劇場公開日 2021年2月11日

  • 予告編を見る

「やりきれないこの思い、一体どうしたらいいの」すばらしき世界 羊さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0 やりきれないこの思い、一体どうしたらいいの

2023年12月3日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

かなしい、くやしい、やりきれない、なんで、どうして。怒りと悲しみ…なんだかよく分からない感情が渦巻いて、心が苦しくなる。涙がぼろぼろ溢れて、ハンカチをぎゅっと握りしめて、くやしい…かなしい…って、身体を震わせて泣いてしまう。全身全霊で。

これからってときに、どうして、そんな意地悪をするの。神様。もっと見守ろう、堅気の世界で生き抜く姿を見届けよう、そんなふうには思わないの。神様。

正夫は、人として、いけないことをたくさんした。たくさんたくさんした。堅気として、堅気の人間に支えられながら、不器用ながらに穏やかに生活している正夫を許せなかったですか。

幼い頃に親から愛情を感じられなかった者は、暴力などの非行に走ってしまうという統計が出ているらしい。角田が図書館でネグレクトのことについて調べていて、電話でそれを正夫に教えていた。母のことや、自身の行動の痛いところを突かれ、正夫はもうなにもかもがどうでもよくなって、つくっていたカップラーメンを部屋にぶちまけて、あの世界に帰ってしまった。でも姐さんはやさしかった。この世界に帰ってきてはいけないと、ご祝儀袋と一緒に言葉をくれた。そして自由をくれた。

『シャバは我慢の連続ですよ。我慢なんか大して面白くなか。だけど空が広いち言いますよ。ふいにしたらいかんよ。』

正夫は一人で堅気になれたわけではない。まわりの人がいたから、堅気になれた。狭苦しい世界だっかもしれないけれど、幸せは感じていたと思う。スーパーに買い物へ行く。お米を研ぎ、お味噌汁をつくり、卵かけご飯をかっこむ。洗濯物を干す。教習所に通う。普通の昼の仕事をする。ふつうの生活の幸せ。

正夫のまわりにいる人たち、みんな好きだった。好きだった台詞を残しておく。『もう元に戻らないで』と正夫の背中を流す角田。『三上さんは人間が真っ直ぐ過ぎるのよね。私たちってね、もっといいかげんに生きているのよ。あなた自身を大事にしてほしいの。カッとなったら、私たちを思い出して。ね。』弁護士先生の奥さん。『本当に必要とすること以外切り捨てていかないと自分の身を守れないから、全てに関われるほど人間は強くないんだ。逃げるのは敗北じゃないぞ、勇気ある撤退なんて言葉もあるだろう。逃げてこそ、また次に挑める。』弁護士先生。『向かってきても受け流すんだよ。耳塞ぐ、聞こえないように。深呼吸。』スーパーの店長。

『大事なのは誰かとつながりをもって社会と孤立しないことです。』とケースワーカーの先生は言っていたけれど、正夫はちゃんと大事にできた。だからみんなとつながれて、みんなに就職祝いもしてもらえた。黄色い自転車かっこよかった。心底喜ぶ正夫はまるで、少年のようだった。同じボロアパートの住人に、おはよう!と笑顔で挨拶して、黄色い自転車に乗って会社へ向かった。彼が元反社だなんて、一体誰が思うのか。

本当なら。本当なら。虐めてる奴らに制裁を与えたかっただろう。でも、正夫は堪えた。皆んなの顔を思い浮かべて。陰口を叩き、馬鹿にしてる奴らをポカンとした顔で見つめる。必死に受け流していた。「似てますね…」へらへらと正夫らしくない愛想笑い。暴力でどうにかするしかなかったあの頃の正夫はこのとき死んだ。なんでだかすこし、寂しかった。

嵐が来る前に、と刈り取った秋桜をめいっぱい抱えて微笑む、虐められていた少年。力ではない彼の強さを見た正夫は、自身の小ささと愚かさを感じ、そこはかとない痛みを知る。その痛みは涙となって頬を伝って、沁みていた。

嵐の夜の空気は冷たい。洗濯物を取り込んでいたら、あっという間に雨にまみれた。秋桜と土の匂い。ふぅ…っと息を吐く。きれいな息だ。広い空の下。

羊
PR U-NEXTで本編を観る