「危険の凡庸化への抵抗」マイ・フーリッシュ・ハート anguishさんの映画レビュー(感想・評価)
危険の凡庸化への抵抗
クリックして本文を読む
『Born to Be Blue』は,クスリに再度手を出すことで,愛する人を失うという悲劇で終わっている.そのような意味では,世界の「道徳的」秩序のなかで,ある意味「安全な」映画になっていた.
しかし,現実の悲劇は単純ではなかった.このあと,チェット・ベイカーは,例えば,ポール・ブレイと『Diane』などという,すごいレコードを出したりしてしまう(映画の中の死を伝えるラジオで流れていたのも,このレコードのバージョンだったと思う・・・).
クスリまみれの生活と音楽という,道徳的危険水域にあえて入り込もうとするとき,どうしても工夫が必要だった.彼の音楽にはクスリが必要だったと言うのも,クスリまみれだったのに音楽はすごかったと言うのも,「危険」の安全な,または凡庸な言い訳にすぎないように思う.
その工夫として,音楽家の闇の部分を「法の番人」の闇の部分に重ね合わせ,それにより,闇の部分と音楽そのものとの距離を作る(闇と音楽の間をつなぐ,いわば順接・逆接いずれの接続項をも排除する)という作戦に出たのが,この作品であるように見える.二つの闇の物語を重ね合わせるやり方は,結構おもしろかった.が,音楽家に思い入れのある人たちには,逆に,作り出される距離が過剰となり,刑事の物語がうるさく感じられるかもしれない.
ともあれ,危険な領域を危険なままに扱うことの困難さを,この映画は,あらためて教えてくれるような気がする.
コメントする