82年生まれ、キム・ジヨンのレビュー・感想・評価
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価値観の見直しを迫られる
社会的メッセージ性の強いテーマに囲まれて、精神的に追い詰められた女性の再生の物語。
とてもいい脚本でした。
世代間ギャップや多くの男性側に刷り込まれた偏りのある女性像などの問題をあぶり出しながらも、そのテーマ性の告発や怒りに収斂させて共感を得ようという安易さは感じられませんでした。あくまでも、精神的に追い込まれたひとりの女性の立ち直りの物語を主眼として描き、明るい未来に希望を抱かせる作品作りに成功しています。鑑賞後の爽やかな安堵感はきっとそのおかげなのだと思います。
差別とかハラスメントなどをテーマにした映画や文学作品はたくさんありますが、こういう問題があることを、まずは知って欲しい人、向き合って欲しい人ほど、この手の作品に興味がないし、自発的な動機で観に行く機会はほとんどないという困った現実があります。
更に厄介なのは、今は旧弊にしか見えない考え方や慣習の中で育ってきた人にとっては、それを否定することは、自分の価値観そのものを否定するように思えることもあるということ、そして旧弊が廃れることに抵抗を覚える人もいることです。例えば、デヒュンの母親にとって、仕事に生き甲斐を感じる女性の存在は、自分の息子にとっては受け入れたくない変化です。
『まったく今時の若い嫁ときたら❗️』
たぶん、ここでレビューを書いていらっしゃるような方々の多くは、この映画で感じるまでもなく、女性に対しての自分の言動を振り返って反省したり後悔することを多かれ少なかれ経験されたと思いますし(私も数え切れないほど心当たりがあるし、いつでも現在進行形で気をつけなければいけないことだと自覚しています。それでも反省しなければいけないことだらけです)、日頃から、他人を無闇に傷つけないような心持ちで過ごされているはずです。
世の中の仕組みや世代的に刷り込まれた価値観は簡単には変わらないけれども、意識的に時代の変化を受け入れ、自分の周囲の若い世代の人たちへの応援の気持ちや優しい眼差しを持っている人は一定数います。一方でそういう考え方の変化にあまり縁のない人も一定数います。
そうであるならば、社会に求められるのは、生きていくうえで大事なことは自分がどんな状況にあろうとも、自己の判断と責任で選択をすること。それができる人を育てること。
そして、その人たちの選択を周囲の誰もが一旦は肯定し、受け入れることができる懐の深い社会を作ること。
よくよく考えると、今の大人たちの大半は、いい学校、いい会社、安定した会社、いい家庭……そんな漠然とした価値観に沿って歩むことが良きこととされてきた時代に育ってきたわけで、人生の岐路に自分の責任で何か大事なことを選択する、という経験や訓練は受けてません。
そんな男どもに、子育てか、キャリアか、どちらもとるか、そんな大変な選択について、アドバイスなどできるはずがないと思います。
私自身がそうですが、多くの男性は女性が生きづらい世の中についての責任を文化的慣習や法的制度的な問題のせいにして、自分が出来ることについての考察はついつい後回しにしてるということがあるのではないでしょうか。
自分は何ができるか。
とても深く考えさせられる映画です。
涙腺崩壊
韓国社会で虐げられる女性を描いた映画?かと思ったら、全然違いました。
この映画、観るべきかどうか判断に迷い、少し遅い鑑賞になりました。
多くのレビューを読んでも個人的にピンと来るものが無く、自己判断で行きました。
結果、「もっと早く観ておけば良かった」と思うくらい、予想外に素晴らしい映画でした。
「韓国社会独自の歪み」や「韓国で虐げられてる女性」を描いた映画という予想とは違い、
もっと普遍的で、人間愛的なテーマが描かれている印象で、そこが良かったです。
韓国特有の問題要素も少なからず出てきますが、この映画が伝えたい物は他にあると感じました。
「男性に観てほしい」みたいなレビューが何故か多いのは、やや違和感。
「男性が気づかない女性の苦しみを知ってもらう」とか、そういう単純な映画じゃないです。
男性だろうが女性だろうが関係なく、この世界に生きる大人なら誰でも観て欲しい映画。
そう感じました。
この映画、原作とは内容が少し違うようですが、逆にそこが良かったですね。
重くて辛いエピソードは多く出てきますが、それだけでは終わらせません。
主人公の彼女の周囲にいる夫、それぞれの家族、友人達が、深い思いやりの心を持って、
色々な問題解決のために、まるで自分の事のように大事に考え、動いてゆく。
その姿が美しく、魅了させられる世界観が描かれています。
鑑賞後、家族や友人や好きな人を大切にしたくなる。そんな素晴らしい映画ですね。
予想していたよりも遥かに良質な内容だったこともあり、5つ星評価にいたします。
キムジヨン
夫が良い人なので
少し救われるけど、でも彼は家のことは大して何もしてなさそうです。
家事、育児、任せておいたら、どんどん妻が元気なくなってきて、おかしくなってきて、どうしよう? どうしよう? みたいな。
外に働きに出る事は、病気の治療になるのかなぁ? ちょっと違う空気を吸えるけれど、家事はたまるし、育児には外野の言葉が刺さるしね。
夫の実家では嫁はまるで家政婦扱い…
これは参るな
最後はなんだか良い感じで終わっていたのが、かえってモヤモヤした。
映画「82年生まれ、キム・ジヨン」は観終わってから始まるあなたの物語。
息苦しいこの世界に出口はあるのだろうか。この映画は、観終わった瞬間からあなたの物語が始まるオープンエンドな映画だ。
映画とは、自分では無い誰かに自分を重ねて観るものだ。
この映画を観ながらにして、私は「もし私が彼女の夫だったならどうしただろうか」という思いと同時に「もし私が彼女だったらどう感じるだろうか」という思いが交互に訪れた。
「女性の生き辛さ」という範疇で収めることのできないとても大きく、深い映画だ。
この映画を観て、瞬時に咀嚼できる人がいるのだろうか。ここは共感できた!ここは泣けた!というポイントは人によって場所は変われど、多くあるだろうし、特に女性であれば心の深くを揺さぶり、突き刺さる場面はもしかしたら10や20に済まないくらいあるのではないだろうか。
でも、私はこの映画で韓国も日本も同様にあるこの生き辛い閉塞的な社会の在り様とか、強固に受け継がれる男性社会における女性の生き辛さについて、殊更に言葉を重ねたいとは思わない。なぜなら、それはもう皆が暗黙の元に感じている共通認識だから。
だからこそ、思う。
この映画を観て、では私たちはどう生きれば良いのだろうか、と。
主人公の彼女は冒頭すでに心が壊れかけている。むしろ夫はその事実を受け止めながらも、直視するのを怖れるように、向き合いきれずにいる。
「どうして、彼女はそんなに追い詰められたのか?」
この問いにどれだけの意味があるのだろうか。
奇しくも82年生まれの彼女と同年代の竹内結子さんや芦名星さんが自殺(だとされている)されたのがなぜだろうか?という問いの意味があるのだろうか。
心という広大で捉えどころのない光と闇の産物を、この世界で、この社会で、パートナーと、自身の家族と、夫の家族と、娘と、日常と、生活と、人生と、過去と、未来と、今と、見えない出口と、後悔と、希望と、憂鬱さと、眠れない真夜中と、変わらぬ朝と、プレッシャーと、周囲の目と、夫を溺愛する義母と、男尊女卑が抜け出せない父親と、必死に生きてきた実母と、甘やかされて育った気の利かない優しい弟と、主張することによって必死に立たせている姉と、鳴りやまぬ子供の泣き声と、突然鳴る電話と、同期の出世と、収入格差と、薄汚れた窓枠と、色褪せたカーテンと、産後うつという理由づけと、気だけ疲れる近所づきあいと、見つからないシッターと、夫自身の手伝ってあげているという無意識の違和感と、いい旦那さんじゃないのという何気ない言葉と、手伝うのは当たり前という夫の実家の暗黙と、無遠慮な義姉家族と、エモイワレヌ罪悪感と、君のためという自分のためと、怖がって手を打たない夫と、小さい頃に夢見た自分と、鏡に映った自身と、どこに、何が、どこまで、原因を数え上げれば、それはそのまま、心が壊れていくことになるのだろうか。
そんなこと数えて意味があるのだろうか。誰もがそこに至ってもおかしくはない。
彼女の異変として夫が気づく、いわゆる‘憑依’や‘別人格’という表に現れた現象を特別視することもできない。彼女の症状に顕著に表れたのがそういうことであって、その根元には、形容のできないほどに、生まれてから今まで37年間の全ての記憶と感情と葛藤が折り重なって、心が映し出し、溢れ出させたひとつのカタチに過ぎない。
私自身も、私の家族も心が壊れそうになったことは幾度かある。壊れかけたカップをセロテープで止めながら日常をどうにか切り抜ける感覚もわかる。
で、どうしたらよいのだろうか。もし自分がそこにいたならば。もし自分の夫や妻やパートナーがそこにいたならば。もし娘や息子がそこにいたならば。もし父や母がそこにいたならば。
甘く見てはいけない。
ふとした瞬間に闇に引きずり込まれることだってあるのだ。そこに至る前にできることはあるのだろうか。
「救えなかったことを一生悔やんでいる」家族は多い。でも救うことって何なのだろう。
家族も、夫婦も、人生も、こうしたら正解なんて、無いと思う。
ただ彼女も彼女で精いっぱい生きていて、彼女の夫も彼は彼であれが精いっぱい、娘の真実を知った母親の嘆きの深さ、でも彼女も精一杯生きてきた。それ以上いったい何ができるっていうのか。私は彼らのその精一杯の姿を思い出すだけで胸が詰まる。
この映画は観終わった後、あなたが命を閉じるまでずっと問われる「この世界と共に生きていく」ことの答えのない大きな問いかけを深く心に残していく。
でもこの映画の最後に垣間見える優しさと彼女のあの表情を見た時に、
あなたがあなたの人生でその出口の見えない場面に立ち会った時、ふと思い出すと、心にすっと風が吹くかもしれない。
行き着いた先の風を感じてほしい。
そこからまたあなたの人生は続いていく。
女性あるある
出産を機に仕事を辞めたキム・ジヨンは、たまに誰かが乗り移ったかのような言動をとる。そんなジヨンが何に苦しみ何に悩んでいるかを描きながら、現代の女性の苦しみを優しく描く話。
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この映画が良いのは、女性あるあるが盛り込まれているものの家事育児が大変というのはメインで出てこないこと。家事育児が大変なことは当たり前なんだから、わざわざそこまで重視する必要ないんですよね。
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その代わりに親から期待されるのは息子ばっかりだったり、痴漢をされた被害者はこっちなのに思わせぶりな態度や服装の問題だと言われることなどなど普段男の人が気にもしていないようなことを細かくちゃんと描いていることが良かった。
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ジヨンの体験全てが自分に当てはまる訳ではなくてもどれか一つでも女性なら共感ができることだと思う。私は一人っ子だからほかの兄弟と比べることはなかったし、女子校で女の人が働いて出世することが当たり前の教育を受けたと思ってるからジヨンに比べたらそこまで辛い思いはしてない。
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それでも、自分の進学より男のいとこの進学が決まった時の方が大騒ぎする父親に、学校で痴漢とかの被害に遭わないためには自分も服装に気を使えっていつかの先生が話してたり、ジヨンと同じような経験は私もしてる。
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触られるまではいかないけど電車でおじさんが異常に近くに寄って来た時は長いスカートだったし、そのおじさんの顔も見てなかったけどね、痴漢みたいなのに合いましたけどね。
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この旦那さんもイケメンで優しくて良い人で、ジヨンを助けたいのにイマイチやることがから回って悪い方向にいっちゃうのもあるあるだよね(笑)1番辛いことが家事育児の大変さじゃないことだってある。あとはその辛さを同じ女性であるお義母さんに理解して貰えないのもかなり辛かったりね。
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私もこれから生きていくうちにガラスの天井にぶつかる日が来るんでしょうか。
こういう映画だったんですね
情報ほぼ無しで鬼滅フィーバーの中、やっと見てきました。コメディかと勝手に思い込んでましたが、まったく違って重い韓国、そして現代社会の闇を描いた映画だったんですね。
日本でもありそうだけど韓国のような長男偏愛の社会なら尚更起こりそうな話と思いました。が、個人的には韓国って結構感情的に怒鳴って言いたいことを言い合う文化と思ってましたが、違う部分もあるんでしょうか。
鬱は産後、育児以外でもやって来ます。日本でももっと気軽にカウンセリングが受けれるようになり、偏見もなくなれば良いと思います。
にしてもジヨンのお母さんの娘を思う気持ちに胸が熱くなります。本当にいい演技でした。
映画は演出的には全体的に冗長でラストもイマイチでした。まだ監督がキャリア不足なのか?役者はよかったと思います。
美男美女カップルに終始眼福
男社会に貢献しない。
わたしは1981年生まれです。女です。
キムジヨンより半年くらい年上です。
原作は未読、書店で積まれているのを見て、文庫になったら読みたいかもって思っていました。
あまり韓国のドラマ・映画は知らないので、ジヨンもデヒョンも知らない役者さんでした。
デヒョンさん、井ノ原快彦氏に似てるなあ…と思っていました。
若くていけめんのいのっち。ってこう書くといのっちがいけめんでないみたいやん。いのっちもいけめんやで。
ジヨンが時々違う人みたいになる症状は、最初から夫の知るところです。
さっさと本人にゆうたれよというイライラは通奏低音としてありつつも、ジヨンが過去に経験した・見聞きした「女にだけ課される嫌なこと」エピソードは、なじみがあるものばかりです。
デヒョンの会社の同僚や、ジヨンの父、デヒョンの母、ジヨンの会社の同僚…
男尊女卑のゲス的言動を見るにつけ、背後から刺したろかいとの怒りを燃やしながら鑑賞しました。
見ながら『タリーと私の秘密の時間』に似てるな…と思って見ていました。
※『タリーと私の秘密の時間』のネタバレ注意※
『タリーと私…』は、3人の子育て中でへろへろのママ(シャーリーズセロン)が、シッターを雇ったことによって、忙しすぎてできなかったこと(掃除とか手作りカップケーキとか)をシッターのタリーが寝てる間にやっててくれた!助けてくれてよかった!って思ってたら実は、雇ってたシッターは若いころの自分だった、つまり若い頃の自分が助けてくれる妄想をしながら実際には自分で全部やってたから、睡眠不足・過労等で死にかけるっていうオチなんです。
イマジナリーフレンドを実在のシッターだと妄想してまで、「ちゃんと」求められる妻・母・女であらねばならぬとおもって頑張ったんですね。女の子が課された呪いの強さにびっくりしちゃう話なんです。
『…キムジヨン…』でも、ジヨンは求められる妻・母・女に「ちゃんと」なろうと努力しました。
自分の意に反しているけど、反論を飲み込み、夢をあきらめながら、「ちゃんと」求められる妻・母・女をやろうとした。
母もそうしていたように。義母や夫が望むように。
苦しくってたまらないけど、「ちゃんと」しなくちゃいけない。でもやっぱりくるしい。
巡り巡って、他人に憑依してもらってゆってほしいことを自分にいうという、とてもまわりくどい(けどせつなすぎる)自己防衛をするに至ったんじゃないかなと。
本当に他人が憑依しているわけではなく、無意識下でジヨンが自分でそうしてるんですが。
この自己防衛は、大した役には立ってません。周囲と自分に対して「ジヨン限界」ってことを伝えただけです。
そして、夫も母も「ジヨン限界」を知って泣いたりおろおろするだけで、そんなに大したサポートしてないと私は思いました。夫が育休取ったんかどうかは結局分かりませんでしたし。
ラストでは娘の送迎はやってるみたいでしたが…
僕のせいで君はこうなったんだろうかって怖かったと夫は泣きましたが、そのとおりや、死ぬまで詫び続けろって思いました(夫だけじゃないけどね)。
私は、すでに自分ひとりで頑張りすぎてボロボロになっている女本人の現状認識と前進を結論とするのでは、弱いと思います。
もっと夫が母が父が弟が義母が、することあるやろ、それを書けと思いました。
ジヨンのお母さんは、ご自分も辛い半生だったと思いますが、夫(ジヨン父)と息子(ジヨン弟・甘やかされボーイ)に切れるだけかい、と思いました。
いい話だし、みんな見たほうがいいけど、結論がさ。
苦しんでる女本人が、めっちゃ無理してた!死ぬほど頑張っててわたし壊れてる!って気が付いて、ちょっと落ち着いて本当の他人に手伝ってもらって頑張っていこう!って感じにまとめてるんですね。
それじゃたりないよ、『タリーと私…』もそうだったけど、わたしの頑張り方間違ってた(てへ)でまとめたらあかんやろって思いました。
女が苦しいのは周囲=文化・社会がおかしいからですからね。
まだ加害者を甘やかすんかいと思うんですよ。もっとちゃんと加害者に怒りをぶつけないと、またおんなじことにならへんか?って。
映画にするにあたり、取捨選択した結果なんだと思うんですが、もうちょいがんばって!って気持ちです。
とはいえ、未だ日本映画にはない問題提議ですから、その点はありがとうなんですけども。
そしてコロナ禍に加え、鬼滅のなんちゃらの一人勝ちである現在の上映ラインナップの中で、結構埋まっていた席と、そのほとんどが大学生くらいの女の子だったことを思うと、『タリーと私…』のころ(2018)より、確実に世界は前進しているのかもって気はしました。
私自身は、あまりにも世界が男のために形作られていることに絶望してしまっているので、この世界の存続に一切手は貸さん!と決意しております。よって、結婚も出産も拒絶。
恋愛も、男のプライドへの配慮がうざ過ぎて、もう結構ですという姿勢です。
とにかく「男をたてる」ってのがきもちわるい。
女にたててもらわなたたへん男って(下ネタ自重)てことか?寝言は寝て言え!!
って思ってます。
『…キムジヨン…』の中では、ジヨンの姉が一番近いですかね。
原作小説はもっとディープでこんなほわほわでは終わらないとのことで読んでみたいな、文庫になったら。
映画としては悪くないけど、内容は何を今頃!でした。
ベストセラーの映画化で、原作を読まなければと思いつつ、まあ映画が先でもよいかと見に行った。
結婚して専業主婦になればこうなることは見えていたわけで、何を今頃初めて知ったみたいに!覚悟が足らん!と、見ながらイライラした。
韓国が儒教社会で女性が生きづらいのは知っていた。でも映画の中に出ていた先輩のキャリアウーマンが身近にいたのに、母親が自分の人生を諦めた姿を見ていたのに、父親の男社会が当然な態度を見ていたのに、何も学んでいなかった主人公はアホ!
結婚しないお姉ちゃんは賢かったね。
67才の私自身がしっかり自覚して生きてきたから、こういう甘ちゃんには腹が立つ。
「家具付き・セックス付き・一生おさんどんをするから養って」という専業主婦は嫌、専業主婦を強要されたら結婚はしないと宣言した。出産後姑からじんわりと退職を促されたけど、仕事辞めるぐらいなら離婚するとも言った。何より経済的な自立は欠かせない。
夫が「手伝い」をするのは家事の主体は女という考え方。生活のパートナーとして家事や子育てを半分負担するのは当然と、結婚生活は長い長い戦いの連続だった。
勿論、職場でも戦いはあった。
書き出すと切りがないのでやめるが、そもそもの原作がしょうがなかったのだ。映画自体の作りも役者も悪くない。
でもこんなのが韓国で大ブレイクするのか~、悲しいね。
何かを発言するにはよって立つ個人の自立が必要。
韓国女性に頑張って欲しい。
ある意味「女性の敵は女性」
主人公ジョンの結婚、そして出産。旦那の「何も変わらないよ。手伝うから」という能天気な言葉から、結局、仕事を諦め、子育てを全て引き受け、それが女として、母として、嫁としての当たり前とまわりから決めつけられ、自分で何一つ選び取ることができない生活。
彼女は、特別に恵まれない女性なのではなく、ごく、一般的な普通の家庭の女性。やさしい旦那さまと可愛い子供。そんな状態で心の奥が病んでいくなんて、男の人たちには想像できないと思う。
もし、仕事を続けながら子育てをするとなったら、もっと心は病んでいく。
仕事は時短なので、まわりの目は冷たい。子供が熱を出して、保育園が預かってくれなくなっても誰にも相談できず、会社に休みますと言うと、ああ、また、どうせあてにしてないからという空気。病気の子供が心配でも、旦那は夜遅く帰ってきて、口では大変だねと言いながら、どうせ休んでたんだから、家のことやるのなんて当然だよねという声が聞こえてきそうな態度。どうして、自分の子供なのに、ここまで他人事のように全てを人任せにできるのか不思議でならない人と暮らさなければいけない矛盾。
だったら、同じママなら気持ちを共有できるのかと思いきや、私はちゃんとできてるけど、というマウンティングの嵐。義理母だろうが、実母だろうが、だったら仕事やめて、子育てに専念したら?とか、もうちょっと旦那さんに手伝ってもらったらとか、はーーー、それが出来るくらいなら、こんなに頑張ってないんだけど、、、という心の声は、誰も聞いてくれない孤独感。
子供は大好きだし、旦那も好きだし、家庭も大切だけど、どうして私の人生は誰かの付属物のようにならなきゃいけないのか。これを貫き通すのは、そんなに大変なことなのかと、主人公のジョンじゃないけど、現実逃避して、心が折れまくる毎日。。。なんでしょう。
でも、これは、すぐには解決できない世界で、でも、大変で、大変で心が病んでいきながらも必死で子育てと仕事と家事に追われて、気がついたら、10年、15年。子供はすっかり大きくなり、旦那は、もうよくわからない。離婚してるかもしれないし、リストラされてるかもしれないし、家庭内別居状態かもしれない。
きっと、これからも頑張り続けてきた自分を誰も慰めても助けてもくれないかもしれない。
この映画を観て感じたことは、ここで、この時点で諦めないで!ということだけ。
自分のやりたいことも、自分の仕事も、自分自身も。
誰かの奥さんではなく、〇〇ママではなく、自分の名前を呼んでもらえる世界を持つことを続けていけば、必ず、誰かが見ていてくれて、誰かの付属物ではないあなた自身を必要としてくれる。
女性でいることは、虐げられる部分もありながら、ある意味で言えば、それを利用して現実から逃げてしまうこともできる誘惑もはらんでいるのだ。
女性という立場で社会と向き合うのではなく、難しいけど、気持ちだけは、人間として性別を超えて自分自身を自分で背負う気持ちを持って、誰かに頼らない、誰かの付属物にならないと強く思って生きていれば、必ず、いつか報われる時が来ると信じたい。
変えたくても変えようのない社会…
女優さんの美しさに終始見とれながらも、女の生き方の息苦しさ、まるで日本のことと思えるような閉塞感を感じていました。
翻って、今自由に生きている自分も、確か若い頃はモノみたいに扱われたよなぁとか、キレイでいるのは決して自分のためじゃなくて、スペックの高い男に選ばれるためだけで、毎日媚びた生き方が当たり前だったよなぁと思いながら観てました。
ジヨンさん、決して不幸ではないはずなのに、優しい旦那さんと可愛い娘、何不自由なく生きられて、幸せに生きる道だと思って選んだはずなのに、どうして女ばっかり我慢するんだろ。
女が稼げないような給料システムにしてるのも、女を子育てに専念させようという悪意さえ感じた作品でした。
韓国にはまだ兵役義務があるから、当分、女子供という発想が抜けないのかもしれない。兵役義務は気の毒だとは思うけど、だからって男だけが優遇される社会ってなんなの?
盗撮のクダリは、もう嫌悪感しかなかった。…そう、女はモノなんだよね。覗かれて嫌だなぁ、と傷つく気持ちすら想像してもらえない…。
女性の〝世界〟
驚いた。女性には〝世界〟はこのように見えていたのか。
男性が見て経験している〝世界〟とは全く異なる世界を女性は生きていた、、、、。
周囲から出産・育児を求められ、ひとたび出産・育児を担う存在になると社会や公共の場から排除される。セクハラを笑ってやり過ごす〝女らしさ〟を求められつつ、性被害に遭うと〝女らしさ〟を出しているからだと責められる、等々。まるで赤信号と青信号を同時に示される、あるいは青信号の背後に赤信号が点滅しているような錯綜したメッセージが行き交う環境の中で正解を見つけるよう求められるているかのようである。
小説の方も読んではいたが、映画の方が感覚的に女性の〝世界〟を理解しやすかった。また、映画は小説に比べ希望を示唆した終り方であったが、それは悪くなかったと思う。しかし、その希望が、〝病〟を抱えた女性が夫と母の支えによって回復していく道筋として描かれていた事には、やや突飛な印象を持った。キム・ジヨンが抱えた〝病〟は男性中心主義社会からもたらされたものであり、それは、キム・ジヨン一人の経験だけでなく、母や祖母を含めた多くの女性の人生に降り積もった〝恨〟の集約的兆候としての重さを持っていたはずである。だからこそ、その〝病〟は個人的努力や周囲の人の理解などによっては容易に回復できそうにないほど、根深くあるのだと思う。そうした〝病〟が持つ意味合いは小説のほうが分りやすく表現されていた。
私が見た映画館はほぼ満員であったが、その観客の9割は女性であった。日本にも多くの「キム・ジヨン」がいて、人知れず苦しんでいるのだと思う。日本は男女平等指数が世界121位(韓国は108位)であるにも関わらず、女性差別が社会の重大問題として認識されていない。それは、男性中心主義社会の中で波風立てないように生きてきた日本人女性の絶妙な感情コントロール能力や忍耐力の高さ、そして、そうした女性の苦慮があることも知らずに、その上にあぐらをかいて生きてきた日本人男性の無知と無恥の所産であろう。日本の男性中心主義社会は、女性に〝病む〟ことすら許さない病んだ社会なのかもしれない。
この様なフェミニズム映画には、〝男性にこそ見て欲しい〟という評言が与えられる事があるが、本当にそう思った。これほど、女性の〝世界〟を分かりやすく表現した映画を知らない。
他人事ではない
この作品を観て、男性の私が解った様なつもりになれば、きっと作中に無数に登場する「悪意なき加害者」になってしまうことだろう。
そのくらいこの現状は複雑で根が深く、一方で普遍的で、当然韓国だけに当てはまるコトではない。
「女性である」という変えられない現実が、結婚し、夫を支え、男の子を産み、身を犠牲にしてでもしっかり育て上げるという「社会的役割」を強要するばかりか、個人としての自由や尊厳を否定し、物理的、精神的、性的な側面から虐待(ハラスメントなどという表現では足りない)に加担していく社会がここにはある。
私達は、いつだって気付かないところで誰かに何かを強要し、傷付け、自由や権利を奪っているのではないか。
考えだせばキリがないが、これが悪意によるものでない以上、考えないことで確実に被害者が増えていくのだとすれば、やはり我々男性が意識を強く持つ必要があるのだろう。
映画のデキはすごく良いのに、終始居心地の悪さを感じてしまったのは、私の意識が低いからなんだ。
深く反省。
でも、しっかり最後に主人公が一歩を踏み出せたことで少しホッとした。
そうですよねって感じな映画
知らないうちに入っていた見えない檻
私はジヨンよりももうちょっと上の世代だし、結婚も出産もしていないけれど、あるよねと共感するところはたくさんあった。
常識という名の見えない檻が縛っているのは、じつは女性だけではない。男性も縛っている。でも、檻の姿や形を認識していない人も多いから、世の中はややこしいことだらけになっている。檻があるじゃないかと言っても、通じない人たちもたくさんいるからだ。
世間的にみたら、妻想いのやさしい夫を持ち、かわいい娘も生まれ、家族もそろっていて、いい家に住み、不平不満を言うことの方がおかしいと言われてしまいそうな暮らしをしているジヨン。でも、そこにたくさんの檻が潜んでいるからこそ、ジヨンは追い込まれていく。
世の中のたくさんのジヨンたちが、心安らかに毎日を送れますように。
全181件中、81~100件目を表示