劇場公開日 2020年6月5日

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「いますぐ逃げ出そう」ハリエット 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5いますぐ逃げ出そう

2020年6月9日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

泣ける

興奮

 夜が最も暗いのは夜明け前だという。使い古されたフレーズだが、本作品は南北戦争の13年前からスタートする。まさに奴隷にとって最も苛酷な時代であった。
 アメリカの独立宣言が1776年、合衆国憲法の成立が1787年だ。福沢諭吉の「学問のすすめ」の有名な冒頭である「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」として紹介されているのがアメリカ独立宣言の思想なのだ。尤も、福沢はその後に、そうは言っても差別はあるから、学問をして自分を向上させなければならないと書いて、現実主義者らしい主張をしている。
 フランスのパリバスティーユ監獄襲撃が1789年で同じ年に所謂「人権宣言」が採択された。そこにはすべての市民は平等で差別されないと書かれている。独立宣言も人権宣言も、人間が作り出した権威や王位などに立脚する封建主義を全面的に否定して、法のもとにはすべての人間が平等なのであると謳う。出身地や家柄などによる差別から人間を解放し、自由に行動する権利があることを高らかに宣言したのだ。
 ところが人間は、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」のイワンの台詞として書いているように、せっかく勝ち得た自由をパンと引き換えに投げ出してしまう。パンを与えてくれるのはすなわち権威であり、権威は差別の基幹だ。人間は長いものに巻かれるのが大好きであり、権威のパラダイムによって自信を得たり生きがいを覚えたり、ときには他人を差別する。

 独立宣言の4年前、ジョン・ニュートンが「アメイジング・グレイス」を作詞した。かつて奴隷貿易で儲け、たくさんの黒人を見殺しにしてきた彼は、難破しかけた嵐から奇跡的に生還したことから、考えを改めて敬虔なクリスチャンとなり牧師となった。曲が付けられて「われをも救いし」というタイトルの有名な賛美歌となった。
 アメリカ独立戦争の前から、黒人はたくさんアメリカに「輸入」されており、キリスト教の権威を叩き込まれ、神の前で欲望を恥じ、従順と勤勉を徳とするように洗脳されてきたのだ。一方で「輸入」し購入した側は、黒人を奴隷として「所有」していると当然のように考えている。言葉が理解できる人間は、動物よりも遥かに役に立つ。家事でも農作業でも一度命じれば繰り返し働くし、練度も向上して生産性も上がる。当時のアメリカの白人にとって黒人奴隷はAIロボットのように便利なアイテムだったに違いない。

 さて本作品の主人公ハリエット・タブマンは奴隷解放に尽力した数多くの有名人のひとりだ。熱心なキリスト教信者であり、ナルコレプシーと癲癇の持病がある。多分に神がかった人なので無宗教の日本では狂人扱いされたかもしれないが、クリスチャンが主流のアメリカでは信じられたようだ。
 キリスト教信仰の是非は横に置いておくとして、ハリエットが大変に勇気と行動力のある女性だったことは確かだ。いくつかの場面で繰り返される「自由か死か」という台詞は、彼女の人生観を端的に示す言葉であり、本作品の世界観でもある。その人生観に従って勇気を出して生きるハリエットの生き方はとても爽快であり、共感できる。
 逃げることは恥ではない。束縛から逃げ、隷属の状況を脱することは寧ろ自然な行動だ。「石の上にも三年」は好きな石に限られる。荊棘(いばら)の上に三年もいたら人格が崩壊してしまうだろう。嫌な上司、嫌な会社、嫌な政治家、嫌な国からはとっとと逃走するのがいい。人類の歴史は戦争の歴史だが、同時に逃走の歴史でもあった。自由のない状況では生き続けるより死ぬほうがましなのだ。無一物、徒手空拳で放り出されても、運がよければ生き延びれるかもしれない。ハリエットの幸運を羨ましがる前に、いますぐ逃げ出そう。
 タブマンは、オバマ政権時代に新紙幣の肖像にすると決定されていた。数十万人にアンケートを取っての1位だったらしいから、統計学的に言えば全米にアンケートを取っての1位と同じである。さすがオバマだ。やることがいちいち民主的である。政権内部の井戸端会議でコソコソと渋沢栄一に決めたどこかの小国とは大違いなのだ。ところがトランプがこれを延期していて、もしかしたらそのまま消滅するかもしれない。アンケート結果を踏みにじる暴挙だ。連綿と受け継がれていく人種差別の先頭に立っているのが最高権力者である合衆国大統領なのである。そんな時期にこの映画が公開されたことは、大変にエポックメイキングである。もしかすると21世紀のアメリカ史にとって重要な意味合いを持つかもしれない。
 タイトルロールを演じたシンシア・エリボの幅のある歌声は、遠くまで聞こえる口笛のようであり、地面から伝わる地響きのようでもある。歌で別れを告げる場面は感動的で、原始宗教が語り継がれるのではなく歌い継がれてきたものであることを思い出した。

耶馬英彦