三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価
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相手の敬意を持つこと
当時を知らない筆者は、全共闘にも学生運動にも三島由紀夫にも思い入れはなく、歴史の中の出来事と言う感じなのだが、この映画は今を生きる人間に響くものがあると強く感じた。
安田講堂事件を引き起こした左翼学生グループの全共闘が、保守の論客でありスーパースターの三島由紀夫と激論を交わす。互いに思想信条は相いれないはずだが、議論の果てには共通の敵のようなものが見えてくる。全共闘メンバでーでこの論戦でも壇上で三島を激論を交わした芥正彦は、当時を振り返って、それは「あいまいで猥褻な、この国」と表現する。
映画を通して感じられるのは、互いへのリスペクトだ。豊島監督は映画を作るにあたり、仮想的として現代のSNSの議論を思い浮かべていたそうだが、たしかに敬意なく罵詈雑言に終始し、マウントを取ることばかり考えているかのようなSNSの空間と、この講堂での熱は対極にありそうな気がする。
三島の天皇論もわかりやすく披露されており、三島由紀夫の思想を知る上でも貴重な資料になる作品だと思った。
三島由紀夫も東大生もアツい。ウザい。
三島由紀夫が割腹自殺したとき、私は小学生でしたから、現役時代の三島に関する記憶はまったくありません。だからこの映画で初めて、動く三島、喋る三島をちゃんと見ました。「論壇」とか「言霊」とか、今のネットメディアには登場しなくなった単語が頻出で、「そんな時代もあったのね」と不思議な感慨が湧いてきます。それにしても、三島由紀夫も東大生もアツいしウザい。「安保」って何? 「民青」って何? 「革命」って何? 50年で時代はこんなに変わるんですね。
ノンポリ世代も見やすい「三島由紀夫という右翼」指南
ドキュメンタリー映画化を依頼されたのが豊島圭介監督という人選が面白い。東大卒という経歴が理由だったのかは知らないが、豊島監督はこの討論会の時にはまだ生まれておらず、政治的なステートメントを押し出してきた映画作家でもない。だからこそ本作は、三島由紀夫や学生運動を知らない世代に、とてもエネルギッシュで面白い人たちがいた、という事実を提供してくれている。
特に驚いたのが三島由紀夫の佇まいや論法で、世代が違う若者たちの土俵に敢えて乗ろうという姿勢は、頭の凝り固まった老害ではまったくない(老害というにはまだ若いが、当時の学生たちには老害に見えていただろう)。マッチョ信奉で極右化した文豪、という雑な先入観がこの映画によって書き換えられたのは大きな収穫だった。
ただ、ノンポリな姿勢故に、この映像が現代にどんな意味を持つのかを提示するまでには至っておらず、興味と好奇心を刺激された者として、もっと踏み込んだものが観たいと感じはした。ともかく入口としての機能は確実に果たしてくれていると思う。
三島以上に、赤ん坊を抱いた男の印象が強烈すぎた・・・
三島の本は2、3冊しか読んでないし、その内容もはっきり覚えていない。そんな自分がこの濃厚な香りが充満するドキュメンタリーを見て何か感じるものがあるだろうかと、多少なりとも尻込みして臨んだ本作。いやいや、この圧倒的な熱量には度肝を抜かれた。何かを表現するたびに右だの左だので喧々諤々となる昨今、ひとつ間違えば本作もその格好の餌食となりそうなものの、しかしこの映画は決してそうならない。作り手の豊島監督が証言者たちに色々教えてもらいながら当時を振り返るというスタンスゆえ、映画の視座そのものがとても観客に近い、とでもいうべきか。主義主張の異なる両陣営が暗黙のルールを侵すことなく、さらにはユーモアという武器を駆使しながら戦う様は見ていて痛快だった。何よりも登場人物一人一人のキャラクター、特にあの赤ん坊を抱いた男の存在が際立っている。史実をあまり知らなかった私は、一本の映画として本作を楽しんでしまった。
すごい人間
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学生運動が盛んな時期に行われた東大全共闘1000人と三島の討論会。
当時を知る人達の談話を交えながらのドキュメンタリー。
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三島由紀夫って顔さえもあんまり知らん状態やった。
でも色んなことに興味を持とうと思ってるので、劇場で見てみた。
いやーこの人物、すごいの一言。
襲撃される恐れさえある中での討論会、腹が座ってる。
もっと怖い感じの人なのかと思ってたら物腰が柔らかく、
とにかく血気盛んで自己主張の塊みたいな学生の話もよく聴く。
そのうえで自分の意見を主張する、とにかく敬意に満ちている。
映画の中でも誰かが評してたが、言い負かそうとなんて一度もしてない。
同じ革命思想を持つ人種として、学生たちを説得しようとしてる。
そういう嘘のない発言は、違う考え方の人達にも受け入れられるのだろう、
時には拍手、時には笑いが起き、学生たちに受け入れられたようだった。
こういう生き方って格好いいな、って思ったわ。
ただ討論のテーマは少々難しい。ついて行けないことも多かった。
時代背景を知らないからというのもあるだろうが、深すぎるからだろう。
でもそんなのどうでもいい、大まかな歴史と雰囲気を知るだけで十分感銘を受ける。
全共闘、当時のエリートたちは何を思っていたのか。
全共闘について調べてた過程で見つけた映画として鑑賞。
当時の空気の一端と、三島由紀夫氏のカリスマ性を感じるには良い作品だった。
全共闘は、ヘルメット、火炎瓶、大学封鎖、みたいな過激で穏やかでないイメージがあったんだけど、こんな知的討論の場を設ける側面もあったんだなあ、とイメージが少し変わったかも。
当時の活動に参加してた人々の複雑な思いを知れたのも良かった。
タイトルが大袈裟かなぁ
本は読む方だが、どうも三島、太宰、芥川には触手が伸びず、たまに読んで見ようかと思うが数ページで挫折。三島由紀夫と言うと切腹と男色のイメージだけ。なんか気難しく、人の話をまともに聞かない人間と言う先入観があったが、学生らと対話する時の彼は時には有能なMCの様。深夜の討論番組で気にくわないと「黙れ!」と遮る某老司会者とは随分違うなぁw
ただ、タイトルはやはり大袈裟。と言うのも、「VS」と付ける激しい討論ではなく、頭良すぎて、自己満足の屁理屈を語る学生を三島由紀夫がいなしてる様にしか見えない。あれ、言っている本人以外の学生は理解出来てるのかなぁ。
村上春樹のノルウェイの森でも学生運動(舞台のモデルは早稲田)の様子が少し書かれていて、教授を追い出して演説を始めた学生らが、就職活動の時期になると慌てて単位を取りに必死になり、主人公が「運動はどうなった?」と聞いても返事はない。
東大の彼らはどうだったんだろう。一部は暴走したままになったが、世間は何も変わる事無く、彼らは祭りを楽しんだ後、就職活動を始めたんだろうか。
三島由紀夫の天皇論、闘っている相手は同一とする東大全共闘運動への共感は刺激的
豊島圭介 監督による2020年製作(108分)の日本映画。配給:ギャガ。
全共闘活動も良く知らず、三島由紀夫も文学作品は幾つか読んでいるものの、政治的なスタンスは狂信的右翼のイメージしかなく、諧謔的なユーモアを交えながら学生たちに哲学的考えを語る三島の姿は、実に新鮮であった。
三島が語る天皇、日本人を日本人たらしめている古代からの思想、その象徴的な概念として天皇が有るとのインテリ的な想いは、自分にも理解できるところがあり、少々驚いた。別の世界の人間と思ってきたが、三島由紀夫のことを、もう少し詳しく知りたいとは思った。加えて、左右の違いはあれど、闘う相手は同じ変化を望まない体制維持派(国益を損ねている)との三島の認識は、現時点においても一層顕著にも思え、考えさせられるものがあった。
赤ん坊を担ぎながら討論した東大全学連の論客芥正彦も、随分と浮世離れしていたが、その後も筋金入りの変革的劇作家として活動を継続してきているらしく、かなり関心を抱いた。あの赤ちゃんは娘さんで、妻は東大美学科卒であの時仕事中だったとか。その後、中島葵が内縁の妻となり、今も現役の劇作家や表現者であるらしい、なかなか凄い。ただ、若者らしい活動継続に意味が無いとの主張も理解はできたが、自分的には継続に意味大と唱える大人の三島の考え方の方に軍配を挙げたいとは思った。
監督豊島圭介、企画プロデュース平野隆、プロデューサー竹内明、 刀根鉄太、共同プロデューサー大澤祐樹、 星野秀樹 、岡田有正、撮影月永雄太、録音小川武、編集村上雅樹、音楽遠藤浩二、音楽プロデューサー溝口大悟、ナレーション東出昌大、助監督副島正寛、アシスタントプロデューサー吉原裕幸、 諸井雄一、韮澤享峻、企画協力小島英人、題字赤松陽構造。
出演
芥正彦、木村修、橋爪大三郎、篠原裕、宮澤章友、原昭弘、椎根和、清水寛、小川邦雄、平野啓一郎、内田樹、小熊英二、瀬戸内寂聴。
圧倒的熱量
三島由紀夫vs.東大全共闘というタイトルからすると、単純に右翼対左翼の激論が展開されることを想像した。確かに、両者の理念は正反対で、議論は噛み合っていないのだが、実は反米愛国という部分では一致していて、全共闘側はできれば三島と手を組みたかったのだということが、終盤でわかった。
議論は、時間、他者、国家、天皇などをテーマに観念的、抽象的な言葉が熱情をもって交わされ、ハイレベルな哲学の講義のような光景が繰り広げられる。言葉というものにまだ力のあった時代で、言葉で人を説得し、言葉によって世の中を変えていけるということが信じられていた、純粋で真摯な時代だったのだ。
圧倒的熱量を持った議論など失われてしまった今、コロナショック後の世の中は、変わっているのか、変わっていないのか。
論争の先に見えた本当の敵は何か?
私は世代的に学生運動を殆ど知らない。まして三島由紀夫という人間も、歴史や国語の授業で聞いたくらいの門外漢だ。そんな私でもこの論戦からは目が離せなかった。何故なら、そこには日本の未来を憂う両者の"熱"があったからだ。
立場、思想は違えど、日本の進もうとしている方向に疑問を感じ、行動してきた両者。
だからこそ、彼らが舌戦の末に共通の敵のような物を見出した時の感覚には興奮するものがあった。
そしてその敵は今も変わらずそこにある。
悲しいかな、彼らは歴史に敗北し、我々はその後の日本を生きている。主体性のない国、空虚な日本というこの国で生きている。
もしも彼らの情熱があの時代を革新していたら、我々が住むこの国はもっと良い形になっていたのだろうか?
IFを語っても仕方がない。
理屈ではそう分かっても想像せずにはいられない。
一つだけ言える事は、熱情こそが世界を進める糧であってほしいという事だ。
熱情なき政治の先には腐敗しか待っていないのだから。
対立しているはずの全共闘の若者の演説を、どこか満足そうに笑みを湛えながら聞き入る三島の表情が印象的だった。彼らの熱情を見て、三島自身「この国もまだ捨てたもんじゃない」と、そんな希望をどこか見出していたのかもしれない。
未来を作るのは老人ではない、彼らのような活気ある若者であってほしいものだ。そんな未来に私は生きたい。そう思った。
議論が出来てるが、頭良すぎてバカになってる。
内容は国体思想vs共産革命の議論。議論は民主主義の根幹。実際は思想のぶつかり合いでしか無いが、議論はしていた。
思想の軸が真逆なのに議論をする。
今の政治には無い。
議論はしているが歩み寄ることはない。後日談で三島が全共闘のメンバーを勧誘したって話はあるが現場では軸を譲る事は無かった。
それでも笑い声が上がるユーモア、理解はするが交わらない態度。真剣勝負の議論はいつまででも見ていたい気にさせられた。
しかし議論の中身は思想的なもの、屁理屈vs屁理屈。テーマの立て方はボンヤリしたもの、それに三島が持論を展開。そこからあとは理屈の応酬。
それでも不思議とキャッチボールが成り立ってる。
ただしキャッチボールみたいに取りやすいところに投げるのではない。厳しい場所に速球を投げ合う。
「これ受けれるか?どうだ手が痺れるだろ」と言うようなやり取り。
学生だから出来る議論に三島が合わせる。余裕を見せつけると言うが三島には余裕があったのだろう。対芥以外は相当の余裕が見えた。
余裕が議論としての歩み寄りに見える雰囲気を作り出したのだろう。
こう見えるのは演出の賜物だろうな。面白い作品になった。
右か左か、勝つか負けるかでは無く
右か左か、勝つか負けるかでもなく、
語り合ってわかったことは、
互いにこれからの日本を真剣に憂いた。
今この国を本当に憂いて真剣に考える熱情溢れる若者がどれほど居るだろうか?
最後の在り方はどうかと思うが、出来れば生きてその熱情を持ち、この国を憂い続けて欲しかった。
この時代の熱量を感じる
三島由紀夫の熱、学生達の熱。思想と主張。
個人的にはこの時代の人達の己は正しいっていうところ、理屈っぽいところが好かない。他を認めず己を突き通す感じ。
三島由紀夫のようにそれを己の命までかけて突き通されると何も言えないが。
熱く狂った時代。
相手の立場に立つ、誠実に本気!
現役東大生(全共闘)相手に自分を曝け出してして自分の考え方を述べ質疑応答でも冷静で迷いがない、凄い人だ!と感心する。
でも真面目過ぎた!
思い込んだら命がけ!も場合による。
切腹する事なかったのに?
あんなにどんな人にも誠実に見える人はいないように思いますが、今の時代ならノーベル文学賞は川端康成じゃなく三島由紀夫だったかもね?
惜しい人を亡くしたように思います。
残念。
三島由紀夫本人が登場しているから迫力満点。 抽象的な議論に終始し、...
三島由紀夫本人が登場しているから迫力満点。
抽象的な議論に終始し、何を言っているのか理解できないことも多かったが、それでも当人間では議論が成立しているのがすごい。
三島がこれほどの武闘派だとは知らなかった。
三島由紀夫の全共闘との真摯なやりとりが感動的
三島は決して学生を馬鹿にしたような発言はしないし、学生から馬鹿にされたような発言があってもユーモアを交えて真面目に対応している。1970年の自決も真面目過ぎたのが原因だと思う。
芥氏は『全共闘は失敗しましたか?』と言う問いに『全共闘は自殺しなかった。』と嫌味を込めて言う。
『豊饒の海』と『金閣寺』を読んで、感動したので、この映画を見た。色々な三島研究はされているが、大体は『天才』とか『ナルシスト』とかと語られる。それを否定するつもりはないが、『ペシミストな性格』が第一義だと主張したい。また、理論武装しているが、難解な表現に換えているだけで、自分の考え(イデオロギー)に自信がなかったのではと感じる。それは、豊饒の海(遺作)が大長編な事と、それを書き上げた日に自決した事で強く感じる。映画の中でも、芥氏に完全にやり込められている。そして、肝心な事は、やり込められている自分に酔いしれているように見えた。だから、三島は、どうなるか分かって、この場に乗り込んだのだ。『豊饒の海』の最後もそんな感じを匂わせている。
『一つしかない時間を持ってくる者が一番危険。歴史だけでなく、権力という時間。』芥さんの言葉だけが、イデオロギー的には共感できる。
そして、芥氏は『全共闘は失敗しましたか?』と言う問いに『全共闘は自殺しなかった。』と嫌味を込めて言う。自分達が生きている限り、全共闘は死んでいないと言っているのだろう。
さて、『PLAN75』はこの世代を、『社会にとって邪魔だから消せ』と言っている。つまり、こう言った『歴史』を葬れ!と言うのと同じだと理解されたし。
既成概念に囚われずに、新しい物を作り出す事には賛成だが、方法論として、暴力は排除すべきだと思う。だから、金閣寺を燃やしてしまった事はやはり犯罪に当たると思う。それを題材にして書いた『金閣寺』の主題は美を破壊する事だと思う。それでは、三島由紀夫は何を破壊するつもりだったのか?彼は『新しく建てられた金閣寺』を破壊しようとしたのではと、僕は思った。その金閣の優美なきらめきを彼は醜く感じて、それをこの世から葬りたいと思った。そして、その金閣寺を炎上させて、一緒に自決するつもりだった。しかしはたと考え直し、そんな事しなくとも、自分が自決すれば、『日本の美しい宝』が消えてなくなると考えたのではないか。つまり、自決しても犯罪者にはなりたくなかった。
さて、
文学賞が取れなかった事に対してのヒガミはあったと思う。その復讐を、自分の身を炎上させて、とげることが出来た。芥氏の言うように『大願成就』だったのだろう。三島由紀夫は高みから『俺の本当の良さが分からないから、消えてなくなってやる、文学賞は俺以外取れまい』って言っている。小さい事だが、ナルシストの三島なら考えそうな事である。以上 全く僕の考えである。
三島由紀夫・・・生まれてくるのが早かったのか?遅かったのか?
今から52年前にこんな巨人(近代ゴリラ?)が生きていた。
天才小説家and天皇崇拝and右翼思想家
この映画はそんな三島由紀夫の素顔がありありと見える貴重な映画です。
2020年(日本)監督・豊島圭介・108分
1969年5月13日に東京大学駒場キャンパスの900番教室で行われた
作家・三島由紀夫と東大全共闘1000人との2時間半の伝説の討論会のドキュメンタリー。
三島由紀夫の1年半後の市ヶ谷クーデターにも触れ、
当時の全共闘の闘志の現在や、現代の識者(平野啓一郎他)の解説、フィルムを撮影して保管したTBCなどの証言も聞ける貴重な映画です。
だいたいに学生運動とはなんぞや。
ともかく若者たちが元気活発だった。
何千人ものデモ。
警察に火炎瓶や角材を持って立ち向かう。
その勇敢だったこと。
(就職に不利・・・とか、せっかく東大まで受かった息子の、この姿・・・親が泣く・・・)
そんな忖度は若者に無かった。
世を正すこと!!
官憲に立ち向かうこと!!
秩序を乱すこと!!
今の大人しい若者が見たら聞いたら、あまりの違いに腰を抜かすに違いない。
当時既に三島由紀夫はノーベル賞も狙える大作家で、プライベートで民兵組織「楯の会」を
主催する武闘派でもあった。
そんな三島由紀夫が単身、東大駒場キャンパスで1000人の東大生と堂々と渡り合う
大討論会だ。
会のポスターには三島の似顔絵の下に「近代ゴリラ」の文字。
そして飼育料100円と会費のことを書いている。
三島は終始冷静にしてにこやか。
相手の話を決してさえぎらずに最後まで聞く態度は素晴らしい。
東大の論客は芥という名の闘志が、女の赤ん坊を背負って登壇していた。
小難しい話をする男で、私には殆ど意味不明だった。
彼の抽象論に業を煮やした学生の一人が、
「今日は三島由紀夫をぶん殴る会だと聞きて来たんだ」と登壇するが、
これもことなきを終え、三島由紀夫が論破され顔色を失うシーンは、
残念ながらなかった。
「君らが一言、天皇と言えば、喜んで手を繋ぐのに・・」
と、ラブコールをしたり、ポロリと、
「革命で人を殺して、お巡りさんに追いかけられたら、その時は自害する」
などの意味深発言もあった。
1969年前後は「世界革命の年」だった。
ベトナム戦争
フランスの5月革命
プラハの春の終焉
歴史との距離感が今とは違うのだ。
他人事ではなくて、自分ごと。
世界の歴史を肌で感じるそんな時代だった
ガチで討論する三島由紀夫と東大全共闘。
そんな熱かった時代が懐かしい。
「学生運動」で日本は変わったか?
少なくとも学生運動活動家の意思は様々な業種に浸透して変容して根付いている。
そんな圧倒的な熱量だった。
過去鑑賞
天皇も東大も
まやかしで作り上げられ練り上げられた言葉の呪詛のようなものである。という事を長時間に渡り表した作品。
三島の嘘をつけない魂の清々しさと、こねくり回し独りよがりな思想を展開する全共闘の対話が
後に三島の自決で本質としての違いを露呈した。と言うのが事実だと僕は思う。
なぜ、全共闘の自決はなく、三島の自決で終わったのか?本当に問い詰めるべき事柄ここに集約されているよ。
と見た感想として残したい◎
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