずにはいられなかった。
言葉は・・通じない
新型コロナ型が世間を騒がせているこの時期に、映画館にあつまるのだろうかという心配をよそに多くの客がいた。見るからに客の平均年齢は高く、50代半ばの自分でさえ、全体から言えば下の方ではなかったか。多くが「その」世代、あるいは彼らから感銘を受けた、受けようとした年代なのであろう。
既に『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』を読んではいたが、そしてドキュメンタリーで少しは知ってはいたものの、「この」世代に対する言うに言われぬ感情もあって、どこかほおっておいた気もする。
当時としては熱い語りであっただろう。それは彼らにしてみれば自分が生きる時代の言葉そのものであっただろう。しかし今見てみると、お互いがその言霊主義に酔いしれている様にもうつる。所詮は言葉を手に入れた、入れていると思っている擬似(似非)エリートによる自慰ではなかったのか。若者の言葉というものは、どこか浮ついていて、観念論を否定する言葉も観念的である。従来の知性を打破しようと反知性主義を装ってみても、どこかそれは民衆には届かない。
彼らが人々にとって唾棄されるべき机上左派であったがゆえその力は衰えたのだろうか。
ならばまた、人々を蔑ろにする排外主義的な右派ならば、これもまた同様にいずれ滅びるはずだ。
この様な言葉による知的遊戯を戦後民主主義の出発とするというのは果たして正しいのだろうか。
それを熱情などという幼稚な言葉で語って本当に良いのか。
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でもな、
映画の最後、エンドロールが始まった途端、席を立つ人の多いこと。
俺の前を遮るな!
やっぱこの世代って唯我独尊の自己中なん?
自己中心的連帯エクスタシー主義者なん?
ま、三島が語った様に他在が物象化すればするほどエロいんやけどね・・・。
お、共闘できるやん。。笑
で、ナレーションの東出が、お互いに真摯に言葉をぶつけ合うって・・・言うなや!
なんかこのドキュメンタリー、コミカルにも見えてきた・・・。上映された時期が悪かったのか。
三島由紀夫の一人勝ち
存命の方が多いので、以下敬称略です。
この映画は、三島由紀夫の視点で描かれているのでそう感じるのかもしれないが、この討論は、終始三島がコントロールしていたように感じられる。
まず最初に三島の方から議論の土台というか、相手がしゃべりやすくなるような引っかかる言葉を多分に含んだ演説を行い、学生たちを刺激する。学生たちはそれを受けて、他者は、とか、空間論や解放区などの認識論的な話を繰り出す。これは三島からしたら行動する前に認識についてしゃべっているのと同じで、大学の偉い先生たちが理屈をこねくり回しているのと大して変わらないように感じられたのではないだろうか。それでも辛抱強く議論に対応し、その中に少しずつ、日本論や天皇論の話題を紛れ込ませ、三島がおそらくしたかったであろう天皇論に議論を進めていく。
議論の途中で、「あっけにとられて笑うしかなかった」という振り返りの言葉があったが、あの瞬間に、その場にいた学生の多くは、「落ちて」しまったのではないかと思う。
そしてその場の空気にいたたまれなくなった、一番の論客で、ある意味場の空気に左右されない存在だった芥は、「飽きた」といって会場から出て行く(勝手に出て行けるだけ気楽なもんだと思うが)。
挙げ句の果てに、議論の終わりに、全共闘の学生から、共闘できないか、という言葉を引き出す。あれは思想の左右の違いのようなものはあっても、三島の言葉に学生たちが同調した瞬間だったのではないかと思う。さらにダメ押しで、三島は討論の後に主催者である木村に電話をかけて、盾の会に入らないかと訊いている。このときに遠回しに断った(周りに誰もいなければ「はい」と言っていたかもしれない)ことを確認して、三島としては、討論の目的の大半は果たした、と考えたのではないかと思う。
実際にはいろいろと違うところはあるかもしれないけど、少なくともこの映画からはそう感じた。文学者として、思想家としての三島由紀夫の存在の大きさが、東大全共闘の学生の比ではなかったことを端的に表しているのではないかと思う。
バランスがよかったです。大人の解説に助けられました。
識者らのコメントや解説が要所で挿みこまれて、
素晴らしい編集でした。初心者にも分かりやすいです。
全共闘のメンバーのお一人が三島氏を「敗者」だと
対決したり、現在のインタビューで全共闘のメンバーに
「あなたは敗北したのですか?」と聞いたりと、ドキドキ
ハラハラしたものでした。
けれども、識者の良識あるコメントに助けられ、
「勝ち負けとかそんな低い次元のお話ではないんだ」
と心の置き所を修正することが可能でした。
いやむしろ、こんな風に学び舎(母校)で文豪と討論し
時間を共有できたなど、羨ましくも思いました。
没後半世紀
そう考えると、三島由紀夫は既に歴史上の人物なのだな、と思ってしまう。
当時の学生運動のことはニュース映像などで見聞きした程度だが、これを観て、その熱量は充分伝わってきた。
主義主張の違う者同士が論戦を交わす場を設けたうえに、何より互いの言っていることにもきちんと耳を傾けていることが、とかく排他的な現代の風潮からすれば、すごく健全に映る。
当時既に文壇一のスターであった三島からすれば、学生側の売名に利用されるだけかも知れないこの場にのこのこと出向く必要もなかっただろうし、全共闘側も三島にやり込められてたじたじになって全体の士気が低下するリスクもあったろう。
ややもすれば、それぞれが互いの主張を展開するだけの合同演説会になっていたのかも知れない。
そう考えると、オファーした学生側も受けた三島も大英断だったのだと思うし、一応は討論会の体を成しているのは互いをリスペクトする気持ちが少なからずあったからだろう。
かと言って、この討論会に参加していた者に思想信条に変化があったわけではないだろうし、時代を越えて今現在スクリーンを通して観ている観客に大きく影響を与えるわけでもない。もちろん、この映画の制作者側も、そんなことは企図していないだろう。
ただ、この熱気が感じられれば、それで良いのだと思う。
ただ、一つだけケチをつけるとすれば、ナビゲーターの東出昌大は全然ダメ。0点。進行の邪魔。
声質がナレーション向きでない。この手のドキュメンタリーなら、専門のナレーターに任せた方が良かったのに。
下衆の勘繰りになるが、TBSは起用を決めた時点で東出の不倫を知っていて、早晩騒動になることを見越して、映画のいい宣伝になると思っていたのでは?
熱情?
vsと題名はなっているが、全共闘が三島氏と対決しているようには見えなかった。
何と言うか、福祉大相撲で、横綱一人に群れていくチビッ子たちが学生諸君っていう印象でした。
TBSのニュースソースに限界があるのか監督の編集能力に問題があるのかはわかりませんが、少なくともそれほど緊迫感が伝わってきません。
私には三島氏のいう熱情は伝わってきませんでした。
☆☆☆☆ 簡単な感想。 〝 《言論》そのものが成立していた熱い時代...
☆☆☆☆
簡単な感想。
〝 《言論》そのものが成立していた熱い時代 〟
この中で語っている言葉の、精々2割程度しかおそらくは理解出来てはいないが。現在の様なネットの社会の中でのみ、自分の存在を誇示したがる【承認欲求】のより強い人間こそが観るべきな作品…と言って良いでしょう。
当時の三島由紀夫の心情や、思想の基となる根源的な問題点を説明する平野啓一郎や。この討論会に於ける社会背景であり、一体何の事について語られているのか?…と言った辺りを、分かりやすく説明してくれる内田氏の解説等で、最後まで一気に観れてしまう。
それにしても、未だに闘争を続けている芥正彦は超〜ヤベー奴(^^;)
平野啓一郎曰く、「三島は生き残ってしまった世代」の言葉には、『タクシードライバー』でやはり。ベトナムの生き地獄から生き残ってしまったトラヴィスの面影を、ほんの少しだけ感じずにはいられなかった。
2020年3月22日 TOHOシネマズ錦糸町オリナス/スクリーン1
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