「素材に目新しさはないがなぜか時事的にもなってしまう普遍的なイーストウッドの魔力」リチャード・ジュエル nanaさんの映画レビュー(感想・評価)
素材に目新しさはないがなぜか時事的にもなってしまう普遍的なイーストウッドの魔力
最近イーストウッドの映画への食わず嫌いがすっかり治ったどころか彼の映画のファンになってしまった。
やはり彼の映画らしく本作も一筋縄ではいかない映画だ。権威への不審がテーマではあり、映画の描き方や素材の選び方は目新しいものではないが、正義とはなにか、法律的正しさとは何か、刑事裁判・捜査の構造的欠陥、メディアの罪、民主政治基盤の危うさなどなど、映画一本で多くの考察の機会を与えてくれる。
警察や軍など国家的権力に憧れを持ち、権威の正義を信じ、
アメリカ的価値観を疑わず銃を所有し週末は狩りを行い、
正義的行為は常に称賛されることを信じて疑わず、
母親を愛し、
仕事は上司の言うことを聞き真面目に行う愛国者、
ドーナツやクッキー、ジャンクフードも大好き、
私のような外国人から見ると想像でしかないので、外国人が作る日本映画のように間違えた見方なのかもしれないが、
所得的には低層のアメリカ人白人労働者の典型例と思われるのがリチャードジュエルである。
誤解がないように言っておくが、彼の政治的意見は劇中では触れられないし彼の政治的立場がどうという話では決してないのであるが、私の意見としてはおそらくは彼のようなクラスターがトランプ支持者の厚い層を形作っているのだと思う。権威主義であるために煽動されやすい民衆が政治を決めていることへの危うさも思い起こさせる。
時代背景は全く違えど「15時17分、パリ行き」と対になっている映画であることは間違いない。
「15時〜」では軍に所属する若者たちがテロリストを捕まえ称賛された。
若者たちは権威側の人間であり称賛される土壌が整われていた。
リチャードジュエルは権威側の人間ではなかった。
彼の大学警備員時代などの正義感や職務的義務感から来る行動は倫理的正しさはあるが権威的背景をもたないものであり、法治・権威社会では正しいとはされず、権威側からすればむしろ厄介でさえあった。大学学長の意見、つまり高等教育の象徴の意見たった一つがきっかけでFBIが動き始め、犯人に仕立て上げられていく様は恐怖である。
そして真実などは問題ではなく、メディアが権威に操られ民衆を煽動する。
典型的な白人アメリカ人であるが故に、容易に容疑者に仕立てられる。これは統計的に考えれば当たり前の罠なのであるが、つまり容疑者とは平均的な人間であるということだ。
容疑者なんてものはそもそも恣意的な解釈である。
しかも警察はどうすれば有罪になることを知っているから、有罪になるようにストーリーを形成することへプロフェッショナリズムを発揮する。メディアも陪審への影響を発揮することを躊躇わない。
時事的な内容で恐縮だが、カルロスゴーン事件をやはり思い出さずにはいられない。
彼の違法性はまだ誰にもわからないが、少なくとも彼への捜査の端緒も、起訴でさえも恣意的な背景が疑われる。
だが少なくともアメリカでは組織間の独立が保たれ、国家権力が市民に負かされ不正義を突きつけられる自由があり、メディアへの批判も臆せず行われ、映画にも描かれることができる社会である。しかも、驚くべきことにリチャードジュエル彼自身が警察になれる国である。
日本ではおそらく社会的には抹殺されているだろうし、少なくとも警察に就職などは絶対にできないし、メディアも間違いを認めない。
日本では映画やドラマでは警察や検察、メディアでさえも常に偉く権威的で正しく間違いを犯さない存在として描かれる。メディアは権威の失敗を追求せず、映画やその他芸術の世界でさえも権威への批判は自粛される国である。権威の腐敗や社会の無責任は普遍的であるだろうが、個人的自由の追究の価値観や、権威への批判、正義への欲望のない日本という国への失望と危機感を感じる。
リチャードジュエルは言う、正義が正義として認められないのであれば皆が、「第二のリチャードジュエルはごめんだ」と思い1人で逃げるような社会になってしまうと。この世界やこの国はそう方向づいているようでならない。