良質なドキュメンタリーは正義の所在を問わない。そこには対象の言動・行動を眼差すソリッドな視線だけがあるべきだ。したがってドキュメンタリーの作り手に求められるのは、彼らに境位を合わせ、同じ目線で動き続ける真摯さだ。
しかしこれだけではまだ足りない。出来上がった作品が狂信や陰謀とどのように一線を画しているのかという点について、ドキュメンタリーは明確な答えを用意しなければならない。そうでなければ作品は生真面目な記録映像の域を出ない。もっといえば狂信や陰謀をそのまま伝播させる害悪と化してしまう。
本作はこうしたドキュメンタリーの陥穽にきわめて自覚的な秀作であると感じた。
監督・小路谷秀樹が対象として見定めた自称「UFOを呼べる男」=庄司は撮影対象としたきわめて危うい。もちろんはじめこそ見た目のポップな胡散臭さも手伝って、危うい感じは抑制されているが、薬物所持疑惑によって彼が東京拘置所に収監されたあたりから雲行きが怪しくなってくる。コイツはただの面白おかしな近所のオッサンではなく、「普通の人々」と根本的に生活の論理を異にしている異世界人なのだということが徐々に明らかになっていく。
思えばこの流れはオウム真理教とお茶の間の距離感の離合と似ている。麻原彰晃はそのポップネスゆえにお茶の間から「変人タレント」として一定の支持を受けた。しかしだからこそ人々はそこに懐胎された悪意を見抜くのが遅れた。
本作もまた庄司の面白おかしさに目を向け、彼の動向を追い続けているという点では、オウム真理教を小馬鹿にしながら遠巻きに観察していたお茶の間の人々と大差がないといえる。しかし小路谷はそこに実直な批評的視点を挿入する。
中盤、庄司が撮っていたUFO写真が実はトリックによるものなのではないかという疑惑が持ち上がる。小路谷が別撮りしていたカメラに、庄司がスマホの前で針金のようなものを揺らしている様子が映り込んでいたのだ。小路谷はそれについて庄司を問い詰める。
これだけでもじゅうぶん批評的といえるのだが、さらにすごいのはこのシーンだけ三人称的な撮影手法がとられているという点だ。それまでは小路谷本人がカメラを回すという徹底的な一人称的撮影手法がとられていたのに、ここでは小路谷はカメラを第三者に明け渡し、自らも一人の対象としてカメラの前に現れる。
撮る者/撮られる者の間にはある意味で権力の勾配とでも形容しうる格差があるわけだが、小路谷は自らを「撮られる者」という弱い立場に晒すことで庄司と同等の境位に立ち、その上で彼に批判の目を向ける。これはドキュメンタリー作家としてきわめて倫理的な態度だと思う。
…などとツラツラもっともらしいことを述べたあとでこんなことを言うのは完全なるワガママなのだが、クソ真面目なドキュメンタリー映画というのは、それはそれでクソほどつまらない。
本作はドキュメンタリーの倫理として守るべきところはしっかり守りつつも、基本的には「変な奴を撮りたい」「受け手をおちょくりたい」という作家的欲望に忠実だ。
ラストシーンのUFOを呼び出すシーンなどは庄司の異常性と映像の迫真性が相まってリアルとドキュメンタリーの境界が激しく揺れ動く。その向こう側で一人ほくそ笑んでいるであろう小路谷の顔を思い浮かべると、怒りや悔しさより先に悪戯っ子に対する柔らかな諦観のような感情が湧き上がってくる。