種をまく人のレビュー・感想・評価
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演技と暗示的な映像が凄くて見入った
幼い子から年配に至るまで、全ての演者のパフォーマンスが素晴らしくて、複雑な構成や内容にもかかわらず、かなりの集中力で観賞しきったという印象。特に子役の2人は凄かった・・・ 流暢な演技とか台詞というのは少ない。それ故に妙なリアリティーがあって、見ていてかなりつらい。決していい話ではなく、むしろ個人的にはこの設定やストーリーに嫌悪感を持ってしまったけれど、表現したいところは強烈に伝わってくるだけに、作品そのものを嫌だと投げ捨てることはできない。それどころか、随所に見せつけられる映像での展開の見せ方、象徴や暗示といった表現力には秀逸さを感じて、表面的ではない作品の質の高さを思い知らされた。 しかし、どんなに美しく導こうとしても、あのストーリーでは希望は見えず絶望しか感じないというのが率直な感想。 凄い作品だとは思ったけれど、自分の中ではいい映画としてとらえることは難しい。
久しぶりにインディペンデントな日本映画の登場
ディズニーやピクサーといつたハリウッド系の洋画と、一度ヒットアニメの焼き直しや人気俳優を並べて原作を映像化した作品が多いなか、原作・脚本・監督までをひとりの日本人がここまでの完成度で作ったことが嬉しい! けど、どちらかというとミレーの「種をまく人」とかぶりました。
種をまく人、映画の醍醐味を味わう
昔の人は、チャップリンなどの無声映画を楽しむことが出来る感性を持っていたのだろう。そんな感性の持ち主であれば、堪能出来る映画だ。 現代人は情報が溢れ、簡単に調べることが出来る便利過ぎる時代になって、人間の感性が退化しているように思う。 セリフが少なく、情景や役者達の演技、表情によって何を汲み取ることが出来るか。 自分の心が試されているようだ。 家族、子供の心理、親子関係、障害、人との違いや個性、様々なことが2時間に凝縮されていた。 久々に心を動かされる映画を観た。 映像の力を考えると、映画館で観る価値がある映画だった。ただ話の内容が分かれば良いわけではない、それが映画の良さなのだと思う。
静かな映画なのに、大きな衝撃を受けた
今までに経験のない後味を残す映画だった。
見終わって2週間も経つというのにずっと考えてしまう・・・知恵と光雄の幸せを祈らずにはいられない。
スティーブン・キングのミストも、頭から離れない映画で、何ともやるせない映画だったが、ミストとの違いは、ミストには絶望感が残り、種をまく人はやるせない気持ちの中にも希望と祈りのような感情が残ったこと。
どちらの作品も、人間というものをよく描いているなと思う。
誰のことも責められないからこそ苦しい。
知恵の母・葉子から想像するに、きっと母からの深い深い愛を受けずに育ったと思う。それでも、自分はそういう親にはなりたくなくて、愛に満ちた幸せな家庭を築きたいと裕太と結婚した。
それは裕太が、障害のある弟と、純粋な心ゆえに心を病んでしまうような兄、そして他にも障害がある親戚がいるから自然と育まれる優しさや愛を持っていて、葉子が欲しい愛情を裕太に見つけたのだと思う。
そして、愛おしい娘二人が生まれ、幸せな家庭だったのに、ある事件からそれが崩壊しかけて行く。
でもきっとその前兆はあったのだと思う。
葉子は障害をもって生まれて来た次女の一希に、母親としての責任やこの子を守らなければという強い気持ち、母親だからこその様々な感情によって、結果的には知恵に厳しくなったり、一希中心の家庭になってしまったのではないか。
もちろん母の葉子としては、長女の知恵のことだって同じように愛していて大切なのに・・・長女の知恵は自分のことを分かってくれていると思っていたのだと思う。近過ぎて、自分の分身のように思って、知恵にも人格があることを忘れていたのか。いずれにしても、知恵の心の陰りに気付くことが出来なかった。
信じていた裕太が、一希の誕生の時に言った言葉によって、信頼にヒビが入ってしまった。
葉子も苦しみながら、一生懸命生きていたのだと思う。
でも裕太は、一希が生まれて来なければ良かったとは微塵も思っていなくて、だけど障害を持つ子を育てることの大変さ、きれいごとでは済まない現実を知っているから、複雑な想いが裕太に「ごめん」と言わせてしまったのだと思う。
知恵は妹の子守を頑張ったのだと思う。
そして、わざとではないけれど妹を落としてしまった。
その瞬間はパニックだったはず。大好きな両親に見捨てられる、どうしよう、自分は一希を妬むこともあったから、本当はわざと落としてしまったの?グルグル頭をまわり、混乱していたのではないか。
恐怖のあまり、光雄に救いを求めた結果が、光雄のせいにしてしまうことだった。だから、知恵が一番傷つき苦しんでいると思うけれど、心を閉ざした知恵に本当に寄り添うことが出来たのは、やっぱり深い愛を持っている裕太だった。
光雄は、きっとガラスのような繊細な心の持ち主で、心を病み、さらに人の痛みが自分の痛みとして伝わって来てしまうほど感受性豊かでピュアな人間だのだと思う。
事件が起こる前日の夜、知恵との会話の中で、きっと知恵の心の闇に気付き、光雄はとても心配し、自分のことのように胸を痛めたに違いない。
過失か故意かなど関係なく、一希を死なせてしまった責任を感じ、そんな罪を可愛い姪に背負わせてしまったことに、どれほど苦しんだだろう。
一希という大切な存在を、自分のせいで失っただけでなく、知恵のこと、裕太一家のことを考えると、どれだけ苦しかったか・・・知恵が自分に罪を着せたことなど、きっと何とも思わなかったのではないか。あるいは、甘んじてそれを受け入れたか・・・
一希を弔う行動の中で、きっと神に祈り続けたと思う。
その祈りが神に通じたかのごとく、空からあの不思議な音が聴こえて来た瞬間、私も映画に吸い込まれて不思議な感覚になった。
一番最後の場面で、知恵が振り返ったひまわりの中に、一希の姿を見つけたのだと思う。
そして、一希が天真爛漫な笑顔で、知恵に語りかけたのだろう。だからこそ、ようやく知恵の表情が明るく変わったのではないか。
あの家族には、まだまだ越えなければならない山があるけれど、きっとやり直せるはず。
光雄の心の傷も癒える日が来て、いつかまた笑顔で裕太一家と再会して欲しい。
この映画を見て自分なりに背景を考え、最後は「幸せになって」という祈りになった。
もう一つ・・・この映画に感謝したいこと。
それは、自分の子育てに対して・・・
自分で生んだ子でも、別の人格があり、幼くても一人一人に感情があるということ。こんな当たり前のことを忘れて子育てしていたことに気付かされた。
保育園の先生が言っていた「過保護ではなく、お金をかけることでもなく、手間をかけること」という意味が分かった気がした。
映画を見終わって、子ども達の顔が違って見えた。
子どもの声がちゃんと聞こえて来た。私は何をしていたの?
仕事も大事だけれど、目の前の子ども達を見ていなかった・・・と、はっとした。
良い映画や絵画、音楽・・・そういうものに触れて、感性を鈍らせないようにしたい、改めて思った。
感性が鈍ると、自分の人生は味気ないものになってしまう。家族の大切さが当たり前になってしまうほど、鈍い人間になってしまう。
深く深く色々なことを考えさせられた。
種をまく人を見て
映画を見た🎥いつぶりだろう?友人の勧めで普段なら興味を持たないであろう単館上映の映画館へ。映画館で映画を見るのは…子供達の映画を一緒に見て以来。ゆえに恐ろしく強烈に心を揺さぶられた。2時間で最初の30分は仲睦まじい家庭の風景をほのぼのと心地よく感じていたところ、そこからは自分の人生振り返りながら人それぞれの価値観と様々な想いを感じ考えながら見ていたらあっという間に終わってしまった。 ネタバレ出来ないので中身には触れられないが役者皆さんが素晴らしかった。 後々知ったが海外で評価されている通り素晴らしい内容であった。 私の両親も聴覚障害者である。しかし私に何も不自由を感じさせる事なく育ててくれたことに対し改めて深く感謝を感じる事が出来た。 池袋にふと寄れる圏内の方は是非見ていただきたいです。2千円しないで濃密な2時間を過ごせます。この映画に臨むにあたり想像絶する減量をした岸健太朗さんの演技。劇中違和感なく際立った存在感でした。中島亜梨沙さん初めて拝見させていただきましたが、最も憎らしく、最も美しく、目を離せませんでした。他SNSで拝見しいっちゃんが元気そうでとても可愛かったです。 #種をまく人 #sowermovie #岸健太朗 #竹内洋介 #中島亜梨沙
向日葵に託す明日への光
この世界ではなかなか生きるのが難しいと目されるも根底には不器用さと寡黙のうちに弛まず流れる優しい人々のあたたかみが常に流れる難しくも救いそのもののような映画。 要所であらわれる美しい映像とじっくりと対象と向き合うカメラワークは丁寧に命をたちあげる。 向日葵が死んでいった幼子の生命の象徴であるか、いや 罪を被った光雄の祈りそのものか。 世界各国で賞を受賞したとのこと。インディペンデント映画でここまでのクオリティを出し、仕上げるのは監督や映像監督などセンスといいべきか。そこもまた驚きの一つ。 上映館が少ないのが残念、上映館 上映時間ともに増えますように。
生きるとは
全てを受け入れて種をまき続ける光雄の姿が全てを物語っている。 何があっても受け入れ前に進むしかない。 でもそんな容易く受け入れられるわけもない。 愛する人を恨むかもしれない。 と自問自答しては光雄の姿を思い浮かべる。 じっくり自分自身について考える機会を与えてくれた映画
とても考えさせられた
感情や悩みというのは、大人だけではなく子どもにも当然あるが、子どもが小さければ小さいほど、大人はそれを軽くみてしまうところがあるように思う。 世の中は色んな人がいて、世界は広い…けど住んでいる世界は意外にも狭い。 そして、子どもは経験や知識も少ないだけにその世界はさらに狭く感じ、悩みがあれば、大人以上に深刻に考える子もいる中で、この映画は両親を含めた周りの目、自分の置かれている状況、子どもの感情を、とても上手く表現している。 けして他人事ではなく、考えさせられる映画だった。
いつまでも味が出る映画だと思う。
人間は単純な側面をもちながらも、強い感情が入ると途端に複雑な考えや行動を取ったりする。 極端な例でいえば、、、 相手を愛するあまり完璧を求めてモラハラをしてしまったり、病に苦しむ姿を見れず愛する人を殺めてしまったり。と言うように、気持ちとは真逆と取れる行動に出てしまうことがあると思う。 この映画で起こる「病や障害を持つ人がいる一族の負の連鎖」も似たようなところがあるような気がした。元々はどこにでもある明るく幸せそうな家庭であるのに、ひとつのきっかけが大きな歪を生んでしまう。 それでいて、最後まで語られていないのに確かに救われたような気分になるのは、終盤の描写によって緊張から一気に解放されるからなのだろうか? この映画は良く噛み締めて観るべきであり、いつまでも味が出る。 今まで出会った事のない映画だった。
家族とは…愛情とは…優しさとは…
子育て中だとなかなか映画を観る機会が無かったのだが、子どもも一緒に観られると聞いて、家族で観に行った。
一緒に観た主人と感想を話していてふと思ったのだが、この映画の感想を聞くと、心に闇を持っているのが分かる気がした。
いわゆる毒親に育てられた主人、母親の愛情を受け取れずに育ったため、屈折した部分があるのを私は最近になってようやく受け入れることが出来ているが、そんな主人が、この映画を観て「泣きそうになった…」と。主人の心に突き刺さる何かがあったのだと思う。
私自身も衝撃を受けた。母親の葉子に、自分が重なってしまったからだ。
私には二人の娘がいて、下の娘は障害児ではないが、長女のような賢さもないし、おとぼけだし、色々なことが出来なさ過ぎて、それが何だか癒される。
二人の娘に同じように愛情を注いで育てていたつもりだったが、実際には次女を可愛がって長女には厳しくしていた自分に、この映画を観て気づかされた。
だから、長女が次女に対してどんな気持ちを持ってるのか気になったのだけど、長女の感想が「ちえちゃんはわざとじゃないんだよ」と言ってたし、光雄おじさんのことを「ちえちゃんが可哀想だから、自分は黙ってほんとのこと言わないんだよ。だってわたしだって可哀想な小さい子を見たら、自分はどうでもいいって思うんだよ」と言ってた。
長女の感想を聞き、わざとじゃない、と思ってくれたところに救われた。
実際には故意か過失か…その前提をどちらで観て行くかで、映画が違うものにみえる。
セリフや説明的な場面が少ないからこそ、登場人物の表情や顔色、映像の流れとかを追って行きながら、気持ちを読んで行くと、あっ、そうか!という感じになった。
ついついセリフとか説明的なものに頼りがちだけど、むしろ娘のように感性で観た方が、映画の内容を受け取ってるように思った。
私たちは普段の生活の中で、その人の言った言葉だけではなく、表情だったり顔色だったり、目の色や行動を複合的に見て判断しながら人と関わっていると思う。そんなふうに映画を観ると、見えて来る世界が違ってくる。
子育てしているママさんに、是非観て欲しいと思う映画だった。
誰よりも純粋で心優しい光雄と、家族思いで人に対して分け隔てなく心の優しい裕太、弟も障害がある…きっと彼らが生まれ育った環境がそういう人格を築き上げたのかなと思うが、唯一光雄と裕太と違ったのは、自分の家族を持っているかどうか…なのかなと思う。
どんなことをしてでも、裕太は家族を守り抜く決意をしたのだと思うが、それが切ない。
よくある映画のハッピーエンドとは違って、現実にはこうなのかもしれない。善悪では判断出来ないからこそ胸が張り裂けそうで、自分の生きている現実の世界と重なって、自分自身と向き合わずにいられない。
最後のシーンが頭から離れない。
裕太は兄想いの本当に心優しい人なのだと思う。でも、苦渋の決断で病院へ兄を戻してしまったのか…兄の最後のあの表情を思い出すと涙が出て来てしまう。
それでも、何をしてでも守り抜きたい、家族とはそういうものなのだと、改めて思った。
再生と自分自身の物語
なんでも簡単に調べられ、多数派による正解(らしきもの)を与えられ、それで判ったような気持ちになる現代。これほどまでに不親切な表現は昨今なかなか見かけないなぁ~と言うのが僕が最初に思った感想です。それも扱っているテーマが「人はどうあるべきか」「生きるとは何を意味するのか」と言った普遍的、且つ宗教的価値感を持たない限り答えの出無いもの。白石一文なら作中で雄弁に語ってくれるでしょう。一方この映画の監督は黙っているように見えます。いやむしろ私たちといっしょに観ているのではないでしょうか。これ、皆どう思うんだろう…。そして自分はどう思い考えるんだろう…。
さて、映画の登場人物は平穏な日常の流れの中でごく自然に(!)追い込まれて行きます。「真摯であろう」「人間的であろう」とする心やさしい市井の人々が、究極下の己の選択に大きな苦しみを背負う事になります。これでもか、これでもかと。本質的に正解の無い答えの連続。これに観客は同じ人間として不安感や居心地の悪さを感じます。加えて全編に渡り全く説明的で無い展開。これにある人は意味不明と思い、ある人は苛立ちを超え憤りさえ感じるのではないでしょうか。それはこの映画が本気で自分自身と向き合った人でしか、価値を見出せない事を現しているからだと思います。誰でも自らの心の深淵を覗き込む事には苦痛と恐怖を伴う事が多いからです。
映画では理不尽な罪を背負わされた光雄が最も苦しいようにも思えます。しかし彼は人間が「起こしてしまったこと」に対し深い悲しみはあるが、誰よりも早く受け入れ弔いと祈りを捧げる事に邁進します。むしろ彼が心を痛めているのは、はからずも自らに罪を与えてしまった智恵であり裕太であり葉子なのです。光雄が思いついた行動は時系列で見舞金を渡す、石を積み一希を弔う、彼女を象徴する石を見つけ葉子に渡す、最後に一希の象徴としての向日葵の種を蒔く…と言った順番でしたでしょうか。彼は迷いなくひとつの信念に向かって行動することが出来るため救いがあるように感じました。一方で智恵、裕太、葉子は己の判断の上、生きていく上で拭い去れないほどの罪を背負っていきます。光雄はそれを感じ一希の為、そして家族の為に「一希が生きていた証」を残すため、ある種建設的な動きで種を植えていきます。それが智恵と裕太の希望の光となるのでしょうが、これがおいそれと「救い」になるとは私は言いきれません。ただこの映画と登場人物に何度も自らを重ねる事で、世界の見え方が昨日と少し変わるのではないか、そんな風に思いました。
秘匿
両親が仕事で不在の折、10歳の女の子と妹でダウン症の3歳の女の子と、子守りを頼まれた旦那の兄が訪れた遊園地で起きた悲しい出来事から巻き起こっていく話。 兄=伯父さんがトイレに行き帰って来ると既にことは起こっており、後に何が起きたのかを問い詰められた少女は嘘をついてしまう。一方、伯父さんは何も語らずという状況で展開していく。 非常に重く悲しく痛い話であり、それを強調したい為であろう長~いシーンや間は判るけれど、演出やリアクションに教則ビデオの様な古臭さとか安っぽさを感じてしまうし、何をしたいのか、何でそうなるのかが良くわからないシーンもチラホラ。 子供に何を背負わせるつもりだよと感じるチグハグな母親のリアクションの件とかを考えると、何を伝えたいのかもわからなくなってくる。 結局、伯父さんをみせたかったのか、それに対する少女をみせたかったのか、母親を発端とする家族の変化をみせたかったのか、その全てをみせたかったのか。 これだったら嘘をついたところまでの設定を投げ掛けて、後は勝手に想像して下さいでも大して変わらない様な気がする。 色々中途半端で余計なものを削りまくって一点を強調し、半分以下の尺でつくった方が伝わるし、冗長にならずに済むんじゃないかな。
私にとっては、とても不親切な映画でした。(追記あり)
舞台挨拶で監督が仰ってました。
精神障害を抱えるゴッホが、もし、絵画という手段を持たない現代日本にいたら、ということを想像しながら書いた脚本だそうです。実際に画商の弟がいて二人のやり取りが残された書簡集を参考にしているとも。
その前提がない人間が見ても分かるように作ったのか、書簡集のどこいらあたりをキーと考えたのか、或いはヒントにした程度で大胆に改題、意訳しているのか。
進行役のジャーナリストの方もその辺のことを聞いてくれなかったので、振り返ってみて、あのシーンはそういうことなのか、みたいな後から理解が及ぶ場面が、少なくとも私には思い当たりませんでした。
一般的には、舞台挨拶があるとそれなりに作り手の思いが伝わってきて、映画そのものプラスαの印象となるはずなのに、プラスαがないまま、このレビューを書いてます。
精神障害で入院していた兄が退院して帰ってきたところから始まりますが、そういった方の不安や予後のあれこれについて何も知らない人間が見て、そういうものなのか、と分かるようには作られてはいません。また、映画における事件当事者の小学生の少女も事件後は終始下を向き、ほとんどセリフがない演出となっており、心理状態の機微や変化についての手掛かりも与えられません。もちろん、私の理解が及ばないだけかもしれませんが。
悪く言えば、とても不親切な映画。
文脈とか余白を自分で補うのが割と好きという方や、想像力に自信のある方には余韻の残る映画かもしれません。
個人的にとても気になったのは、映画の売り方としては、ポスターにも書いてある〝罪を犯した少女〟が中心で、その再生・リスタートの話だと思ってたのですが、舞台挨拶の雰囲気や発言からすると、ゴッホとヒマワリこそが、監督の描きたかったことで、少女の今後の立ち直りを支えるべき周囲の環境についてはほとんど絶望的なまま放置されており(唯一の救いは父親とのコミュニケーションはなんとか回復したこと)、子どもたちについての視点がかなり軽視されているように見えたことです。
※違っていたらすみません。私にはそう見えた、ということが前提で書いています。
監督が何を描くのかは勿論自由で、口出しするのはお門違いですが、もしあまり描く気のない部分を〝売り〟にしているのだとすれば、そこについてはかなり違和感がありました。
以下、追記(2019.12.3)
『知恵の罪』についてあまりにも丸投げ、というより放置されているので、自分なりの考察を追記します。
知恵の犯した罪とは?
映画の中では明確にされていませんでしたが、未成年としての責任能力の有無は無視し、動機という観点から考えると下記の三点が考えられます。
①過失致死(殺意はなく、支えきれず落としてしまった)
②殺人(瞬間的なものだとしても、嫉妬心や両親との関係性の中で生まれた明確な殺意あり)
③未必の故意(明確な殺意はないが、致命的なことになるかもしれない、との可能性の認識はありながら落としてみた)
いずれにしても、「自分のせいで妹を死なせてしまったという事実」と「精神障害のあるおじさんに罪を転嫁したこと」についての罪悪感が、これからの人生につきまとうことは間違いない。
自分なんか生きていく資格がないと自傷行為を繰り返すようになったり、一見健やかに成長したとしても、恋愛や結婚がリアルに感じられる年齢になった時に、自分の子どもをまた死なせてしまうかもしれない、という恐怖心が蘇ることもあると思います。
勿論、そこまで先のことを映画で描く必要はないですが、少なくともこれからの知恵のトラウマを抱えた人生、贖罪の気持ちを誰がどう受け止め、理解者として見守るのか。未来に向けた展望が、知恵個人にのしかかったまま、何ひとつ見えてこない。
まさか、自分の力で解決しなさい、ということではないと思うのですが。
個人的には、知恵の犯したことは③未必の故意によるものだと考えています。
嘘をつき続けることを母親が強要したことで損なわれた母娘の信頼関係、夫婦の実家同士の差別的見下しの混じった不信感。こんな下衆な環境で、知恵が真っ当な人間に育つためには、周囲の人間から影響されないような強靭な精神力が必要ではないか。
逆説的に言えば、服役中のおじを除き、周囲の人間を誰一人信用しないところから始めないと真っ当な人間にはなれない。
知恵のこれからという目線でこの映画を見ると、トラウマを抱えた小学生の子どもが自力でなんとかしていくしかないような絶望的な状況しか描かれていない底無しの恐怖映画のようにも見えてしまう。
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自分と異なる見方のレビューについて、とても興味深く拝読しました。そのうえで感じたことを追記させていただきます(2019.12.17)。
k1412さんのおっしゃる、本気で自分自身と向き合った人、というのは現実世界に留まらず、哲学的、或いは観念的な世界にまで分け入って自身の心のありようや生き方についての思索を深めた人、というような意味合いでしょうか。
だとすれば、この映画は一見リアルな世界でリアルに悲惨な事故もしくは事件が起き、リアルに知恵のトラウマを抱えたままのこれからの人生については救いようがない絶望的な状況で終わらせていましたが、それらはあくまでも観念的な世界での光雄の寓話を際立たせるための道具立てであり、現実的な世界での知恵の先行きについて想像力を働かせるようなことは筋が違う。そんな解釈も成り立つということになるのでしょうか。その場合、警察の介入や真相究明についてのぞんざいな扱いも観念世界ではさして意味がないので、色々な疑問符についてもさほど気にする必要はない。
確かにそういう見方(リアリティではなく観念や感性に訴える)でこの映画を見れば、光雄の行動に現実世界を超越したある種の心のあり方が見えなくもないのかもしれません。
ただし、もしそのような観念的なものが主体の映画なのだとしたら、一見重いテーマに見せながら結果的に無意味にしか思えない『子どもの罪』など描くべきではなかったのではないか、という思いはどうしても拭えません。
児童虐待や子どもの人権に関心のある者(私もそのひとりです)からみたら、大人たちの身勝手な振る舞いは光雄の無垢さを浮かび上らせるためだけで、知恵の存在は映像美や悲劇性のために使われたとしか見えません。
過失にせよ、殺意があったにせよ、光雄の行動が知恵に精神的な十字架を背負わせることに変わりはないわけで、優しそうに見えて実は知恵の法的な罪を先送りさせているだけ。かえって数年後に、もっと大きな精神的ダメージを負わせることになるかもしれないという残酷さも備えていますが、観念的な快復やある種の解脱のようなものへの道筋すら描けていません。
みなまで言わすな
この映画の面白いところは、台詞が少ないわけではないが、説明的にならず、「みなまで言わすな」とばかりに、台詞のない演技で状況を語らせ、ストーリーを展開させるところだ。 寡黙であるべき兄・光雄や長女・知恵だけでなく、他のキャストも同じで、そのためドラマっぽくならずに、リアルに迫ってくる感じがある。 始めから1/4くらい進んだところから、もはやストーリーは大きく動かないが、たっぷり時間は残っている。 そこで、残りの時間は4人のメインキャストと、彼らの間の関係性の変化を、丁寧に描いていく展開になる。 そうであるがゆえに、「みなまで言わすな」が最後に裏目に出たのか、じっくり描かれたストーリーのラスト15分くらいが理解できなかったのは残念だった。 なぜ光雄は病院から・・・。知恵の罪は、罰は? 自分が不注意だったのだろうか? そうかもしれないが・・・。 2015年に撮影され、海外の映画祭を回って、そして今回公開となったようだ。次女・一希役の子は、今や7歳である。 「みなまで言わすな」の映画が、以心伝心の日本ではなく、2016年に海外で賞を取ったというのは興味深い。 沈黙の演技であっても、描写が具体的であったためだろう。 なお、ゴッホの「ひまわり」や「種をまく人」の絵、東日本大震災、ダウン症については、この作品の着想源になったようだが、いずれもこの完成作品に直接的な関係はない。 もちろん“種をまく人”は出てくるのだが、それらを当てにして観に来ると、期待外れになるだろう。
家族と親子の姿を描いた本年最高の邦画
種をまく人 は家族や親子を描いた作品としては、本年一番の邦画作品だと思う。 どのような人であっても誰かには尊い存在であるということを母娘、家族、社会からのフィルターを通して見事に映している。 鑑賞後は、幸福な肯定感に包まれることも本作の深い魅力だろう
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